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短編小説 『月もまた光る』-後編-


月もまた光る -後編-


◆ 6 ◆◇◆◇◆

 陽が暖色に染め上げる時間は過ぎ、もう少しで夜も帳を下ろしそうだ。エティスは月から来たと言ったが、肝心の月はまだ薄っすら見つけられるぐらいで、闇に煌々と光るには早い。
 彼女から蹴りつけられた顔に左手を添えながら、私たちは町中を歩いていた。今日は帰ることを諦め、宿をとることにしたのだ。このまま帰るわけにはいかないし、頭の中に散らかった出来事を整理するのに、時間が欲しかった。

『私はどうすれば?そんな顔してるわね。そんなこと知らない。わたしはね、別に、あなたを導くために来たわけじゃないの。天使でもなければ、優しさも持ち合わせてはない、自分でしたことは自分で拭いなさい。そのための手伝いなら、少しぐらいはしてもいいわ』
「ひとつ聞いていい?」
『ねぇ、この部屋、わたしに合うベッドがないんだけど?どこで寝ればいいと思う?ふかふかで温かい場所がいいんだけど』
「町のみんなは、どうすれば戻るの?私が盗ってしまったっていう感情はどうすれば戻せるの」
 私の質問に答える気がないのか、それとも聞いてすらないのか、エティスは宿の一室を隈なく飛び回り、仕方ないという態度でひとつだけあるベッドの上に、落ち着いた。
『サイズはあってないけど、ここにする。シスター、あなたほかのところならどこでも好きなところで寝ていいわよ』と言ってはいるが、ベッド以外に寝る家具はこの部屋には置いていない。あとは、両手で抱えられるほどの大きさの机と、その机を挟むように置かれた木製の椅子があるだけで、他には目立つものも何もない。辛うじて飾られているのは、私の顔と同じぐらいの絵画があるだけだ。
『戻すなんて無理よ。飲み干してしまったスープを同じように返すなんて無理でしょう?盗って消えた感情は、もう元に戻すことは出来ないわ』
「でも、このままじゃ…」このままじゃいけないのは分かっている。わかっているけれども、どうすればいいのか。どうしたいのかすら、今は霞のようにはっきりとしない。外は暗く、彼女のいたという月だけが明るく見えている。雲が無いのだ。何もない真っ新な空模様だったから、エティスは私を真っすぐに見つけることが出来たのだろうか。
『諸行無常に鳴く声に、届く香月は遠くまた近い、ね。もう寝ましょう。寝ればとりあえず明日になるし、明日になればまた何かあるでしょうし、何より私は眠い』そう言って、エティスはベッドの中央に落ちていき、大の字に倒れた。
神様とは思えない寝姿だ。彼女はいったい何者なのか。

 俯いた少年を見つけたのは、翌日のことだった。昨日は「飛び跳ねて出ていってどこかで遊んでいる」と聞いていたが、大通りを小道に入る手前の小さなスペース。少年は縮こまるように、そこに座っている。
 なんて声をかければいいのか、目は届くけど触れるには遠すぎる。数歩の距離で思案していると、エティスは止まることなく少年に近づいていく。
『ハロー、ボンジュール、ナーマースゥテー、あなたアイザック・ヘンプステッド・ライトに似てるわね。そうやって、座り込んでいるとよりマシマシだわ』
 ハイテンポで話しかけるエティスに、少年は肩ひとつ反応しない。昨日の事件から、町の人たちのほとんどは、似たような感じだ。話しかけたりしても、僅かに反応するか、全くしない。お店などで、買い物をするときに声をかければ、そのやりとりは成立するものの、それ以外で声をかけても、極端に反応が薄い。
 少年の隣に腰かけ、壁に背を預ける。エティスは知らない歌を歌いながら、手が届かないところを飛び回っている。空の中なのに、着地したように止まってみたり、滑り込んで回転してみたり、何かを模倣しているのか、彼女の気まぐれなのか。聞いてもきっと、教えてはくれないだろう。
 ぼぅっと見上げていると、気付くと少年もエティスを見上げていた。その表情は、読み取れるものはないが、さきほどあった陰りが薄れているように見えた。雲が流れて切れ間が過ぎて、また次の雲が流れていく。

「ねぇ、また、来てもいい?」私は立ち上がりながら、少年に声をかける。
『もちろん、いつだって私はあなたのそばにいるわっ』
「言ってない」
『聞こえる距離にいたからぁ』
 少年は、首を小さくコクっと落とした。私の期待がそう見せかけたのかもしれないけれど、そう見えたと思う。エティスと言葉を投げ合う合間に横目で見えた。
「また」
 そう言い残して、私たちは大通りに出ていった。

