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優しさとおせっかい

誰かが困っていると助けたくなるのは、人間誰しもが本能的には持っているはず。だけれども、今は物理的に困っている人が助けを求めていても、「どうしましたか?」ということが少なくなりつつある。

むしろ、外へ外出する時に気をつけて出かけないといけないぐらい、ヘンテコな世の中になっている感じはする。

駅でベビーカーで困っている人、お母さんだけでたくさん子供を連れている人、車椅子や目が不自由な人、外国人観光客でどこかに行きたいのにわからず困っている人。

まぁ、上げ始めるとたくさんどこかで「誰か助けて」と駅ではなく、家やどこからも、ヘルプの声が聞こえる。

困っている人を助けたい。昔の日本なら、そっと助けることはたくさんあったと思う。外国人観光客さんは、たいがい大きな駅か空港への行き方がわからないので、簡単な英語を少し覚えておくと理解してくれる。

「困っている」という内容でも、微妙なややこしい問題となると、話かけて話は聞いてあげたいと思う時はある。でも、私ではなく、私の知らない人に相談して、私が話しかけると「放っておいて欲しい」と、縁まで切られたことはある。

自分のお人好しのよさに、呆れてしまうぐらいである。過去に友人から病気の相談を受けた時、私ではわからないことだからというと、「あなたのことは嫌い!」といきなり電話を切られたことがあって、何日も泣いた。

相談は聞いたりはするけれど、私ではどうしようもないことはあるし、それは果たしてその人の為になるかというと、そうでもないことが多い。

本人が決定することで、私ができることは、話を聞いてあげる程度。「優しさ」と「おせっかい」のはざまで接しないといけない。

「優しく」することは簡単。その分量が多くなると「おせっかい」になって傷つけてしまう。だから、見守ることしかできない。

心理学の本で「人に優しい人は、それだけつらいことを積み重ねてきて、成長してきた人。恥ずべきことではない。しかし、一つ間違えれば、人の心を傷つけるナイフになりかねない」という。

自分を美化しているわけではないが、修羅場は何度も乗り越えてきた。でも、そっとしておいて、いつか便りがくるのを待ってみてもいいかもしれない。

それが、「本当の優しさ」かもね。本人の「気づき」が生まれなければ、何も変わらない。

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