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ラサからカンリガルポへ(川藏公路西半部)【カンリガルポ山群への道②】

ラサからカンリガルポへ(川藏公路西半部)
渡部秀樹

※2007年当時に書いたガイドです。すでに西部大開発等で変貌が激しく、高速道路が伸びた今は、旧道を行くことはかえって困難になっています。もしまた旧道で悠長に旅をすることが可能であれば、参考にはなるでしょう。

 ラサからカンリガルポ山群の西端のトンメイ(通麦)までは川蔵公路を約550km、東端のデマ・ラ(峠、徳母拉)までは約800kmの道のりである。この間を満足できるような解説書はあまり見られない。しかし、見るべきものは多岐にわたり、ただ通過するだけではもったいない旅だ。カンリガルポ山群調査のため何度も通った道で見聞したことを、西から東へ順にまとめてみた。「ラサからカンリガルポへの道」は中国の行政区では、拉薩市から达孜県、墨竹工卡県、工布江达県、林芝県、波密県、八宿県、察隅県の8行政区にわたる旅である。以下ラサからカンリガルポ山群入口の波密県に至るまでの道のりと見所を解説を加えながら述べる。

(1)ラサ(拉薩)市
 ラサ市内でに名所旧跡地、例えばポタラ宮、ノルブリンカ、大昭寺(ジョカン寺)、小昭寺(ラモチェ寺)、デプン寺、セラ寺などは一般書に記述されているため省略する。

①ニェタンの磨崖仏とドルマ・ラカン
 ラサ・クンガ(貢嘎、コンカル)空港(3600m)からラサ市内(3650m)に入る途中、キ・チュ(川、別名ラサ川)西岸に釈迦牟尼の磨崖仏が目にとまる。このニェタンの磨崖仏は11世紀のアティーシャの時代に造られたものといわれている。釈迦牟尼像の左には観音菩薩の涙が変化した神、ドルマ(ターラ菩薩)が描かれている。慈悲の菩薩である観音菩薩は、衆生の苦しみが癒えることがないことに涙し、右目の涙からは白ターラ菩薩、左目の涙からは緑ターラが生まれたといわれている。これらの女尊は観音菩薩を助けて慈悲により全ての命あるものを苦しみから救うといわれ、チベットで人気のある尊格である。磨崖仏の南にはターラ菩薩を祀るドルマ・ラカン(寺)がある。これらは文革の際バングラデッシュ政府の要請を受けた周恩来の命で、紅衛兵による破壊を免れたといわれている。アティーシャの功績が文革を阻止した訳であるが、チベット人にとってはまさにターラ菩薩の慈悲が救った出来事といえるのかもしれない。
 アティーシャは11世紀西チベットのグゲ王に招かれたベンガル(バングラデッシュ)生まれの学僧。チベット全土を巡ってゲルク派の元となるカダム派の基礎を築いた。1054年ニェタンの地で亡くなったとされており、その後、ニェタン・ドルマ・ラカン(寺)が創建された。

