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成都からカンリガルポへ(川蔵公路東半部・四川ルート)【カンリガルポ山群への道③】

成都からカンリガルポへ(川蔵公路東半部・四川ルート)
渡部秀樹

 成都からカンリガルポ山群へ至る四川ルートはいくつかの選択肢がある。それは大きくふたつに分けられる川藏公路の北路、南路に加えて、それらを結ぶいくつかのバイパスがあり、さらに近年の道路開発により、古くから川蔵公路の要所とされてきた康定を経由しない四姑娘山麓を経由するルートなども可能となり、その組み合わせによって多くのルートが考えられるからだ。
 ここでは最短ルートとしての川藏公路南路について解説する。成都から川藏公路南路をとってカンリガルポ山群の東部、ラウ(然烏)までは最短ながら約1400kmの道のりである。実際にこの区間を通る場合はカンリガルポ山群から往路を引き返すことは稀であろうから、最後はラサまでの約2200kmの長大な陸路の旅となる。その間は7つの山脈と7つの大河を越えて進む、世界中で最も変化に富んだ風景を堪能することになる。7つの山脈と7つの大河とは東から、岷江(ミンジャン)(金沙江支流)、チェンライ山脈、大渡河(ダードゥーフー)(金沙江支流)、大雪山(ターシュエシャン)脈、雅龍江(ヤーロンジャン)(ニャクチュ、金沙江支流)、沙魯里山(シャルリシャン)脈、金沙江(ジンサジャン)(ディチュ、長江上流)、芒康山(マルカムシャン)脈、瀾滄江(ランツァンジャン)(ギャムムチュ、メコン川上流)、他念他翁山(ターニェンターウェンシャン)脈、怒江(ヌージャン)(ナチュ、サルウィン川上流)、念青唐古拉山(ニェンチェンタングラシャン)脈と伯舒拉嶺(ボショイラリン)、崗日嘎布(カンリガルポ)山群とヒマラヤ(東端のナムチャバルワ山域)、雅魯藏布(ヤルツァンポ)支流の帕隆藏布(ポーロンツァンポ)であり、横断山脈やアジアの大河を横断する壮大な旅である。

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※2007年当時に書いたガイドです。すでに西部大開発等で変貌が激しく、高速道路が伸びた今は、旧道を行くことはかえって困難になっています。もしまた旧道で悠長に旅をすることが可能であれば、参考にはなるでしょう。


(1) 成都からカンゼ(甘孜藏族自治州)へ

①二郎山を越えるとそこはカンゼ
 成都からチベット文化圏の入口、二郎山(チベット名:ヤーラナムツェ)は成都から約300kmの距離にある。現在は高速道路が雅安(ヤーアン)まで150kmのびており、さらに天全(テンチュワン)から天全河を遡って紫石(ジシ)郷を経て4~5時間で二郎山トンネルまで到達できるようになった。2000年に全長4176mのトンネルが開通する前までは標高約950mの紫石から一気に3437mの峠を越えなければならず、チベットへ向う最初の難所であった。中国のチベット進攻以前は、この山を境に漢族とチベット族が生活圏を分けていた。カンゼのチベット族は、二郎山という天険によって敵を防いできたのである。

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▲二郎山トンネル

②瀘定(ルーティン)
 二郎山を越えカンゼに入ると大渡河のほとりに瀘定はある。瀘定が脚光を浴びる事になったのは、共産党の長征最大の舞台となったからである。毛沢東は『長征詩』の中で「金沙水拍雲断暖大渡橋横鉄索寒」と句に残している。紅軍の戦士達は瑞金の根拠地を追われ延安までの道程において、人跡未踏の四川の山間部や未開地を通らざるを得なかった。そして1935年5月濾定に至り、国民党軍の待ち伏せに遭いながらも大渡河を渡る為にはこの濾定橋を強行突破するしかなかった。橋げたは既に国民党軍により外されていたため、紅軍の決死隊は弾雨の中を残された鉄索だけを頼りに前進し、本体の大渡河の通行路を確保したのであった。(共産軍からみた記録)
 瀘定橋は鉄索橋で、交通・軍事の必要から瀘定を経て康定に通う要路として、清の康煕帝時代(1705年)に建設された。橋の西のたもとには、康煕帝筆の「瀘定橋碑」が建立されている。当時の橋げたは9本の鉄鎖で、長さは127m。900に近い鉄環をつなぎ合わせたもので、ひとつひとつの鉄環に製造した工匠の番号が刻まれていたという。環が切れた場合、製造した工匠に責任をとらせようというものであった。成都から約315km。