◆ 7 ◆◇◆◇◆◇

 宿を起点に、朝から夕方まで町を周り、戻っては寝泊まりし、また次の日は同じことをする。日が過ぎれば、気持ちも変わるから、町の人たちの様子も変わるかもしれない。そんな風に、心持ち期待していたけど、数日を経てもみんな変わりようはなかった。
 原因は自分なのだ。私が何とかしなければ、そう思うものの、何をすることが正解なのか。求めるのに、受け身のまま、たださまよい歩いていた日々。
 ちょっとなら手伝う、そんなことを言っていた神様は、有効な助言をしてはくれないのだった。私と一緒にいることもあれば、ふらりとどこかに飛んで行ってしまうことも多い。気付いたらいなくなっていて、気付いたら横にいて、平然と声を上げる。

『サメが出てくる映画って、どうしてあんなに変なのしかないのかしら。B級だなんて称号で紛らわしてるけど、苦笑いするしかない駄作ばかりじゃない。わたしが監督をすれば、もっと凄いのを撮れるわ。A級を通り越して、SSRクラスの映画になる自信があるの』
「そうなの?」
『なに、疑問があるわけなの?理解しがたい。映画を観たことがないどころか、その存在を知らない小娘が、わたしを疑うなんて永久に早い。見せてやりたい、見せつけて涙を滝のように流させて、枯れ枝の様にさせてやりたい。悔しい、こんな気持ちは、今日初めてだし、明日は無い気持ちだわ』
「たいへんね」
『なんでも一言で返すつもり?それ、カロリーを抑えているの?いつになったら、あなたわたしと釣り合いとれるようになるのよ。心広い神様だから、腹は立たないけど、あなたには腹で茶を沸かして欲しい。そのお茶でアフタヌーンティを優雅に過ごしたい』
「あ、そうし」
『遅いわよ。話始める前に、あ、とか無駄な時間使ってる場合じゃないのよ。要らないジャブは、雑魚の証拠なんだから、そろそろそれぐらい理解して。分からないなら、YouTubeでも見て勉強しなさい。分かってるわよ。観れないわよ。あんなものよりも、わたしと話せていることに幸福を噛みしめて』
 勢いよくエティスは、私の口の中に突っ込んできた『噛みしめなさい』と叫んでいるが、やめてほしい。神様を歯で砕くわけにはいかないし、その経験は欲しくない。

 その時だった、すぐそこで私たちのやり取りを観ていた少女が、クスリと笑った。その表情は、砂漠に雫が吸い込むように、すぐに平坦な表情に戻ってしまった。だが、確かに見えた笑顔は、温かな春の香りのように私の中に残った。
「ねぇ、見た?この子の顔…」
『ちょっと失礼じゃない?わたしとの会話の最中に、子供の方を見てるなんて、罰当たりよシスター!だいたい…』留まらない言葉の波をかわして「笑ったのよ、確かに、ちょっとだけれども、確か……」
 私の言葉を端から端まで疑っているエティスは、少女の顔の前に近過ぎるほど近づき、じっくりと眺めた。そのうえ、少女の鼻を手のひらで叩いている。それでも、表情を変えない少女に、鼻の穴に手を入れようとしたところで、私は止めた。
『わたしもこの子の笑った顔を見たい』と言う。その気持ちには共感できるが、方法には共感できない。
『信じましょう。あなたが嘘を言う理由が無いわ。でも、なんでかしらね。笑ったのなら、何かしらが可笑しかったのかもしれないけれど、思い当たる節がないわ』
 私はある。
「町の人に声をかけて、反応しないことばかりだけど、必要なことはしっかり受け答えしてれる。聞いてはいるのよ。目が見えなかったり、耳が聞こえないわけじゃない。しっかり生きているのは間違いない。ただ、欠けているものがあるだけ」
『あなたのせいじゃない』
 エティスの言葉のそれは冷たいが、私には応援の言葉のように、その時は聞こえた。
 

 その日、私は、心の方向性を手に入れた。見えず、掴めず、灰色の曇った日々を過ごしていたが、流るる澄んだ水で、気持ちを切り替えることが出来た。
 町に繰り出しては、人々に積極的にはなしをする日々が続いた。これまでは、ただ話を聞こうと問いかけたり、気持ちを探ろうということに努めていたが、今は聴いていることを信じて、はなすことに従事した。