▲ニェタンの磨崖仏

②ポタラ宮を望むクル・サンバとプンバ・リ
 歴代ダライラマの居城であるポタラ宮はチベットの象徴であるが、ダライラマ14世が亡命してからの宮殿は、過去の産物として博物館化への道を歩んでいる。この壮大な建造物を眺めるアングルとして私の好きな場所がある。ラサから東に向かう際には必ずラサ大橋(クル・サンバ)を渡ってラサ市街を出る。チベット人はこの橋を「クル(悪い)サンバ(橋)」と呼んでいる。橋ができる前はヤク革の舟(コーラクル)が渡しをしており船頭も潤い、また防衛上の意味も大きかったようだ。中国侵攻後に造られた橋はチベット人にとっては「悪い橋」なのだろう。この橋の南詰めをキ・チュ沿いに西に少し戻ると正面に河を挟んでポタラ宮が遠望できる場所がある。ここからは正面広場からは仰ぎ見るため見えなかった、ポタン・マルポ(紅宮)の各屋頂が望める。霧のある日、もやの上に浮かぶ姿は神々しく巡礼者でなくとも心を打たれるだろう。山を眺めるとき、真下からよりは少し離れ、山頂がシャープに見える場所の方が良い。「ポタラ」とは観音菩薩の住まう地という意味であり、マルポ・リ(赤い山)に建つ巨大な山でもあるから山頂が見えるほうが崇高と思えるのだ。近年はポタラ周辺に高層ビルができてしまい、なんとも興醒めな景観となってしまった。
ラサ大橋の南にあるプンバ・リ(山)方面に登ればさえぎるものはなく、さらに美しく望むことができる。プンバ・リは「瓶の山」の意味で、八吉祥の八山のひとつである。チベット人が正月(昔はダライラマの誕生日)に登って祝う吉祥の山で、めずらしく山頂まで登ることができる。ここからのポタラ宮を中心に広がるラサの街の展望は他の追随を許さないだろう。しかし、外国人が登ることは正式には禁止されているとの話も聞いたことがあるので注意が必要。
 ラサの周辺には八吉祥の八山があるという。八吉祥模様(タシダギェー)はチベットに古くから伝わる仏教における吉祥をあらわすデザインで、傘(ドゥー)、金の魚(セルニヤ)、瓶(プンバ)、幢幡(ギェンツェン)、蓮華(ペマ)、法螺貝(トゥン)、無限の紐(パクタ)、法輪(コロ)であり、ラサはこれら八吉祥の山々に囲まれているのだという。

▲キチュ対岸からポタラ宮

(2)达孜県(面積約1370k㎡、人口約2.3万人)

①タクツェ(ダツェ、達孜)
 現在の達孜(約3680m)を中国語で読むとダツェになるがチベット語の意味では虎(タク)の峰(ツェ)なのでタクツェと読むほうが正確だろう。クル・サンバからキ・チュ左岸を遡ると次に大きな橋が架かかるのがタクツェ・サンバ(达孜大橋)だ。タクツェはデチェンという別名もあり、デチェン・ゾンがある。この城塞はかつてラサの街を東からの侵入に対して守った。ゾン跡の下にはゲルク派のサンガ・カル寺がある。タクツェの東にはラモラ・リ(拉莫南山5511m)という神山がある。ラサから約20km。

▲タクツェのデチェンゾン

②ガンデン・ゴンパ(甘丹寺)
 キ・チュ沿いの川蔵公路のラサから約45kmのところ、標高約3700mにガンデン寺入口がある。車道をジグザグに標高差約500mを上り、最後のヘヤピンカーブを曲がると西に壮大な規模のガンデン寺が一望にできる。標高は4240m。北方に目をやると5000m級の山々とキ・チュが望め、チベット高原らしい展望が圧巻だ。春から夏の間は川沿いが緑に染まり、紺碧の空と褐色の山々との調和が美しい。
 ガンデン寺は1409年、チベット仏教最大宗派・ゲルク派の開祖ツォンカパによって建立された。ゲルク派は17世紀ダライラマ5世が最高権威者になって以来、爆発的な勢いでチベット各地にひろがり、ガンデン寺はその総本山として盛況を極めた。僧侶はかつて3000人以上いたといわれるが、1959年中国軍が侵攻してからは完全に破壊された。1980年代から再建が進められているが現在の僧侶は約300人である。
 ほぼ中央に位置する大きな赤い建物はセルドゥン・ラカン(霊塔殿)で、2階にはツォンカパの遺骨や遺品を納めた霊塔がある。その右の大きな白い建物はツォクチェン(集会堂)で内院にはツォンカパとガンデン・ティパ(僧院長)の玉座がある。法苑(中庭)では朝と夕の2回、学僧が教義問答(ディベート)を行ない賑やかな声が響く。ガンデン寺を回る(コルラ)巡礼路(リンコル)は一周1時間以上要する。
 ガンデン寺から南に下ってヤルツァンポ北岸の、チベット最初の僧院サムイェ寺までのトレッキングは約5日間のコースで欧米人には人気がある。日本人トレッカーにはあまり人気が無いのは山岳展望を好む嗜好や、ややハード、しかも時間を要するからと思われる。ラサから約50km。