③康定(カンディン) (ダルツェンド、打箭炉(ダーチェンルー))
 康定はチベット名ではダルツェンドまたはダルドと呼ばれ大渡河から折多河(康定河)を約25km遡った標高約2600mの谷間にある。旧名、打箭炉(ダーチェンルー)はチベット名に漢字で当て字をしたものである。古くからチベットの東玄関口として知られ、中国チベット交易の中継地として栄えた。現在は甘孜藏族自治州の州都である。東の跑馬山公園にはチベット寺院である吉祥禅院(デントォ・ゴンパ)があり、また康定賓館の前にはゲルク派の安覚寺(ンガチュ・ゴンパ)がある。安覚寺は1954年にダライ・ラマ14世が北京に行く際に滞在している。大きな八角のマニ車を納めた堂が入口にあるが、建築様式は中国の道教寺院の影響をうけており、中国とチベットの建築が混合した様子を見ることができる。成都から約360km。
 康定と日本との関係において意外に知られていないことは1899年、能海寛(のうみゆたか)がこの地で『チベット大蔵経』を入手し翻訳したとされていることである。能海は著『世界における仏教徒』で「仏教はインドに発しチベットを経由して中国に伝わり儒教の影響を受け日本に伝わってからは神道の影響を受け大きく変容している。原典の『チベット大蔵経』を求める必要がある」と書いている。「漢訳では釈迦の真の教えには迫れない。チベット語の経典を手に入れることこそ、日本の仏教再興につながる」と考えた能海は河口慧海に遅れること一年半、1898(明治31)年11月神戸港から上海行きの西京丸に乗り込み、仏教が伝来した道を逆にたどることこそ求法として、寺本婉雅とともに中国・四川省からラサに行く道を選ぶ。1899年10月ダライ・ラマの直轄地パタン(巴塘)の関所で官吏に「引き返せ」と言われ、国境の街ダルツェンドに戻った。そしてダルツェンドで仏教の原典『チベット大蔵経』(大蔵経のどの分野であるか等の詳細は不明)を入手し中国語、英語などに翻訳したとされている。しかし、日本に持ち帰られた経典は散逸し、現在では故郷の島根県金城町歴史民俗資料館と寺本が後に教授となった大谷大学(京都)に一部が残っているだけといわれている。

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▲康定のンガチュゴンパ

 能海寛について一言加えておく。能海は1868年島根県金城町の浄蓮寺に生まれる。11歳のとき東本願寺で得度、慶応義塾などで学ぶ。哲学館(現東洋大)の南条文雄に師事。1898(明治31)年、結婚、チベットに旅立つ。1901年雲南省阿敦子(現、徳欽)付近で消息不明となった。

④木格措(湖、ムグェツォ)
 康定の北、二道橋温泉を経て約26kmのところに木格措風景名勝区がある。シラカバやツツジ、シャクナゲの原生林の中の標高3780mの地点に中心となる木格措(ムグェツォ)がある。四川の北西部では最大の山上湖で最深部は70mあるという。「ムグェ」(ミゲ)とはチベット語で雪人(野人)、雪男のことであり、森に住む野人伝説のある地である。南は折多山(4962m)北は5000m級の無名の山々に囲まれたカール状の氷河谷を形成し周辺には紅海、黒海、白海、七色海とよばれる氷河湖や放牧場があり、ハイキング道も整備されている。秋の紅葉や冬の霧氷が美しい景勝地として知られている。

⑤康定から磨西(モシ)への新道
 康定と磨西(モシ)を結ぶ新道は横断山脈最高峰のミニヤコンカ(7556m)から連なる大雪山脈を雪門坎と呼ばれる約3900mの峠で越える山岳道路である。康定の南東に位置する田海子(ティエンハイツ)山(6070m、ラモシェ山塊)を間近に仰ぎ見ることができる。峠を越えると新興(シンシン)を経てミニヤコンカ麓の海螺沟(ハイローゴウ)への入口、磨西(約1600m)に至る。

