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短編小説 『月もまた光る』-前編-

あらすじ-
町から離れた丘に住むシスターと呼ばれる女性。彼女は両親を事故で亡くし、塞ぎ込む日々を過ごした。
とある理由も重なり町に行くことを避けていたが、しばらくぶりに町へ訪れることにしたシスター。その行動がまたひとつの事件を生むきっかけになるのだった。

月もまた光る -前編-


 匂いがした。
 香ばしく、柔らかく、暖色で包まれる、そんな匂いがした。
 タイミングが良かったのだ。
 もう少し早かったら、それとも遅かったら。ちょうど良さに演出をしてはいけない。狙いすまして、時間を計って、それでいて目的を持っていたなら、この感覚を得ることは出来ない。
 いらっしゃいの言葉よりも、喜ばしいお出迎え。手繰り寄せた匂いと共にドアを開けると、小気味よい鈴がリンと鳴る。私は、幾人かのお客に混ざり、小麦色を圧縮した美味しい品々に眼を向ける。今日の昼の分、それから明日からの日持ちする分、それらを選び抜き、店主に細指で告げる。
 口元に笑みを添えた店主は「ジャムはいかがかな。お好きな赤いジャムも間違いないが、昨日こさえた新しいこの青いジャムも絶品だ」
 店主が棚から取り出した透明なビンは、日の光に反射して、中の青が薄く透き通っている。
「何の実なの?」
「北部の大商団が先週来てたのさ。南方の大都市への道中だったみたいだがね。留まっていた短い日の間、商いをひらいてたんだ。そこで、この青い実を見つけた。一粒頂いたらさ、これがまた甘さと酸っぱさが抜群で!ジャムだ、ジャムにしたら、間違いないぞって、その場で見えちまったのさ」
 その青い実も、ひと目見てみたかったが、もう全部すり潰してしまったとのことで、見ることは叶わなかった。ひとビン追加して、買い物カゴに入れた。
「次に、手に入れたら、いくつか取っとくよ」そう言って、店主は袋に入れた品々を渡してくれた。
「ありがとう、その時にまた来るわ」と、私は店を後にする。

 小さい頃は、この町に買い物に来るのも一人ではなかった。父がいて、母がいて、いつもどちらかと手をつなぎ、左右騒がしく興味を向け続ける私を、時には抑え、時には引っ張られて、店先を渡り周った。その頃の私は、必要なものではなく、欲しいものに、惹かれていた。甘いお菓子が並べられたお店、風変わりな動物の人形を並べたお店、店先で演奏をする何を売っているか想像もしなかったお店、そんなものにばかり目を輝かせていたと思う。
 重ねた年月は、そのままでいるには、長く過ぎていた。今はもういない父と母。どんな気持ちで、私と歩いてくれていたんだろう。想像は自由だけれど、たどり着く着地点は、いつまでも見つからなそうだ。

 ひと通り買い終わったのは、昼はとうに過ぎたけど、夕刻と呼ぶにはまだまだ早い、空気が弛む時刻だった。そんなゆるりに身を預けて、どこかでゆっくり温かいものでも飲みたい。だが、町の中で溜まった疲労に、早く帰ろうと囁き続けるもう一人の自分がいる。
 久しぶりだったからか、買い過ぎてしまった荷物は、これを持って家路につくのかと思うと、ため息しか出ない。頭によぎり続けていた嘆きだけど、欲に負けて、あれもこれも買ってしまった。嘆きの脆さは、いくつもの歴史が証明している。奇跡が起きて距離が縮んだり、荷物が軽くなることもない、時間だけは断りもなく過ぎていってしまうのだから、覚悟を決め、歩き出した。
「いきますか…」
 見上げた空は、東からゆっくりと雲が流れている。雲は摘まめば弾力がありそうなぐらいふんわりとしている。空に暗さが板につくまでには、家に着くといいな、そうぼんやりと頭に浮かべた。