▲ゲルク派総本山ガンデン・ゴンパ

(3)墨竹工卡県(面積約5500k㎡、人口約3.8万人)

①メトクンガ(メルドグンカル、墨竹工卡)
 キ・チュ(ラサ川)とメト・チュ(墨竹曲)が合流する地点に開けた街が、県府のあるメトクンガ(約3800m)で郊外には草原が広がっている。公路沿い数キロにわたり商店、食堂、簡素な招待所などが並ぶ。ラサから約80km。
 7世紀にチベットを統一したソンツェン・ガンポ王はここの南(約10km)のギャマで生誕したとされている。キ・チュを北に約60km遡るとディクン・カギュ派の総本山ディクンティ・ゴンパやテェルドム温泉がある。キ・チュの源流はラサの真北のニェンチンタングラ山から迂回してきている。メト・チュを遡るとミラ(峠)を経て東チベットのコンボ地方に向かう。
街から見てメト・チュの対岸の北山麓にカツェル・ゴンパがある。カツェル・ゴンパはソンツェン・ガンポが建てた「デモ(羅刹女)を鎮める13寺」の右肩にあたる寺である。ネパールから招かれたソンツェン・ガンポ王の后、ティツゥンはチベットに寺を建てるにあたり、チベットの大地の下にはデモ(羅刹女)が横たわっているとして、ソンツェン・ガンポ王はこれを鎮めるために心臓部にジョカン寺を、両肩と両足の付け根の四ヶ所、両膝と両肘の四ヶ所、両手の平と両足の平の四ヶ所の動きを止めるために、杭としての13寺を建てたとされている。
 また、街から東に10km行くとタクパ(塔巴)村にタクパ・ゴンパがある。タクパとは「真実、美しい」という意味である。

②タシガン(ダシガン、扎西崗)
 メト・チュ(墨竹曲)沿いに上ると湿地や草原が多くなりタシガン(約3950m)という小さな街がある。この周辺からルト(約4350m)までの間、春はサクラソウの仲間、夏はエーデルワイスの仲間、秋はリンドウの仲間など多くの高山植物を愛でることができる。ラサから約100km。

③ルト(日多)温泉
 さらにメト・チュ(墨竹曲)沿いに標高を約4350mまであがると、数年前までは小さな村でしかなかったルト(日多)がある。2005年に立派な温泉リゾートが建設されたが、標高が高く高山病が懸念される。
 ルトからさらに約10km遡ると谷が2つに別れミラ(峠)へ川蔵公路は大きく北に折れる。ミラまでの高原は広大な放牧地で、長い毛で体格の良いヤクが群れをなし、遊牧の黒テントが点在している。紐でつるしたチーズを売る子供の姿も良く見かける。また、東に直進するとオルガ地方やヤルン・ツァンポ沿いのギャツァ(加査)県へ貫ける巡礼路がある。この道を通ってチベット最高の聖湖の一つ、ラモラ・ツォへの巡礼やトレッキングに行くこともあるという。
 現在のダライラマ14世の認定は、摂生レティン・リンポチェがこのラモラ・ツォ湖面に現れる神託により、転生する土地を探し当てたといわれている。