⑥折多山(チェトーシャン)口(峠、ダルド・ラ4298m)

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▲折多山への登り

 康定から西へ進み折多塘(チェトータン)村を過ぎると急な登坂となる。いくつかのヘヤピンカーブを繰り返し約35kmで標高4298mの折多山口(峠)に到着する。峠のチベット名はダルド・ラで康定のチベット名ダルチェンド(ダルド)に由来している。峠のすぐ北には折多山(4962m)が迫っている。東から南に目をやると大雪山脈の大パノラマが広がる。峠の南の展望台に登るとさらに開け、ラモシェ山塊の笔架山(5880m)、蛇海子山(5878m)、白海子山(5924m)、田海子山(6070m)から大雪山脈の主峰であり、さらに横断山脈最高峰のミニヤコンカ(7556m)のピラミダルな山頂が遠望できる。折多山峠を越えるとその北西には広大な搭公高原が広がり、チベット高原の一角に入ったことが実感できる。成都から約400km。

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▲折多山口(ダルドラ)

⑦新渡橋(シンドゥーチャオ)(ゾンシャプ)
 折多山峠から約40km下った標高約3500mのところに新渡橋の街がある。ここは東西をつなぐ川藏公路(南路)と南北に伸びるバイパス(北は甘孜県、南は九龍県)の分岐点であり、北の搭公高原への入口である。街あるいは10kmほど東に戻った瓦澤(ワズ)の村あたりからはミニヤコンカのピラミダルな山容を望むことができる。また瓦澤から格巴宗(ゴバゾン)村あたりは石造りで石楼を持った立派な民家が点在している。新渡橋はチベット名ではゾンシャプまたはラガ・トンダ(村)と呼ばれている。2つの村からできているのかもしれないが正確なことは不明である。街はチベット族が多く大きな露天市場も出ている。

⑧ラガン、搭公(ターゴン)と海子山
 新都橋から川藏公路南路を離れて北路バイパスを北上すると約1時間(約40km)でラガンゴンパ(塔公寺)のあるラガン(ターゴン、塔公)に着く。高原、山岳、ゴンパなど時間をとって立寄る価値は十分にある。塔公は標高約3700mの高原でゴンパ周辺は三日月形の吉祥の平原をであり、東にはユラ(神山)である海子山(ハイツシャン5820m)が天を突いている。

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▲ラガンの海子山

 塔公寺から車道を挟んで東のチョルテンがある丘に登ると、東に木雅金塔という大きな金色の仏塔が見え、その奥に海子山の雄姿を望むことができる。海子山はチベットでは「ジャラ(山々の王)」とよばれていると過去の探検隊の記録に登場するが、ジャラが「山々の王」の意味になることには疑問が残る。また、現在地元のチベット族は「ザリ」と呼んでいるがこれは「岩山」の意味に取れ、「カンリ(雪山)」などと同様に普通名詞が固有名詞化した可能性もある。また寺の漢語資料には「雅拉(ヤラ)神山」と書かれており、はっきり統一はされていないようである。
 寺の資料によるとラガンゴンパ(塔公寺)は1000年以上の歴史があり、観音菩薩に関するなどの伝説が多く残されている。雅拉神山(海子山)は観音菩薩の伝説とも密接な関係があり、チベット仏教四派共通の聖山であり、周辺は修行の場所としても知られている。ソンツェンガンポ王に唐の文成公主が嫁ぐ際に持参した釈迦牟尼像はここで地に根をおろしたように移動不可能になったという(ここに置いていけとしゃべったと伝説にある)。文成公主は複製を作るように命じ、下半身までを製造したところ、翌朝には自然に上半身が完成していたという。文成公主がラサに嫁いだ後、ソンツェンガンポ王は漢に向かって108の寺を建造するよう政令を発布し、最後の108番目の寺をここラガンに建立した。現在はグルリンポチェを祀る蓮生堂、立派な千手千眼観音を祭る観音堂、文成公主のツァツァの入った仏塔がある本堂、文成公主にまつわる釈迦牟尼像を祀る塔公堂(ジョカン堂)ミロクボサツを祀る成就堂からなる。北にある124のチョルテン群は圧巻である。また西の塔公神山にはおびただしい数の白とピンクのタルチョが三角、または方形に並べられ山を彩っている。風にたなびく風景は壮観というより神秘的である。