 意識をもって、毎日話し続ける。私にとっては初めての経験だ。音に相手に合わせてステップを踏むことは出来ても、何もない中で、相手の目に留まるようなステップを踏もうと思うと、これほどに難しいものなのだと知った。しかも、町の人の精神は、眼を閉じて、耳をふさいで、地べたに座っている。私は、相手に触れることは出来ない。そんな中、決して達者ではない、私。二人で手を取って軽快にリズムを踏みあえる絵が浮かばない。
「ねぇ」どこかで拾ってきた木の枝を、私の前で振っているエティスに尋ねる。
『クラシック、そう、わたしは名指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤン』眼を閉じたまま、手だけではなく、体全身で動き回りながら、木の枝を振っている。もはや、木の枝よりも、エティスの方が動きが激しい。濁流だ。
 彼女の場合、本当に聞こえてないのか、それとも無視しているのかが、判断できない。意地悪に無視していると思うことが多かったけど、実際聞いてないことも何度もあったようで、独特な世界観がいまだに一歩も理解できないでいる。
「私のはなしって、どうだと思う」
『聞きやすい』
「えっ」
 まさか肯定的な意見が貰えるとは思わなかった。数日は立ち直れないぐらに、罵詈雑言を浴びせられる覚悟を持っての質問だったので、意外だった。
『声は』
「えっ、あっ……」
『声だけは、ね』
 その後は、ダメ出しの連続で、覚悟を持っていて良かった。テンポが悪い、内容が無い、落ちもない、顔が固い、話が薄い、引き出しが無い、道筋が迷子、えっととか、それでとか、でねとか多い、想定はしていたけど実際に言い渡される内容の多さに、表情が徐々に死んでいくのが自分で分かる。
『次に具体例に移っていこうと思うんだけど。……と、思ったけど、やめるわ。これ以上はテニスの壁打ちになりそう。オーバーキルってやつね。優しさを兼ね備えたエティス様は、そんな野暮なことはしないのよ』
「それで、その、どうすれば」このまま引き下がれない。死んだ顔のままだが、せめて、ひとつでも教えを乞うたい。兼ね備えての優しさに期待する。
『さぁ、どうしたものかしら。わたしはわたしなりに楽しめているし、特に困っているわけじゃないし、あまり巡らせたことのない悩みだわ』
「そう……」
『でも、続けるのはいいことなんじゃない?僅かながら進歩がみられる。何でも続ければ、それなりに上達するものらしいし。残念ながらわたしほどの巧みなトークは永遠にたどり着けない極地だと思うのだけど、愚直に続けるちからはあなたの方が上よ。わたしはもっと軽やかだから。わたしね、賭けをするときは、必ず負けそうな方に掛けるの。そっちの方が終わりまで楽しめるから。安心なんて、なんのスパイスにもならない。過程を楽しんでこその結果だと思わない?』
 単にほめているわけではなさそうだが、彼女なりの応援の仕方だろうか。途にも、あの少女の笑顔は、まだしっかりと私の中にある。それ以外の方法も無いのだから、きっとを信じて続けてみよう。

 庭で草花を育てていると、いつも驚かされる。毎日世話をして見ているはずなのに、色が変わっていたり、つぼみが開いていたり、土から芽が覗いたり、その瞬間を見ることは叶わない。一度ぐらいは見てみたいと、朝早く起きて太陽の角度が真上に上がるまで、ずっとそばで観察していたこともあったが、私の眼には移り行く様を捉えることは出来なかった。
 私の中で、話すことの楽しさと言っていいのか、楽しませたいと思っていたはずの私自身から、その感情が芽吹いていると感じたのは、まさに気づけばという感じだった。いつしか、口角はあがり、手のひらはエティスのように舞い、相手にプレゼントを渡すような感覚が芽生えていた。
 そして、その変化は、自分だけではなく、町全体に広がりつつあることを、私自身はまだ気づけてはいなかった。