④ミ・ラ(峠、パ・ラ、米拉山、5030m)
 ラサ地域とコンボ地域の境、現在の行政区ではメトクンガ県とコンボ・ギャムダ県との県境がミ・ラ(峠)だ。ラサから約170km。漢字では米拉とか米拉山と表記されるが、元来チベット人はパ・ラ(またはコンボ・パ・ラ)と呼んでいる。コンボ・ギャムダとニンティ(林芝地区)周辺を伝統的にはひとくくりにして「コンボ」と呼び、地理的にも文化的にもひとつの地域として考えられている。「パ」とは真ん中という意味があり、ラサ地区とコンボ地区の「真ん中にある峠」を意味している。したがってミ・ラがコンボ地域への入口であり、同時に東チベットの入口といえよう。
 ミ・ラの標高は峠の標識では5030mとある。西蔵自治区地図では5384mとなっているものもあるが旧道にしても高すぎ、東側の山をさしているのかもしれない。ラサで調整した気圧式高度計ではいつも4950m前後の値になってしまうが、GPSで測定するとたしかに5030mであった。
 峠にはたくさんのタルチョがはためき、チベット人ドライバーは「ケケ・ソソ(キキ・スス)ラス・ロー」(神々に勝利あれ、あるいは神々よ目覚められよの意)とルンタ(風の馬の意)の紙の束を空に投げる。峠からは西から南に展望が開け、広大な放牧地や雪を頂いた山々が百葉蓮華のように連なる。天気が良いと遠くヤルン・ツァンポの南の雪山まで望むことができる。
 また、夏の間、峠を越えた4900m付近はお花畑となり、ケシ科メコノプシス属(ブルーポピー)をはじめ、エーデルワイスやデイジーの仲間、ゲンチアナの仲間を見ることができる。
 「タルチョ」とは聖なる場所に掲げられる祈りの旗で、5色で5元素「地=黄、水=青、火=赤、風=緑、空=白」を表わす。カム地方では白いのぼり「タルシン」も一般的。寺などの巨大なタルシンは「タルチェン」という。また峠など聖なる場所では大地を清めるサン(香草)を焚くためのサンコ(香炉)やラプツェと呼ばれるマニ石などの石積もあることが多い。

▲ミ・ラ(峠、パ・ラ、米拉山、5030m)

(4)工布江达県(面積約13000k㎡、人口約2.2万人)

①ソンド(スムド、松多)
 ミ・ラを越えると風景はしだいに緑豊かな地域へと変化し、ラサ地方との様変わりを実感する。その入口が松多で象徴的な当て字をしたものだと思うが、まだこの地域(標高約4200m)では樹林帯には入らない。ここはニャン・チュ(川、尼洋曲)の源流地域であるが、下るにつれ松ではなくカシの低木帯やカンバの木が出てくる。ニャン・チュは清流でソンドあたりでの川幅は10~15mほどである。これから公路はニンティ(林芝)までニャン・チュ沿いに下ることになる。ニャン・チュはニンティ(林芝)の南でヤルン・ツァンポに合流して終わる。
 チベット人はニャン・チュ(尼洋曲)を正確にはニャン・ツァンポ(尼洋藏布)と呼び、ツァン地方のギャンツェ(江孜)の上流からヤルツァンポに流れるこむニャンチュ(年楚河)と区別している。

②ジャシ(ジャシン、加興)
 ジャシの村の少し手前に石ちょうの望楼跡がある。まだ東の百巴にはりっぱな五塔があるが、カム東部のギャロン・チベット族や四川省・羌族の独特の石ちょうに似ている。同じ文化のものかは不明だが、ここより西では見たことはない。石ちょうについては第一部Ⅶ章を参照されたい。
ジャシは標高約3900mでチベット式の平屋や二階建ての住居が20軒ばかり続く村である。ここからは低木のカシがみっしりと着いた険しい岩峰や竜骨を思わせる尾根が続く。松本徰夫氏によると堆積岩の珪岩(チャート)とのことだ。

③チンダ(金達)鎮
 嘎木(ガム)村を過ぎるとすぐ門があり、公路沿いに30軒ほどの家や店が並ぶ街、標高約3700mの金達鎮がある。広東省の援助でできた街である。チベット内で「鎮(中国語で村の意)」が付く村は漢民族によって新たに開発された街である場合が多い。このあたりからニャン・チュは広くなり三段以上の河岸段丘が見られる。