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▲ラガンゴンパのチョルテン群とタルチョ群

⑨高尓寺山(ガオアスーシャン)(峠4412m)
 新都橋から川藏公路を西に向かう最初の峠が高尓寺山(峠)である。標高4312mとなっている地図もあるが、峠の標識は4412mとなっていた。峠からは北東に大雪山脈の北に位置する海子山(5820m)や蓮花夕照連山(レンホワシジャオレンシャン)(5020m他)を望むことができる。南東のミニヤコンカ方面は近くの山が遮るため展望できないが、車で5分ほど西に進むと大草原地帯が広がりミニヤコンカを展望することができる。

⑩雅江(ヤージャン)(ニャクチュカ)
 高尓寺山からジグザグに下るとゴンパのように大きな石造りの家々がある村が現われる、臥龍寺といわれる地域で、これから日基、八角楼という村あたりは木雅蔵族の村であるとのこと。木雅(ムーヤ)とは地域名で、ミニヤコンカの「ミニヤ」と同意である。道はやがて雅龍江(ヤーロンジャン)(チベット名ニャク・チュ)に下る。雅龍江は長江の大支流で大雪山脈とその北西に続く工卡拉山(ゴンカラシャン)の山脈と沙魯里山(シャルリシャン)の山脈の間を北から南に流れる。雅龍江の西斜面に雅江(ヤージャン2690m)の街はへばりつくように広がる。甘孜藏族自治州雅江県の県府でチベット名はニャクチュカである。街には漢民族が多く食堂や商店が狭い斜面の道路沿いにへばりついている。成都から約510km。

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▲雅龍江と雅江の町

⑪剪子湾山(ゼンズワンシャン)(峠4659m)
 雅龍江の支流の渓谷を遡るとカシやモミ森林地帯となり標高を上げるにつれシャクナゲの低木帯から森林限界へと続く。峠、剪子湾山(ゼンズワンシャン)は雅江県の地図、および峠の標識には4659mとなっているが、高度計では300mほど低くなり、あまりにも誤差があるため峠の標高であるかは疑わしい。峠の東側からは大雪山脈の中にミニヤコンカの孤高の三角形のシルエットを遠望することができる。これから理塘までは4000m以上の高原を上下しながら進む。

⑫卡子拉山(カジラシャン)(峠、4718m)からボ・ラ(峠、約4300m)
 シャクナゲの低木帯の中を進み標高が4000m近くに下がると浅い谷の中に封山育林区(森林保護区)であるモミとカシの森が出現する。このあたりの高原は雅龍江と金沙江との間にあり、幾つかの支流の源流地帯となっている。卡子拉(カジラ)山の峠の標識は4710mとなっているが、ここでも高度計では300mほど低くなってしまう。峠からは360度にわたり4000~4500mの丘陵と高原の波がうねるように連なって展望できる。ここから理塘にいたる峠、ボ・ラ(約4300m)までの草原の雄大さは筆舌に尽くし難い。草千里ならぬ草万里といった光景である。道は高原の尾根のスカイラインを進んだかと思うと浅い谷の中を通ったりしながら高原を抜けていく。阿薩扎日(アサザリ4754m)という山を南に見ながら進むとボ・ラにいたる。ボ・ラからは西に広大な理塘高原の中に理塘の街を遥かに望むことができる。これから先の東チベット、コンボの光景とは大きく違い、西チベットであるウ・ツァン、ンガリ地方の景色と酷似しており、よく「チベットらしい風景」と形容されるゆえんである。