 腰の高さに草花が生え渡るなだらかな小道を歩いていると、その草花にちょうど隠れるぐらいの背の少女が向こう側から歩いてきた。その少女は、何かを見つけたらしく、スッとしゃがんで道の脇に逸れた。
 なんだろう?
 そう思って眼で追っていると、どうやら花を見つけたらしく、それを摘もうとしているみたいだった。家に帰って母親に見せるのか、友達にプレゼントするのか、それとも自分の部屋に飾るのか、どれなのかは想像に頼るのみ。ただ、その花を通して、少女は楽しいこと嬉しいことをイメージしているのは、その表情から見て取れた。
 横を通り過ぎようとすると、ちょうど少女は立ち上がり、振り返ったところで目が合う。軽く手を振ると、少女はにこやかに手を振り返してくれた。黄色の服に、桃色の花が映えている。
 魔が差して、私は少女の心に揺らぐ楽しさを摘まんだ。
 少女は花を摘み、私は少女を摘む。
 柔らかそうな薄い眉を動かし、不思議そうな顔を一瞬した少女だったが、小走りで私が来た道を駆けていった。
 しばらくの間、振り返ってみていたけど、少女は振り返ることはなかった。

 何かを盗むことは罪になる。
 誰に教えてもらったのか。まだ、あどけなかった私に、両親が教えたのか。周りの大人たちの振る舞いを見て、感じ取って理解したのか。記憶を辿り寄せても、その先はいつまでも見つからない。当たり前と腑に落ちていることは、どんなことであっても同じようなものだろう。
 私がこの不思議な能力に気づいたのは、父と母が繋がるように亡くなって、すぐ後のことだ。素朴ながら、温かみのある家庭。不自由と呼べるものは、なにひとつなく育った。二人の仲は睦まじく、その間に私が入って、何よりも幸せだった。
 だけど、あいだにいた私だけがひとり、この町はずれの家に残ってしまった。四つの感情から、二つがぽっかりと抜け落ちて、何をするにもぼんやりとただ過ごす日々が続いた。
 そんな時、必要に駆られて、重い心を引っ張るように町に出かけたあの日、昔の私たちのように、笑顔溢れながら買い物をする家族を見た。見てしまったと言ってもいい。その、あまりに嬉しそうな兄弟の顔を見ていると、灰色に濁った液体を混ぜ込んだような感情が、ふつふつと沸き上がったのだ。頭では押さえたい理性が働いていたが、そんな蓋はあっさりと外され、それは漏れ出てきた。理性と感情が、白と黒の勢力でぶつかり合って、どうしようもないほど体の中でせめぎ合った結果、外側から盗み取る力が生まれていた。
 目の前にいる、4人家族から、ほんの少しの感情を盗む。それは、見えない手で、他人の体に忍び込み、指でつまめるほどの感情をいただく力だった。その正の感情を4人分少しずつ盗ることで、私の心は落ち着き、穏やかに凪いた。
 その日、わたしは他人の楽しさを盗むちからが、自分にあることを知った。

◆ 2 ◆

「シスター、いる?シスター」
 違うわよ、以前はそう言って、その名称を否定していたが、今ではそれもやめてしまい、受け入れている。教会に住んでるから。そんな理由で、子供たちが私のことをシスターと呼び始めたのは、もうどれぐらい前のことだろうか。
 町から半日歩かないとたどり着かない私の住居は、教会ではない。ただ、正面中央の大きな窓や、高くて青みのある屋根、それから小高い丘の上に建っていることで、遠くから観ると見事に教会のようなシルエットをしている。私自身は、十字架も持ってなければ、神に祈ることもない日々を過ごしているけど、今では、子供たちに続いて、大人たちもシスターと呼ぶようになってしまった。みんなシスターではないことを分かりつつ、シスターと呼んでいるのは明白なので、もう否定はせずに、諦めてて受け入れている。
 両親はそのように呼ばれていなかったのに、何故か私だけがそう呼ばれている。呼ばれる側には、呼ぶ側の理由はいらないのだろう。愛称は、呼ぶ側からの好意に基づいているのだ、と思うようにしている。