④ジャムダ(ギャムダ、太昭古城、タージャオ)とチャムドへの交易路
 標高約3600mまで下ると北に大きな谷が広がる。公路には「太昭古城」の標識があり対岸に村が見えてくる。福建省の援助で場ちがいの門が造られている。村に入ってもさほど見るべきものはないが、丘の上のチョルテンから見た家並みは、古の交易路に思いを馳せることができる。
 木村肥佐生は「チベット潜行10年」でこの街をジャムダと記している。木村は1947年、西川一三とともに中国軍の東チベット侵略準備状況調査のためにここジャムダからチャムドへ旅をしている。ジャムダから北の谷はかつてチャムドとラサを結んだ重要な交易路で、ニャンポ(娘蒲)からトオ・ラ(峠)を越えてラリ(嘉藜)、さらにイゴンツァンポへでている。川蔵公路ができる前は清朝時代から有名な北京・ラサを結ぶ駅伝公路(ジヤサクザム)の一部であった。A-K(パンディット)、デビット・ネール、キングドン・ウォードらもここ太昭に滞在し通過している。
 村人は自らの村の名を「ジャンダ・ニンバ(旧ジャムダ)」と呼び、この先の江达(新ジャムダ)や工布江达と区別している。

⑤コンボ・ギャムダ(コンボ・ジャムダ、工布江達)
 かつてはチャムドとラサの交易路の中継地、ギャムダ・ゾンとして知られたコンボ地方の入口の街であり標高約3400mである。2002年にラサ~八一間が完全舗装される前は、ラサから1日を要し、簡素な招待所に宿泊を余儀なくされていたが、舗装されてからは八一まで1日で行けるため通過するようになった。また同時にパソン・ツォへの観光道路ができてからはパソン・ツォ観光への基点として宿泊施設も増えてきた。
 コンボのチベット人の服装は中央チベットのチュパと異なり、上からかぶるポンチョ型の衣装で腰を紐で結んでいる。最近は松茸の産地として、こんな奥地まで業者が買い付けに来るようになり、2003年から生産が飛躍的に伸びた。このあたりでは8月に松茸が取れ、夏には道路両側に松茸を干す風景が、新しい風物詩となっている。ラサから約280km、八一まで130km。

⑥アペ(阿沛)
 アプ・アワン・ジュクメ氏(中国語でアペ氏)の出身地。チベットの旧貴族の出で、中国侵攻後は共産党と同調し北京中央政府の副主席まで出世した。この地では立派すぎるほどの民族村と橋などがいち早く建設されている。地元利益誘導型の政策だろうか、そのわりにはチベット人には人気がない。

⑦パソン・ツォ(八松錯、巴松湖)
 川蔵公路からパソン・ツォへの分岐にパーホーチン(巴河鎮あるいは巴河新村)という新しい街がある。標高約3250m。かつてはナムセザンバと呼ばれていたようだが、パーホー(巴河)の橋(ザンバ)を指していたのかもしれない。分岐地点の北西には槍ヶ岳のような鋭峰がある。ラサから約330km。
 巴河鎮からパソン・ツォ(八松錯、巴松湖)まで約40km、1994年ころから特別許可で入れるようになったとのことだが、2002年に観光道路(舗装)ができてから徐々に観光客が訪れるようになった。湖から流れる巴河は清流でカナディアン・ロッキーを彷彿させる。道はショカ(雪卡)村の手前で東の谷に入っていく。西の谷はジュラ・チュ(川、朱熱曲)の谷で15km入るとジュラ村がある。村の老人によると(2004.8)、ドジ・パサンという不思議な雪山があり、三神山(他にハワシラ山、ジェシネラカブ山)のひとつで昔から写真に撮っても山容が写らないのだという。
 パソン・ツォへは東の谷を進む。パソン・ツォは別名タクスム・ラムツォと呼ばれる聖湖で、異教国征伐伝説のケサル王の魂が宿るとされている。湖の小島には14世紀に建立されたニンマ派の古刹、ツォスム・ゴンパ(措宗寺)がある。巡礼者は2日かけてパソン・ツォを一周するのだという。現在車道の終点は南岸のジェバ(結巴)村で標高約3400m、その手前あたりからマッターホルンに似た鋭峰ジェシネラカブ(ゲチ・ナラ・カブ6316m、)という神山が望める。ジェバ村の中から畑を抜けて湖岸まで出ると湖面に映るジェシネラカブ峰は望むポイントにタルチョがたなびいている。
 ケサル王とはチベットの口承文学である英雄叙情詩「ケサル王物語」の主人公だ。これを要約すると、ケサルは悪魔に悩まされるリンという国に梵天から遣わされ、国王を決定する競馬において勝利しリン国国王の位に就く。そして周辺の外道の国々を調伏した後、神の国へ去っていく物語である。作者は不明で「ドゥンパ」というシャーマニスティックな説唱芸人によって語り継がれている。