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▲理塘の街を望む

⑬理塘(リタン)
 理塘は川藏公路を康定から約290km西に進んだ盆地の大平原の真っ只中にあり、基準点標高3993m、甘孜藏族自治州理塘県の県府である。夏の草原で繰りひろげられる競馬祭は勇壮なカムパの男たちの祭として有名である。リタンとはチベット語で「銅鏡のように平坦な草原の堰」の意味があるという。理塘県の資料には世界で最も高い政府機関所在地のひとつで海抜4014mとある。この標高は町の上部、リタンゴンパあたりの標高を指しているものと思われる。リタンゴンパはカム地方最大のゲルク派のゴンパで、僧侶の話によると現在約500人の僧が8つの学堂で修行しているという。高台の最上部には釈迦牟尼堂、ツォンカパ堂、弥勒堂の3つの堂が建立されている。弥勒堂の内部には新しい壁画で飾られており、僧侶の修行の道を描いた壁画など詳細において鑑賞することができる。ここではカンリガルポ山群の然烏のユラ(神山)であるドジ・ツェンザ(ドルジェ・ギェンツェン)はこの地域のユラ(土地のカミ)であるポムラ尊の従者として壁画に書かれている。また、下の新市街の高城賓館の向かいの広場にはケサル王の銅像があり、この地域とケサル王物語(チベット口承文学である世界最長の英雄叙事詩)の結びつきが強いことが窺われる。
 理塘は雲南省迪慶藏族自治州の中甸(シャングリラ)への分岐でもあり、雲南からはコンガ雪山の聳える稲城県、郷城県を経由してここに至る。成都から約650km。

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▲理塘高原
 
⑭海子山(ハイツシャン)(峠)
 理塘から無量河(ウリャンフー)を100km近く遡ると金沙江との分水嶺に、標高4675mの海子山という広い峠がある。峠の北側には山上湖(海子)があり、それが峠名の由来であると思われる。旧道は理塘から巴塘までは川藏公路のはるか南を通っていたこともあり、海子山のチベット名は不明である。峠の北には山名としての海子山(5833m)があり別名を夏塞(シアシェ)という。夏塞の右には5609m峰、左には5508m峰が聳える。北は沙魯里山(シャルリシャン)の山群であり、東南には党結真拉(ダンチェツェンラ)の山群の一角である。

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海子山の山上湖

⑮巴塘(バタン)
 理塘から川藏公路を西に約190km、金沙江からは支流、巴曲(バチュ)を約10km遡った標高約2650mに巴塘はある。孜藏族自治州巴塘県は、チベット自治区と雲南省を境とする金沙江の河畔にある。1989年の巴塘大地震はマグニチュード6.7で家屋の40%が崩壊したといわれる。現在の再開発はすさまじく大通りやビルは大都会さながらの様相である。成都から約840km。
 巴塘から約20km北に巴曲を遡ると党巴(タンバ)郷があり、ここが党結真拉(ダンチェツェンラ)の山域への東の入口である。理塘から巴塘に至る旧道と現在の川藏公路は党結真拉を挟んで南北に分かれている。川藏公路からはこの山塊の一部しか望むことはできない。2002年に横断山脈研究会(阪本公一隊長)が5833m峰に初登した際、四川省登山協会は5833m峰を党結真拉、最高峰を央莫龍(ヤンモーロン6060m)と定義した(阪本、2002、村山2002、宮川2002)。しかし中村保(2000)は、土地の人及び人民解放軍の地形図から央莫龍は山塊東南東の放牧地の名称で、最高峰が党結真拉であると結論している。四川省登山協会の根拠は不明である。

(2)カンゼ(甘孜藏族自治州)からチベット自治区へ

①四川省とチベット自治区の境界を成す金沙江(ジンサージャン)(チベット名:ディチュ)
 巴塘から巴曲(バチュ、川)を約10km下ると金沙江(チベット名:ディチュ)の左岸沿いの道となる。左岸をさらに約20km下ると金沙江に橋が架かる竹巴龍(トゥバロン)という川藏公路南路では四川省最後の村がある。ここは標高2500m台で低いにもかかわらず山にまったく森林が見られないが、竹巴龍自然保護区に指定されている。成都から約870km。
 金沙江を渡るとチベット自治区芒康(マルカム)県に入り朱巴(チベット名:ルバ)というチベット自治区最初の村がある。朱巴の金沙江のほとりには大きなチョルテンが祀られている。朱巴村から金沙江の支流である達拉曲という清流を登り、海通(ハイトン、約3550m)という兵站のあるあたりは、コンボ地方、工布江達あたりのニャンツァンポを遡っているような緑豊かな森林地帯(モミ、カシ、カンバ)となる。このあたりの渓流は水力発電に利用されている。