◆ 8 ◆◇◆◇◆◇◆

 少年は夢を見るのが好きだった。一日を走り切るように過ごし、夜になって母の食事を平らげて、昼間を裏返したような静かな時間を過ごした後、まっさらな布団に潜り込む。
 寝つきの良い少年は、布団の中がぬくもりで包まれる前に、もう眠りについてしまう。もし、隣で彼が眠るのを見ていれば、ほんの少し目を離した隙にいびきが聞こえてくることに驚くことだろう。
 夢の中では、いつも驚くような出来事があるが、夢の中の少年は起こることを当たり前として受け取る。空を飛ぼうが、開けたドアが知らない世界に繋がっていようが、驚くことは無い。夢は不思議で常にふわふわとしている。目が覚めると、そのふわふわはまだ残っているものの、陽光に溶かされるかのように、間もなく離散してしまうのだった。その消えてしまう、ちょっとした短いあいだに、少年は夢を思い返して噛み締めようとする。
 もっと少年が小さい頃は、見た夢を母や父に話して聞かせるのが、彼の家の日常であった。どんな突飛なストーリーであっても、両親は笑いながら聞いてくれるのだ。だが、少年も成長するにつれ、徐々に話す機会が減っていった。母は父に「どんな夢を見ているのかね」と言い、父は母に「いつも通りさ」と返す。

 夢が覚める時、ゴールがあるわけではない。起きてから「夢を見ていた」と気付くものだ。夢を見続けていたら、それは夢であると気付けない。
 少年はいま夢の中にいた。
 いつもより長い夢だったが、彼はそれに気づけない。すべての輪郭がグラデーションになった世界。閉じ込められた少年は、現実へ泳ぎ流れようとするも、動かす手足は空を切るだけで、どこへも進めない。


 心待ちにしたお祭りの日、家を出るなり走り出し、町中で見つけた友人たちと共に、好き放題に見て回った。この日ばかりは多少のいたずらも笑って許される。普段険しい顔をした大人も、祭りの空気が肝要にさせた。
「午後に大兵団がくるって本当か?」小太りで目の丸い友が聞くと、他の友人たちは、その話の真偽を好き勝手に言い合う。
「本当なら見たい」と言うものもいれば「こんな小さな町に大兵団がくるわかないだろう」と悲観的な意見を言うものもいる。
 意見がまとまったわけではないが、少年たち一行は見張り塔に向かうことにした。本当に来るのであれば、塔から見えるのではないかと思ったのだ。
 何度も来たこともあるし、登ったこともある塔だが、それでも近づくとその高さに圧巻される。町のどの家と比べても遥かに高く、ひとつだけ空へ突き出た塔は、少年たちの人気スポットだ。祭りで飾られた塔は、不思議といつもより明るく見える。
 この後はどこへ行くか、昼は何を食べようか、気の早いのは明日はどうしようかなど、好き勝手に言い合いながら、塔を登っていく一行。登り切ったてっぺんから遠くを見渡すも、大兵団のような集団は見当たらない。
「なんだ、やっぱり嘘じゃないか」と肩を落とすものも入れば「見ろよ、あの鳥って、この前逃げてったのじゃない?」なんて言っているのんびりもいる。

 一行が塔を出た直後だった。空気が大きな波のうねりになり、彼らを包んだ。そのうねりは、彼らだけではなく、町中を包み込んでいったのだが、少年もその友人も、そんなことは知る由もない。
 そのうねりに包まれてから、少年は夢の中を漂っている。いや、留まっていると表現したほうが正しいのかもしれない。

 少年は夢の中で、小さな羽の生えた人に出会った。
 その人は、少年が見えるところにいるものの、近づいても遠のいてしまう。羽が生えているだけでも珍しいのに、あんなに小さいなんて!
 少年はどうにか近くで見てみたかった。
 その思いで、手を動かしたり、足を動かしたりしながら、距離を縮めようとするが、むしろ遠のいている気さえする。
 少年は諦めることに慣れていなかった。
 それぐらいまだ少年だった。
 どうにかどうにかと藻掻いていると、その羽の生えた人の更に先に、青みがかったドアが見える。
 さらにそのドアの先から、聞いたことのある声が聴こえてくる。
 何を言っているのかまでは聞き取れないものの、もっと耳にしたい美しい声だった。
 少年はドアに向かって、大きな声を出したが、ドアに声は届かない。
 声は音にならず、透明な白い波になって、ドアの手前で消えてなくなる。  ただ、虚しさは感じない。
 羽の生えた人に近づけなかったように、ドアにも近づけないような気がしたが、ドアの方が大きくなり近づいてくる。
 不思議な状態であるが、少年はそのようには思わない。
 それは夢の中であるからなのだが、どこにいるのかが重要ではなく、どこに向かえるのかが重要なのだった。