▲八松措とジェシネラカブ峰

(5)林芝県(面積約10200k㎡、人口約2.6万人)

①ペイパ(百巴)
 パーホーチンとペイパの間に工布江达と林芝県の境がある。ちょうど県境あたりに秀巴千年古堡と呼ばれる五塔の石楼(石ちょう)がある。その文化等については現在でも研究中とのことである。パーホーチン側から来ると高台に隠れて見のがしてしまうが、ペイパ側からは数km手前に車道が高くなっているところがあり、そこから五塔が遠望できる。
 ペイパは公路沿いに1kmほど商店や家の並ぶ新しい街で標高約3200mである。柳の並木道が続き、ニャン・チュには大きな河岸段丘が見られる。このあたりの段丘の上には多くの白いタルチョが立っている。ここあたりから八一までは野菜畑やビニールハウスが多く、八一の作物供給地となっている。

▲秀巴千年古堡の五塔の石楼

②パーイー(八一)
 八一鎮と書かれた地図もあるが、もはや鎮(村)ではなくラサに次ぐ大都会である。標高約3025m。中国人民解放軍の建軍記念日8月1日を意味する。人口は約2万人(2004)で林芝県の政治、経済、文化の中心。チベット人住人は少なく漢民族の街で、チベットというよりどこか漢民族の地方都市にいるような感じだ。西蔵民族学院や西蔵農牧学院などの大学、また林芝賓館、香帕拉酒店などラサ以東では唯一まともなホテルもあり、中国銀行では日本円から中国元への両替もできる。街は年々大きく拡張されており、ガラス張りの近代建築の高層ビルも増えているが、厦門広場から北西に入った商店街には市場もあり、生活の匂いも感じることができる。街の東出口付近にピリ(比日山)という神山がある。ラサから約410km。
東郊外に巴結巨柏林保護点という樹齢2500年以上の巨木保護区がある。漢字で柏とあるが日本でいうマツ科トウヒ属の1種である(第一部Ⅲ章参照のこと)。寺院跡地とのことで、巨木が残るのは日本の寺社林とも共通の自然崇拝によるものと思われる。

③ニンティ (ニャンティ、林芝)
 ニャン・チュはここの東でヤルン・ツァンポと合流する。中国語ではニンティと発音されるが、本来はニャン・チュのニャン、あるいはニャン一族の宝座の意味である「ニャンティ」と発音するのが正しい。「ニンティ」では太陽の宝座の意味になる。林芝県の県府は八一にあるため、ここは小さな町にすぎない。標高約3050m。
東にピラミダルなポン・リ(本日神山)というポン教の聖山がある。地元ではチベット最初の王、ニャーティ・ツェンポが天から降臨した場所とされる。チベット初代王降臨の場所は、チベットのあちこちで伝説となっているが、チベット年代記『王統明示鏡』によるとロカ地区(山南地区)ツェタンにあるヤルルン谷のラルロリポ山である。王は降臨の際「地はヤルルンがよし」と言ったという。土地の12人のポン教の賢者が天から降りた神の子だとして、肩車をして下ろし、ニャー(頸)ティ(座)ツェンポ(王)という名前が与えられた。
また、ポン・リはポン教開祖のシェンラプが土着の悪魔を退治した場所ともされる。ボン教徒にとってはカイラスに並ぶ巡礼地である。ここで川蔵公路はニャン・チュと別れ北にセチ・ラに向って上ってゆく。セチ・ラに向けて上るとヤナギ(ジャンマ)、カラマツ(チバ)、シラカバ(タクパ)と林層が変化していく、秋のカラマツの黄葉は美しい。