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▲金沙江とルバのチョルテン

②芒康(マルカム)
 川藏公路とかつて茶馬古道と呼ばれた雲南省からチベットへの道、滇藏公路が合流する街が芒康(マルカム、約3850m)で、街には食堂や宿が建ちならんでいる。ラサ、成都、昆明に至る三叉路のかたわらにはチョルテンとマニ・ラカン(堂)があり、人々が熱心にコルラ(巡回)を繰り返している。雲南方面に入ったところにはホセレ・ゴンパがある。成都から約950km、ラサから約1200km。
 芒康から車で約20分登ると金沙江と瀾滄江(メコン川)の分水嶺の高原の峠、拉烏(ラウ)山口(約4300m)に至る。峠からは東に芒康山群、西に他念他翁(ターニェンターウェン、チベット名:ダムヨン)山群の山々が望まれる。峠一帯にはナキウサギ(チベット名:アプラ)が生息しており、そのかわいらしい姿を見ることができる。ここから瀾滄江を挟んだ広大な山域は森林地帯であり封山育林区(森林保護区)に指定されている。風景はコンボ地域の魯朗(ルナン)あたりによく似ている。

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▲マルカムのそれぞれラサ、成都、昆明に至る三叉路

③竹卡(ズカ)と瀾滄江(ランツァンジャン)(メコン川、チベット名:ギャムムチュ)
 拉烏山口を下ると2階3階にバルコニーをもつ大きな家の村々(上からカジュン、ドトォ、ドメ、ルワ)が点在している。如美(ルメイ)鎮に入ると瀾滄江(メコン川、チベット名:ギャムムチュまたはザチュ)のゴルジュの左岸に出る。狭い段丘面は畑や住居などに利用されている。河が深く岩場が迫り出し狭くなったところに橋があり川幅約20mほどの瀾滄江を渡る標高は約2650mである。渡ると竹卡(ズカ)という村である。村を過ぎ少し登ったあたりから竹卡村と瀾滄江を見下ろせるポイントがある。

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▲メコン川とズカ村

④脚巴山(チョ・ラ)と東達拉(ドゥンダ・ラ)
 竹卡村から車で約10分登ると標高約3150mのところに脚巴(チベット名:ジョバ)村がある。さらに20分登るとチベット人がチョ・ラと呼ぶ峠がある。標識には漢字で脚巴山(3908m)とある。また覚巴山と表示してある地図もあるがいずれも発音はジャオバである。地図には北の約5500m峰を脚巴山と表示したものもある。村名のジョバに漢字を当てたものが峠名になったのではないかと推測する。峠を越えると瀾滄江水系の支流の清流を望みながら下る。美しい谷にはチンコー麦(裸麦)の畑や桃の木のある村が見おろせる。谷奥の南方面には他念他翁(ターニェンターウェン、チベット名:ダムヨン)山群一角の山々が望める。動日嘎波(ドゥンリガルポ6090m)の鋭い岩氷群は印象的である。この山群の南には梅里雪山の山群である怒山(ヌシャン)が連なる。
 瀾滄江水系の支流の清流まで一旦下り(約3400m)流れに沿って登る。登巴(テンパ)村(約3500m)あたりから谷は狭くなり高さ10m以上のモミの森となる。一帯は「長江上游西藏芒康県天然林保護区域」に指定されているが、このあたりは長江(金沙江)上流ではなく瀾滄江と怒江(ヌージャン、サルウィン川)の間の水系である。標高が高くなり森林限界を超えると他念他翁山群を越える峠、東達拉(ドゥンダ・ラ、5008m)である。ここから西は怒江(サルウィン川)の支流である玉曲(ユチュ)の水系になる。東達拉は長らく川藏公路の最高点とされていたが、現在標識の上では(実際の標高は不明)ラサ地域とコンボ地域の境のミ・ラ(米拉山5030m)が最高点となる。