 庭で読書をしていた私は、訪ねてきた少年に「外よっ」と、声をかけた。彼は、薄茶けたドアを遠慮なくドンドン叩きながら呼んでいたが、中に私はいなかったのだ。
「あ、シスター、元気? これ母さんから」
 受け取ってみると、それは香辛料だった。手に収まる透明なビンの中には、隙間が見えないぐらいに粉末が詰まっている。どんな料理に入れても、たったひとさじで引き締まる味わいになり、好んで使っている一品なのだ。
 町に赴く頻度も減り、日々必要な食料などの買い物は、北部の中心街と行き来する商人馬車が通る際、運ぶ荷の中から選ぶことで済ませていた。だが、その中にはこの香辛料は無かった。
 肩を落としているのを見た馬車の男が、町の商店に伝えてくれたのだろう。少年の母は、この香辛料を扱う店主だったはずだ。
「ありがとう、とても驚いたわ。でも、嬉しい」
 少年は目を逸らして頷いている。そして、もぞもぞと腰のあたりに手を突っ込んだと思ったら、紙きれを差し出した。
 何だか分からないまま受け取ると「じゃあ」と言って、すぐに帰ろうとするので「少し休んでいったら?それに、お金も…」と声をかけたが「いいよ。あ、それ、お祭りのだから」と、手を振りながら走って行ってしまった。受け取った紙きれには日付が書かれていた。
 ここまでは、荷馬車に乗せてもらってきたようだが、帰りは歩きになるはず。わざわざ遠いところまで来てくれたことに感謝を表したかったが、そんな間もなかった。
「またね」と惜しみながら、少年を見送った。

 シスターハウスが、人差し指の上に乗るぐらい小さく見える。
 それぐらいまで離れてから、少年は一度振り返った。ドアの前にシスターはいなくなっており、そこには程よく澄んだ空と、やはり教会のようにしか見えないと改めて見てもそう思う家だけがある。
 揺れる荷馬車に乗り、何度も尻をぶつけ堪えていた道中、少年はシスターに荷物を届けたら、あわよくば上がり込んで、彼女の作ったお菓子を食べられたらと期待していた。母親からは、配達料ねと、幾ばくかの小遣いをもらっていたものの、それだけでここまで遠く来るのは、少年としても選びたくはない時間の使い方だ。他に期待していることがあったのは否定できない。
 「なんか…ぅうん」
 周りの木々に届くか届かないかの小さな声。少年の不安と悩みを聞いてくれるものはいない。町に帰っても、少年の語彙力では、説明して友人や家族に共感を得ることは厳しいだろう。
 前と違う。
 ただ、なんとなく、シスターの表情から感じ取れるものがあった。前といっても、いくつかの季節を通り過ぎた前だ。少年には色濃い長さだったが、シスターにはどうだったのだろう。少年の中のシスターと、今日会ったシスターは何か異なるものがあった。その身勝手な感情に押し流され、逃げ腰にも似た形で、少年は彼女の家を後にしたのだった。

 少年は思った。
 今のシスターに甘えるような期待を抱くのは、虫が良すぎたのかもしれない。シスターの両親が、あんな形で亡くなられたのだ。今年やっと二桁の年になった少年からすれば、それでも長い月日かもしれないが、当の本人からすれば、昨日のことのように覚えているのかもしれない。
 先日、母のところに馬車の男が、商品を届けに来た。その時、少年は二人の会話が聞こえてくるところで、懸命に木材を削っていた。友人たちと川で魚を獲る時に使うヤリだが、硬い木材のため削るのも難しいのだった。父が使うヤリが家にはあるが、少年は自分用のヤリが欲しかった。
「これで全部かな」
「ええ、大丈夫ね、しっかりと確認したからね。注文通り」
「それじゃあ、またよろしく」
「こちらこそ、暑くなってきたからね、あんた倒れるんじゃないよ」
「あぁ、そうだ、シスターが好んでる香辛料ってわかるかい?彼女欲しがってるみたいでさ」商人はこれぐらいのと、人差し指と親指で大きさを表した。
「知ってるよ、いつもうちで買っていってたからね」そう言って、棚から出してきた小さなビンを見せる。
「これか」
「シスターはどんな様子だったい?元気にしてるかね?」
「あぁ、晴れやかっていうほどじゃないが、暗い顔しているわけでもないね。いい感じなんじゃないか」
「そう、なら良かった。ちょうど他に渡したいものもあるし、これはうちのに届けさせるよ」
「そうか、きっと喜ぶだろうよ」
「だといいね」
 そんな会話が、少年の耳に入ってきた。うちのとは、父ではなく自分のことだろうと、母の声色から察した。面倒だとも思ったが、同時に弾む気持ちもあった。
 少年は「いつものシスターに戻ったのだろう、ちょっとぐらいお邪魔しても」そんな風に揺れる道中で考えていた。