④セチ・ラ (色斉拉)とナムチャバルワ
 ラサから450km地点にセチ・ラ(峠、4510m)がある。ここから東の方向にヒマラヤの東端とされるナムチャバルワ(7782m)の天を突く尖った山頂が望める。より良い展望を求めるなら峠の北側の山へ登ると良い。何かの施設跡に使われていたジグザグに切られた道を登ると展望の良い広い尾根に出る。山の上からはナムチャバルワ及びギャラペリ(7294m)とその衛星峰も望める。ギャラペリは峠からは展望できないが、ルナン方面に数キロ下った所からギャラペリ山塊の三山、右からランメンザバラ6846m、センダン・プー6812m、ギャラ・ペリ7294m(共に『ヒマラヤ名峰事典』薬師義美・雁部貞夫編、平凡社1996による山名)が展望できる。ただし下り過ぎると樹林帯に入ってしまうため両山とも見えにくくなる。私は過去十数回セチ・ラを通過したがナムチャバルワを展望できた確率は約三割だ。(内、秋は六割以上の確率)展望の面では秋から春が適しているが、夏の高山植物もすばらしい所である。
 ナムチャバルワとギャラペリの間を流れるヤルツァンポは、ナムチャバルワを巻くように180度方向を転回し、いわゆる「大屈曲部」を形成している。聖山カイラスを源としチベット高原を横断して流れるヤルツァンポがどこの海に出るのかは、20世紀初頭まで謎に包まれていた。英国のF.M.ベイリー大佐とT.M.モースヘッドは1913年に驚異の「大屈曲部」を踏査して、この河がベンガル湾に注ぐブラマプトラ河(ベンガル湾でガンジス河に合流)につながっていることを確認した。さらに当時は両河の空白部の高度差から考えて「幻の大滝」が存在すると考えられていたが、その後キングドン・ウォードが捜査し長大な急流を確認し「幻の大滝」は存在しないと結論した。これらの探検史については第二部に記述している。

▲セチラからギャラペリ

▲セチ・ラ(4510m)からヒマラヤの東端・ナムチャバルワ峰(7782m)

⑤ルナン(魯郎)とトゥムバチェ村

▲ルナンからコンボラプツェ峰

 英国の作家ジェームズ・ヒルトンが小説「失われた地平線」で舞台としたシャングリラ(伝説の理想郷)は架空の地ではあるが、発表の時期から推測しアメリカ人植物探検家のジョセフ・ロックのチベット・カム地方の調査報告を参考にした可能性が高いといわれている。一方、チベットには昔からシャンバラ(香巴拉)という理想郷信仰があり、シャングリラの語源はシャンバラではないかと思われる。シャンバラのひとつがこのルナンの谷だという。
 シャンバラの根源は『カーラチャクラ・タントラ』に説かれる仏教王カルキによって統治されるユートピアで本来はこの世に属さない神秘の仏教国にある。チベットではペーユル(隠された聖地)伝説に変化しパドマサンバヴァの埋蔵経典『ペマカータン』に四ケ所が紹介され、修行効果の高い地として説かれた。そのうちの1つの場所がコンボのペマコ(墨脱)で、ルナンの谷はその入口ともいえるため、この地にシャンバラ伝説が伝承されているものと思われる。パンチェンラマ四世の『シャンバラへの道』(18C後半)も有名である。
 ルナンは標高約3400m、周辺は緑豊かな高原で、針葉樹と清流のロン・チュ(魯郎曲)、放牧地と畑が美しくまさに理想郷のようである。村や放牧地からはギャラペリの衛星峰でこの地の神山(ユラ)であるコンボラプツェ峰(ランメンザバラ6846m)が望める。ルナンの街は最近建設が進み、2004年には魯郎賓館なるホテルもできたが、まだ招待所のレベルだ。最近ルナンでは石鍋料理が名物になっている。(ラサから約480km)
 ルナンの南の谷を地元の人はラツォプ(谷、プとは奥の意)と呼んでおり、この谷最奥の村がトゥムバチェ村である。キングドン・ウォードが植物採取のベースキャンプとして半年にわたり拠点として滞在し、この谷をサクラソウの谷と呼び、またメコノプシス・ベイリーと命名した幻の青いケシの種の採取などの成果を上げた。現在、セチ・ラから下る途中の道路脇に谷を見下ろす展望台ができており、時々村の人が観光客目当てに上がってきている。村人に村の名を尋ねたところ「トゥンバチェ」だという。発音もそのままであったので、まるでウォードに会えたような感動をおぼえた。現在の村は22戸で人口は約100人であり、昔はセチ・ラではなくテモ・ラやニェマ・ラを越えてペマコ、ヤルツァンポへ出ていたとのことで、これは昔の文献とも一致する。1913年、F.M.ベイリーとモースヘッドがヤルツァンポ大屈曲部の謎に挑み、ヒマラヤの南のブラマプトラ河と同一の川であるとの結論した有名な探検の際もルナンからニェマ・ラ(ニイマ・ラ)を越えている。村人は谷ギャラという峠もあると話したが、ヤルツァンポ沿いギャラ(村)やギャラペリ(山)との関連がありそうだ。