⑤左貢(ゴン)(ゾガン)とブヤ・ゴンパ
 東達拉から玉曲(ユチュ)の支流を下り、本流に出て左岸を遡ると左貢県の県府がある左貢(チベット名:ゾガン、標高3790m)がある。旧名は旺達(ワンダ)鎮で公路の両脇に商店や宿が並ぶ。左貢は成都とラサのほぼ中間に位置し、どちらからも一番遠い奥地の辺境の街ということになる。成都から約1100km、ラサから約1070km。
 左貢から約5km先の鳥雅(ブヤ)にゲルク派のブヤ・ゴンパはある。村人によるとブヤの起源は弥勒菩薩像を建立中、胴体まできたところで翌朝見ると頭部が自然にできており、皆が「オヤ」(驚いた時の感動詞)と叫んだところからオヤ・ゴンパ→ブヤ・ゴンパとなったという。現在ゴンパには一階から二階まで突き抜けた巨大な弥勒菩薩像が祀られている。

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▲ブヤ・ゴンパ

⑥邦バンダ)(帮達、ポムダ)

 鳥雅(ブヤ)から玉曲(ユチュ)を遡って行くと約30分で老左貢のゾガン・ゴンパが見えてくる。さらに約30分すすむと、丘の上に新しいゴンパと公路沿いに大きなゴンパの無残な廃墟が現れる。田妥(チベット名:テント)にあるトシャ・ゴンパである。文化大革命で壊された廃墟は壁面のみが残るがかなり大きなゴンパであったことがわかる。さらにドロミテの山々のような岩峰群の中、玉曲の上流を遡ること約30分で川藏公路南路と北路の分岐点である邦達(チベット名:ポムダ)に入る。標高は約4100mでバンダ高原と呼ばれるように赤茶けた荒涼とした大地の中にトラックステーションのような街がある。ここから川藏公路北路へのバイパスを昌都(チャムド)方面に40km行くと約4300mの高原にチャムド空港(邦達機場)がある。

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▲トシャゴンパの廃墟

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▲バンダ高原

⑦業拉(イエ・ラ)から怒江(ヌージャン)(サルウィン川)
 背後に邦達の街を見下ろしながら登っていくと標高4618mの標識のある業拉(イエ・ラ)の峠がある。チベット名はザカンパ・ラという。峠からは伯舒拉嶺(ボショイラリン)の山並みが望める。業拉を下りだすとすぐに、これから怒江まで一気に2000m近く下る九十九折(実際には約200のカーブ)の壮大な景観を望むことができる。下っていくと斜面に白壁がロ型やコ型をした民家が点在している。やがて標高約2700mで怒江(サルウィン川、チベット名:ナチュまたはングルチュ)の左岸に出る。怒江橋を渡りそのまま怒江隧道に入る。しばらく右岸を行くが怒江のゴルジュと流れはまさに怒る川という名にぴったりである。

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▲業拉山から恕江へ下る九十九折

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▲業拉の下のコロ型住居

⑧八宿(パシュ)
 怒江の支流のレンチュのゴルジュを遡ると瓦達(ワダ)村を過ぎたあたりから開けた赤土、黄土の山々に囲まれた地形となる。伯舒拉嶺(ボショイラリン)の山並みを南に見ながら進むと八宿県の県府である八宿(パシュ、標高3240m)に着く。県府のある村は古くは白馬鎮という名であった。元は蓮華を意味するペマが転じてパイマ(白馬)になった。街はレンチュの右岸に発達しているが、左岸にはペマゴンパがある。(成都から約1300km、ラサから約870km)
 八宿からカンリガルポ山群の高峰群の入口の町、然烏(ラウ)までは約90kmの道のりである。途中、安久拉(アンジュ・ラ、チベット名:ペイ・ラ、約4450m)の小さな山上湖のある広い峠を越えゴルジュ帯からドジツェンザ峰の三角の峰が望めると然烏は近い。

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▲怒江(サルウィン川)沿いの道

※これから西は『カンリガルポ山群への道【①カンリガルポ山群周辺】』の八宿県へつづく。

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▲旅行人ノートの地図より

カンリガルポ山群への道【①カンリガルポ山群周辺】(波密~察隅)
⬇️

ラサからカンリガルポへ(川藏公路西半部)【カンリガルポ山群への道②】
⬇️

昆明からカンリガルポへ(茶馬古道・滇藏公路)【カンリガルポ山群への道④】
⬇️


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