◆ 9 ◆◇◆◇◆◇◆◇

 「おはよう」
 少年から、挨拶をされた。顔つきはぼんやりとしているものの、その声ははっきりと私に届いた。こういう時に限って、エティスはいない。驚きが増して、ただただ、その少年を見返してしまった。私の家まで香辛料を届けてくれた少年だ。慌てながら「おはよう。天気、気持ちいいね」と、挨拶を交わした。
 声をかけてくれた少年は、わずかに見上げたかと思うと、どこかへ行ってしまった。追いかけて声をかけようか迷ったが、急いではいけない。息を整えて、流行る気持ちを落ち着かせた。

 エティスの反応は、素っ気ないものだった。もっと、空を踊り狂って、自分も見たかった、最初に私へあいさつしないなんて無礼だわ!とか、そんな風に賑やかに舞う想像をしていただけに、少し期待外れだった。
「もっと、驚くかと思った」
『だって、普通のことじゃない。あいさつしたんでしょ?フツーは挨拶をするのよ。それを感情抜け去った彼らは、そんなことすら忘却していたわけ。それが、おはようって言うだけでって、驚いたり羨やましがったりするわけないじゃない。逆に、そんなに感動しているシスターが不思議だわ。挨拶なんてされたこと、いくらだってあるでしょう?』
 それはそうなのだけど…
『それより、シスター。あなたに見せたいものが、あるのよ。きっとビックリすると思う。あ、でも、待って。今のは無しにして。ビックリすると思うなんて聞いたら、ビックリする姿を見ても、私自身が楽しめない。ビックリはしないものよ。なんでもない、とっても普通で、なんだったらがっかりするぐらい普通で、こんなものを見せにわざわざ?といぶかってしまうぐらいに。違うわ、それだと私が間抜けみたいじゃない。失礼じゃない?シスター。私という神様に向かって、そんなことを言うなんて!取り消して。最初から最後まで、一度取り消して、なんかわからないままに、ただ付き添って着いてきなさい』
 そう言葉尻が、シスターに届く前に、エティスは激しく羽ばたかせて、飛んで行った。手のひらほどの小さな神様だが、その飛ぶ様は遠目でも見つけやすい。空中でそんな動きをするものが想定していないからなのか、眼の端であっても、しっかりと捉えることが出来るのだ。
 振り向きもせずに進んでいくエティスに、私は言われた通りただ黙って着いていった。空は明るいし、活動に進展もあった。どこに連れていかれるかは想像できないものの、心持ちは軽くあった。

 足元から顔まで満遍なく照らす太陽が気持ちいい。空模様と心が重なる時は、特別な日に様変わりする。転がる小石も、気を向けることが無い雑草も、今なら話しかけたいほどに笑顔を向けられる。空気を遮る音は、エティスの微かな羽音のみだったが、それも少しずつ遠のく。置いて行かれないように歩速を上げる。振り返ってみると町はずっと小さい。いつの間にかこんなに歩いてきたのか、また戻るのが大変そうな距離だなと、そんな心配をするぐらいだった。
 「ねぇ、エティス」小走りに近づいて声をかけてみたが、彼女は届いた声を避けるように右に舞い、空中で飛び出るように回転したかと思うと、そのまま潜るような曲線を描いて私に近づいた。
 「ここよ」
 到着したようだが、ここは道最中といった感じの何もないところで、見渡す限りには平原が続く。座る場所ひとつでもあれば、休憩をとるにはちょうど良いところかもしれないが、そんな場所も見当たらない。
 『なによ、相も変わらず張り合いが無いわね。そんなあなたに付き合う私も私よね。ふぅ、どうしようかしら。どうしたらいいと思う?』
 そう問われるが、ただ言われて着いてきたのに、どうしたらと言われても困る「どうしたらって、どうしてここに来たの?何か見せたいものがあるって……」
 『そうだった、そんなこと言った。確かに言ったけど、何も意味ないの。そう言えば、ちょっと盛り上がるでしょう?気持ちの変化も紆余曲折した方が面白いものじゃない?さらに盛り上がらせてあげるから、わたしが合図をするまで目をつぶって。合図をするまでよ。どんな合図なのかはあえておしえないから。でも、きっとわかる、そんな神様らしいアイズよ』
 何があるのか、何をされるのかが、合図以上に気にはなったが、素直に瞼を閉じることにした。周りには何もない。眼を閉じて立っていたところで、誰かに迷惑をかけることも変に思われることもないだろう。