▲セチラの上のレウムノビレ

▲トゥムバツェ村

⑥トンギュク(東久(トンキュ))
 ロン・チュ(魯郎曲)沿いに公路を一気に下ると西からのトンギュク・チュ(東久曲)と合流する地点が現在のトンギュク、標高約3600mであり、数件の建物があるだけだ。本来のトンギュクはここから数キロほどトンギュク・チュに入ったところで、トンギュク・ゾンがある。キングドン・ウォードはこの谷を遡り、峠を越えてパソン・ツォ(八松錯)にぬけている。また、トンギュクの名はベイリーの探検地図にも記されている。ラサから約510km。

⑦ペルン・モンパ族村(俳(パイ)龍(ロン)門巴族郷、トゥルルン)
 ロン・チュ(魯郎曲)沿いに公路をさらに下ると、ポーロン・ツァンポ(バルン・ツァンポ、帕隆藏布)と合流するあたりがトゥルルン(ペルン、俳龍)だ。標高は約2050mまで下がる。合流点にはタルチョがある。ロン・チュとポーロン・ツァンは合流後互いに90度折れ曲がって、ここから僅か約20kmでヤルツァンポ「大屈曲部」に到達する。タルチョの場所からヤルツァンポ「大屈曲部」方面を望むと河岸壁の上にトレールが確認できる。対岸にはペルン・モンパ族村近くの吊橋を渡らねばならない。ラサから約530km。
初めてここを訪れた時、吊橋の向こうは道なき辺境で原始的な裸族が住むと教えられた。標高も低く温暖であることから納得したものだが、のちにその謎の民族はモンパという少数民族であることを知った。モンパ(またはメンパ)族は人口約7000人。主にチベット自治区南東部の門隅地区やメト(墨脱)県の一部に住んでいる。モンパ語を使い、この言葉はチベット・ミャンマー語族、チベット語派に属するがモンパ語自体の文字はない。モンパ族の多くはチベット仏教を信仰し、少数の者は原始宗教を信仰している。モンパ族の結婚式の独特の風習のひとつに「衣装換え」(お色直し)があり、民俗学的には母系から父系へ、つまり 「衣装換え」が歴史における“従妻居”から“従夫居”への過渡期に男子が採った闘争方法の名残であるとの説がある。

▲トゥルルンでポーロンツァンポはヤルツァンポ大屈曲部へ向う

▲ヤルツァンポ大屈曲部

※これから東は『カンリガルポ山群への道【①カンリガルポ山群周辺】』の波密県へつづく。

カンリガルポ山群への道【①カンリガルポ山群周辺】(波密~察隅)
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成都からカンリガルポへ(川蔵公路東半部・四川ルート)【カンリガルポ山群への道③】
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昆明からカンリガルポへ(茶馬古道・滇藏公路)【カンリガルポ山群への道④】
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