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「支える」と「尽くす」

新型コロナウィルスで世間はてんやわんやの中仕事は相変わらず佳境の旦那さん。結婚式の打ち合わせの4時間のために仕事を調整してくれて感謝しかない。

旦那さんの仕事は総合職。全国そして海外転勤もありうる仕事。そんな中わたしは聞いてみた。
「異動をしたら、わたしはお仕事どうすればいいの?」

旦那さんは
「異動の度についてきたら、何回もお仕事変えることになっちゃうよ!僕が単身赴任をして毎週ちゃんと帰るから、お仕事は気にしなくていいんだよ🐸」

とにっこりしてくれた。

わたしのことをとても考えてくれる旦那さん、けどわたしはこの発言にモヤっとしてしまった。

「一緒についてきてほしい」ってどこかで言われたかったなんだなあって。

けどそれは愛されてる実感を得られたかった訳ではない。愛されてることは普段から身に染みてわかっているのだ。
わたしは、心のどこかで旦那さんに人生の決定権を委ねようとしていたんだって気づいた

ところで、結婚するとき父親がわたしへくれた言葉がある。
みよちゃん、旦那さんを支えてあげるんだよ。彼は仕事をとても頑張っているんだから、家庭で味方になってあげるんだよ

もちろん、わたしは妻だもの。優しくて大好きな旦那さんを支えるんだ。そう思って暮らしてきた。そして5ヶ月が経った。

私達は仲良く頑張ってきた。喧嘩しがちという結婚式の準備ですらも意見が衝突したことはないし、わたしが具合悪かったとき旦那さんは一生懸命看病してくれた。旦那さんの仕事が忙しい今、わたしは旦那さんが思う存分仕事出来るよう、夕食を準備して置いておいたり、休日仕事してても特に何も言わない。

だけどおととい夕方、旦那さんから連絡が入った時わたしはショックを受けた。
「ごめんね、今日遅いからご飯食べられない。外で食べるよ」ということだった。

安倍首相が全国休校要請を出すというとてもナーバスな時だったこともあって、一人暮らしの時によく行っていたフレッシュネスバーガーに電車で1時間かけていって、ハイボールを飲みぼーっとした。

その時は何で悲しかったのか分からないけど、いつの間にかわたしは「支える」ことではなく、「尽くす」ことをしていたんじゃないかと、旦那さんの言葉を聴いて思った。

「支える」のは相手を文字通り相手のために支えること。でも「尽くす」は自分んのために支えることなんだと思う。あなたをこれくらい支えたんだから、わたしにもご褒美ちょうだい.......わたしはいつの間にか「尽くす」ようになっていたんだ。

そのご褒美はわたしの場合、「自分の人生の決定権」だ。

最初は純粋にご飯を作って感謝されるのが嬉しかった。美味しいよとニコニコしてくれるのが幸せで。だけどいつの間にか「作ってあげてるんだからお礼言ってよ」という気持ちになりつつあった。だからご飯いらないと言われると、自分にもう感謝したくないのかなって不安になった。

ご飯を作ったり、掃除をしたり。わたしがやっていることに感謝してほしい。必要としてほしい。

必要とするのであれば、わたしの人生の方向性をだいたい決めてほしい。

必要だ、だから着いてきてって言ってくれれば私はいろいろな考え事から開放される。
子どもを産むこと、育てるかの選択、自分の今後のキャリアをどうするかという選択、とてもとても決めるには大きくて、そして今まさに自分も見えていないところ。

自分が見えなくて不安なことを旦那さんに決めてほしくて、いつの間にか支えるんじゃなくて尽くす人になりつつあった。

夫婦のこれからの生き方はたくさんあって、正解はないし、周りの夫婦と私たちは違うからこれからもたくさん考えて選択するんだろう。
でもベースは「自分がどう生きたいか」ということなんだってことを忘れちゃダメだなって気づいた。もちろん夫婦2人のことだから、予想外のことなんてたくさんあるだろう。そもそも出会って半年で入籍したこと自体予想外なんだから。

だけど、わたしがそもそも生き方を考え抜いてその時のベストな選択をしたいことには、わたしの土台がぐらついて旦那さんを支えるどころじゃなくなるんだろう。
一緒に暮らし始めて距離感が近くなるにつれて、一心同体みたいな錯覚を起こしてたけど、良くも悪くも違う人間同士。

わたしがわたしであることから逃げてはいけないんだなって感じた日だった。
わたしの考え方や価値感を最大限尊重したいと言って態度で示してくれる旦那さんは改めてすごいなと気づいた。

自分のやりたいことに向き合うといって半年。めんどくさくて逃げ続けてきて。そろそろゆるゆると向き合おうと思った二月末。
まとまらないけど、記録として。

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