 昨日は「なぁ、あした、俺も連れてってくれよ。一人で行くより、いいだろ?帰りは川で魚でも獲ろう」という遊び仲間の要望を退けた。
 友達と川遊びをするのは、少年にとっても魅惑的な誘いだった。
 ピクッと動く心。悟られまいと「ダメなものはダメ、母さんにも言われてるんだ。これは仕事だから」と、言葉を投げ捨てて、走って家路についたのが、昨日の夕方のこと。本当は、母に一人で行かないとダメなんてことは言われていない。

 こんなことなら、あいつらも連れてくるべきだった。少年は、そう後悔していたが、それはもう遅い。
 なんだか腑に落ちない感情を、小石と一緒に蹴飛ばして転がしながら、少年は町に向かって歩いた。

◆ 3 ◆◇

 ドーン、ドドーン、ドパパパパパッ
 今夜は、私の家からでも僅かに見える輝く火の花々が、暗闇に咲いていた。溜めに溜めて打ち上がる、巨大なオレンジ色の花も良かったけど、小さな青や赤が絶え間なく上がり、パチパチと暗闇を明るく染めた瞬間が、一番美しく心に残った。
 明日からは、町で祭りが行われる。
 毎年催されているもので、楽しみにしていた。
 ただ、それも去年までで、ほんの数日前までは、初めて見送るつもりだった。華やかな気分で、笑顔を交わし合う気にはまだなれないし、楽しみにする気持ちも育たなかった。何より、祭りが終わって、ひとり町から帰る道に、私は耐えられる気がしなかったからだ。
 少年が渡してくれたのはチケットだった。祭りで使える買い物券らしい。テーブルの上に置いたそれをぼんやりと眺めていると「やっぱり行こうかな」という気持ちが芽生えた。行ってみて、気がそわなければ、日のあるうちに帰ればいい。それなら、まだ気が沈むこともないだろう。
 きっかけに小さいも大きいもない。迷って揺れているのであれば、どんなことでもきっかけになりうるのかもしれない。

 当日朝は、乗り合いの馬車が、近くを通る。私は手を挙げ、馬車を留めて、乗り込む。顔を見たわけじゃないのに、御者が「おやっ」と表情をしたような気がした。
 馬車には、遠くから祭り見学に行く人や、町の人の親族と思われる人など、皆一様にこれからの時間と場所への期待で満ち溢れる人たちが乗り込んでいた。もう、馬車の中で、小さな祭りが始まっているような、そんな空気だ。
「すぅ…」
 短い深呼吸は、車輪の音に綺麗にかき消される。
 私は私と今日、一つの約束事をしていた。
 それは盗まないこと。
 町に着けば、溢れかえった笑顔の大群を見ることになるだろう。少しぐらい、そんな風に思ってしまうかもしれない、だから最初から自分自身で釘を打った。きっと大丈夫だ。馬車からはみ出る外の景色を眺めながら、そうやって心で何度も反芻していた。

 どこからともなく楽器の音が聴こえてくる。聞きなれない音楽だが、外から来た楽団だろうか、それとも町の人たちが奏でる新しい楽器かもしれない。人々の声と、楽器の音が、気持ちよく混ざり合う空気は、それだけで温かみを醸し出している。
 普段から明るい人の多い小さき町、この日は輪をかけて誰しもがにこやかに踊る。