 しばらくそうしていたが、想像していたよりも時間は経過していた。いつになったら、その合図があるのか、それとももう合図があって聞き逃したのか、どちらかなのかも分からない。
「いつまで?」そう声を上げるも、エティスからの返事は無い。
何か驚きがあるかもしれない緊張感は通り過ぎ、徐々に不安になってくる。もしかして、そんなことは無いと思うが、エティスに何かあったのだろうか。
 3回エティスを呼ぶ。それで、なにも無ければ目を開けよう。そう決めた。
「エティス、いいの?もう、開けるよ」
やはり何も答えは聞こえない。羽の僅かな音にも気を配るが、それらしき音もない。感触を研ぎ澄ますが、肌のどこかにエティスが触れていることもない。
「エーティースー」
 いつもと違う呼び方をする。クスっと笑う声が聞こえないか、そう期待したものの何も聞こえない。
 息を吸い、大きな声を上げる準備をする。一息で吐くように彼女の名を読んだ。
「エティス!」
 私は目を開けた。閉じ過ぎていた眼は光を嫌がったが、しばらくすれば長閑な景色だけが見えてくる。
 ただ、そこにはエティスはいなかった。

◆ 10 ◆◇◆◇◆◇◆◇◆

 匂いがした。
 香ばしくて、温かい、優しい匂いがした。今日の店主もまた笑顔が似合っている。
「やぁ、シスター。久し振りじゃないか」
 本当は久しくはないのだけれど、お互いがあってこその会うなのだから、久し振りは正解なのだ。
「そうね。とても空いてしまったけど、ここの美味しさは恋しかった」
 店主は目を丸くして、顔を綻ばせる。
「これ、青い実だよ」と言って、青いジャムの材料になる実を見せてくれた。
 そのままでも食べれると教えてもらい、その粒を口に入れる。甘くて酸っぱい味がパッと広がる。
「美味しい。こんなになんて」
「そうだろう。また買っていきなよ、ジャム」
 カゴを弾ませて店を後にする。閉まったドアの向こうから鈴の音が聴こえる。通りを進んでいると、黄色い服を着た小さな女の子を見つけた。
 女の子はカゴの中身に興味があるのか、少し背伸びをして覗こうとする。私は、いま買ったものを見せてあげようと、しゃがんでカゴの上にかけていた白い布を取り除く。
 彼女は口を縦に開き「あれっ」とした顔で、覗くのをやめてしまった。
「美味しそうでしょ?」どうしたのかと、そう聞いてみると、彼女はもっと不思議な言葉を聞かせてくれた。
「今日はいないんだね」と、言って左手をヒラヒラとさせながら私の口にあてるしぐさをして、どこかへ行ってしまった。
 あの日々は、あの神様は、私が見た夢か幻だったのだろうと考えていた。誰に聞いてもエティスのことは知らないし、エティスの痕跡もどこにもない。だから、町の人が失くしていたものがあったように、私も何かしらあの時は正常じゃなかったんだろうと、誰に相談するでもなく独り納得していた。

 あの小さな神様は、本当にいたのかもしれないし、そうじゃないのかもしれない。おしゃべり過ぎて聞き飽きたあの声は、今でも頭の中でいつでも響かせることが出来る。それは、消えることのない、私だけの自由なのだ。
 買ったばかりの青いジャムのビンを開けて、小指ですくって舐めた。青々しい空の元、口の中にも青い甘味が広がる。
 最後に言葉は交わさなかったから、またいつか会えるだろう。あのお喋りな神様が、言葉も交わさずに消えてしまうなんて、どんなことよりも納得出来はしない。
 空を見上げると、始まりそうな夜の彼方に薄らいだ月が見える。彼女はあそこへ帰ったのだろうか、それともまだこの近くで飛び回っているのだろうか。
 彼女の言葉通りなら、あの月が彼女の故郷なのだ。神様ならあれほど遠く離れていても、私の姿が見えたりするのだろうか。もし見えているのなら、きっと自由に好き勝手にしゃべり続けているに違いない。

 私は月に向かって手を組み合わせる。遠く長く離れた場所だが、彼女になら届くような気がするのだ。
 私は神様を信じてはいない。みんなからシスターなんて呼ばれていても、信仰心なんてこれっぽっちも持ち合わせてはいない。ただ、月の神様と過ごした日々は、自らを信じる気持ちを植え付けていったように思える。それがまた彼女のねらいなのか、偶然的なものなのか、どちらにせよ感謝をしている。
 我がままをひとつ言えるのなら、またいつか遊びにいらっしゃい。あの丘の家でいつまでも待っていると、そう私は月に伝えたい。


= 完 =

#創作大賞2024
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