「あら、いらっしゃい」優しく出迎えてくれたのは少年の母だった。
「ありがとう、あの、チケット頂いてしまって…」
「いいのよ、たくさんあるんだから。いっぱい配って、いっぱいの人に来てもらわなくちゃね」小柄な女店主は、ころころと笑いながら、手招く「今日はね、美味しいもの作ったのよ、こんなに!ほら、いろいろとあるでしょう」
 白いソースをかけたこんがりと焼いた肉、数えきれない種類の野菜をふんだんに混ぜ込んだサラダ、小麦を捏ねて薄くのばしたもので様々な具材を挟んだもの、どれもこれも手間暇かけていて、それでいて今日食べきれるのだろうか?と思えるほどの量を、大皿に並べられていた。
「美味しそう。色合いも素敵」
「でしょ。シスターに褒められると、こっちも嬉しいわね。好きなのいくらでも食べてって」
 はい、と言って、木皿に乗せられた、ひと切れの肉を差し出される。あの香辛料を使っているのだろう、鼻孔に触る香りが嬉しい。受け取ってひと口。美味しい。陽光にさらされていた料理は、少しも冷めておらず、口の中でホクホクと広がった。
「あの…」
「あぁ、うちのハナ垂れ息子?もう、朝から跳ね起きて、どこかに行っちゃったよ。いつもグズグズ布団に籠っているくせに、今日は起こさなくても勝手に起きて、勝手に食べて出てったよ。どっかで遊んでんだろうね」
 店主は口も手も軽やかに動かしながら、私と会話する。その仕草に温かみを感じる。
「そうですか。そう、あの、この前は、ありがとうって伝えておいてください」本当は直接言いたかったが、この町の中から探すのは難しいだろうと思った。帰るまでに見つけられれば言えるし、そうでなければ奥さんに伝えてもらおう。
「うんうん、言ったってどこまで伝わるか。でも言っとくよ。ありがとね」

 町の中央、交差した通りを中心に、祭りは広げられている。ぐるりと足の赴くままに周り、疲れと満足が程よく満ちてきたので、中心から外れた広場の木製ベンチに腰を下ろす。ここなら、喧噪もさざ波になる。同じように休む人がいたり、樹の下に座って食事を楽しむ者もいる。
 来てよかった、と素直に思った。
 杞憂していたことも、しっかりと自制が出来ていたし、私はいくばくかの自信をつけることが出来たのだ。
 そう、人心地ついて、ここしばらくで最も気分が華やいだと実感できた時だった。
 片側が沈むほどに大きな音を立てて、誰かが座る。驚いて、横を向くと、年は私の倍は離れていそうな、濃い口髭をはやした男性がいた。その男は、座ると同時にこう言った。
「なぁ、いい天気だな?」
 知らない男だった。私に問いかけているのだろうか。違う。そう信じて、すぐに目線を前に戻して、私は手元と空を見比べた。
「覚えてないのか、忘れちまったのか?まだ、そんな前のことじゃないだろうに」男は、横暴さを見せびらかすように、足を大きく広げ、なんだなんだ、と首を振り、ため息をついている。
 手にしている中身が透けて見えないビンは、酒が入っているのだろうか。 この男は酔っているようにも見えるし、そうではなく冷たさに嫌がらせを混ぜたような不快を感じる。
「シスター、あんた意外と薄情なんじゃないか。町の奴らが、気を使ってるの分かるだろう?」
 眼だけをこちらに向け、男は発する。大きな体は、前方を向いているが、その意識は眼が語るほうに向いている。
「私のこと?何を忘れたの、私が?」
「何がって……」
 語りだした男の声は、澄んだ空気にそぐわない音だった。だが、その声は、私の耳をまるでこじ開けるように、しっかりと入り込んでくる。見える景色も声に侵食され、暗く淀んでいくような気がした。


◆ 5 ◆◇◆◇

 それからのことは、覚えていない。
 話しかけてきた男の顔は、記憶の中では、黒い絵の具を塗り手繰ったように潰されている。ただ、耳に入った不快な響きだけが、深く留まっているのだ。

 「楽しさ」を求めて、私は町の中心を目指し、憑りつかれたような足取りで向かった、と思う。
 そして、私が気づいたときは、あれだけ賑やかだった町は、しんと静まり返っていた。圧倒的に、先ほどの情景から引かれたものがある。人々の笑い声、それらが一切聞こえなかった。歩いたり、荷物を重ねたり、そんな音は聞こえても声が聞こえない。
 祭りが潰えている。
 どうしたのか、何があったのか、尋ねたところで、誰も答えてくれない。しばらくして察してたどり着いた答えは、そうではない、そんなことはないと弾いていた答えで、だがそれ以外がやはり思いつかず、回りまわって向かい合った答えだ。
 私が原因。
 私が、盗んだ。
 いや、盗んだなんて、そんな言葉では表しきれない。
 ずっと抑えていたから?
 私は私をだまし続けていた?
 過ぎた暴力のように、町の人達の心を掬い取ってしまったのか。
空に向かって「あぁ…」と嘆いた。誰にでもなく、誰が答えるわけではない、せめて神がいるのなら、と思いながら。
『やっちゃったね』
 えっ、と眼を向けた先には、ヒラヒラと薄く透明な羽を羽ばたかせた小さな少女が、不器用に足を組んで浮いていた。

 彼女は、せわしなくシスターの周りを飛び回っている。散って落ちる花びらに、もし意思があって浮かび上がれるのなら、こんなゆるやかな飛び方をするのではないだろうか。呆然とただ、眼で追い続けていると、やがて少女は、シスターの肩に留まりしなやかな白く透明な足を組んで座った。
『私たち、初めまして同士なんだし、まずはこうやって横並びに話し合うべきよね。オーセンティックバーのカウンターって、ほら知らない間柄でも話が弾むじゃない?眼を見ていると話せないような、深めの話まで出てきたり。あ、でもそうね、そこはお酒の力もあるし、バーの空気感も大事。それがここにはないのが惜しいけど、陰りのある日差しもあるし、これはこれでアリだと思わない?』
『あなたは、何が好き?私は、やっぱりジントニック。ライムは抜いてが好みよ』
『それと』
『あなた、顔大きいわね』
 捲し立てる彼女の声は、私の右の耳から確かに聞こえる。でも、その存在が確かなのか、どうなのか、まるで判断がつかない。口を開けて何かを言うつもりが、開いたままの状態から、先に進めない。辛うじて出てきた言葉は「あ…」で止まってしまい、眼を動かして捉えた彼女に訴えるばかりだった。
『なに?驚いてますって顔してるけど、私の方がずっと驚いてるんだから。あなたさ、何したのか分かってる?あぁ、わかってないんでしょ。わかってないというか、わかりたくないのが正しいのかな。ずるいなぁ。シスターなんでしょう?神に仕える前に、自分自身に仕えなさいよ』
 片足で肩を蹴って、パッと浮き上がる。
 蝶のように軽やかなのに、鳥のように速く、大きく飛び回り、そしてまた私の顔の前で止まる。今度は、何故か逆さまで腕を組んでいる。長い髪が地上に届かない雨のように風になびいている。
 少女は、手を上にあげ、指をさす。ややこしいけど、さした先は地面で、そこにはいつのまにか湯気の立つスープが置かれている。
『飲みなさい』
 命じられたまま、ひとくち、ふたくちと、スープを喉に流す。温かみが体の中心に向かって落ちていく。味覚を経由した感情は、少し落ち着きを取り戻したようだ。スープを置いて、立ち上がる。手を差し伸べると、小さな彼女は、そこに腰かけた。
『話せる?』
 そう聞かれて、首を縦に振る前に、彼女はまた話し始めた。
『自己紹介がまだだったわね。でも、面倒だから省くわ。知りたければ、探りなさい。で、最初に言ったけど、あなたやっちゃったのよ、他人から感情盗り過ぎちゃったの。自覚はあるようだけど、自制は出来なかったみたいね。やってしまったものは、仕方ない。で、どうすればいいと思う?』
 どうすればいいのだろう。
 それは、言われずとも、巡り続けている言葉だった。でも、行先はないまま、ただ回り続けている。無かったことに、ほんの数刻前に戻りたい、やはり町に来るんじゃなかった、そんな答えとは無関係の言葉ばかりが追加されるだけだ。
「………」
 彼女はひらっと舞い上がり、後ろを向いたまま、静かに近づいてきた。もう、私の鼻のすぐ前にいる。
「あの…」
 そう声をかけるかどうかのところで、彼女は素早く回転して、私の顔を強く激しく蹴りつけた。こんな小さいのに、その蹴りから伝わる力は、見た目以上に大きく、よろけた私は思わず手をついた。蹴ってくるなんて、想定できなかったのだけれど。
『どう?空中転身脚。わたしはエティス。月から来た女神様よ』


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