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昆明からカンリガルポへ(茶馬古道・滇藏公路)【カンリガルポ山群への道④】

昆明からカンリガルポへ(茶馬古道・滇藏公路)
 渡部秀樹

 
 雲南省の迪慶(デチェン)藏族自治州を経て東チベット・カンリガルポ山群へ至る道はかつての交易路「茶馬古道」を辿る旅である。6世紀末から7世紀初めに形づくられた茶馬古道は、滇(雲南)と藏(チベット)をつなぐ、茶葉、塩、馬、薬材、毛皮などの交易のルートとなっていった。唐・宋代に始まり明・清代に栄え、第二次大戦の中後期に最盛期を迎えた。一般に言われている茶馬古道の主要ルートは、雲南の西双版納、普洱、保山、大理、麗江を通り、迪慶を経てチベットの昌都、ラサへ至り、さらにネパール、インドなど南アジアにまで連なるルート。もう一本は、四川の雅安に始まり、涼山(西昌)を経て雲南の麗江に合流するルートである。古代中国とチベット間では中国の"茶"とチベットの"馬"が主に取引きされたため、この民族間経済文化交流ルートに「茶馬古道」の名がつけられたという。現在の道路は「滇藏公路」と呼ばれている。
 2003年雲南省北西部に位置する「三江並流保護地域(Three Parallel Rivers of Yunnan Protected Areas)」がユネスコの世界遺産(中国29番目)に登録された。「三江並流」はチベット高原に発する金沙江(長江上流、チベット名:ディチュ)、瀾滄江(メコン川、チベット名:ギャムムチュまたはザチュ)、怒江(サルウィン川、チベット名:ナチュまたはングルチュ)の三河が雲南省西北部で約170キロ並行して流れ、その区間で金沙江、瀾滄江間の最短直線距離は66キロ、瀾滄江と怒江間は19キロである。並行して流れながらも合流しない奇観を呈している。また同地域にはチベット族、ナシ族、リス族、イ族、ヌー族など16の少数民族の合同居住地で、世界でも類を見ない多民族、多言語、多宗教、多風俗が共存する地域である。
 雲南省の省都、昆明からチベット文化圏への旅は私にとって特別の思い入れがある。宮崎県の「照葉樹林文化を考える会」にかかわり雲南省奥地の調査が始まったのは1985年からで、その当時はまだ中国の辺境の地の訪問が困難な時代であった。大理、麗江を皮切りに80年代末まで四川省の西昌、攀枝花、木里藏族自治県の濾古湖から、雲貴高原まで広範囲に少数民族の文化を中心に取材踏査を続けた。その後の中国の発展は凄まじく、特に西部大開発が始まってからは、これらの地域は様変わりし現在はさらに加速的に変化している。日本山岳会福岡支部で2001年に雲南省迪慶藏族自治州からラサまで走破してカンリガルポ調査を行い、その後もチベットや横断山脈の奥地に通い続けるのは80年代に経験した辺境雲南の旅の刺激を今でも追い求めているからであろう。ちなみに松本徰夫氏は、中国科学院との横断山脈地質共同研究を1983年からおこなっている。(松本,1983;Matsumoto and Kano,1986)
 現在、昆明からスタートする旅は大理、麗江、香格里拉(中甸)までそれぞれ空路で入ることができるが、途中の見どころも多いため陸路で入った場合を想定して、これまでの見解を述べる。

※2007年当時に書いたガイドです。すでに西部大開発等で変貌が激しく、高速道路が伸びた今は、旧道を行くことはかえって困難になっています。もしまた旧道で悠長に旅をすることが可能であれば、参考にはなるでしょう。

(1)昆明から滇緬公路をかつての南詔国・大理へ

①楚雄
 昆明から現在は高速道路で約160km、約2時間で楚雄イ(彝)族自治州の州府、楚雄に至る。滇中高原に位置し、州の総人口約250万人中イ(彝)族人口は60万人余りで総人口の24%である。楚雄は元謀猿人のふるさとであることから「中国人類発祥の地」と呼ばれたり、また、楚雄州禄豊県ではジュラ紀初期以降の恐竜の化石が大量に発見されていることから「恐竜のふるさと」とも呼ばれている。
 昆明から楚雄を経て大理に至る道は現在「滇緬公路」(緬は緬甸=ミャンマー)と呼ばれ、かつてのビルマ・ロードの一部で、大理、保山(パオシャン)を経てミャンマーのマンダレーへ至る。第2次大戦中に連合軍により建設され、援蒋(蒋介石を支援する)ルートともいわれた。英領ビルマのヤンゴンに陸揚げした物資を鉄道でバモーまで運び、そこからトラックで山なみを越え、中国雲南省さらには四川省へ向かう道であった。1942年に日本軍がビルマに進出した目的のひとつはこのビルマ・ロードの封鎖にあった。

②大理白族自治州
 大理(ダーリ)は歴史が古く、前漢の時代、武帝が雲南に郡県を設置し漢王朝に帰属した。唐宋王朝の時代には南詔国、大理国の都として栄えた。元代までは雲南の政治、経済、文化の中心地となっていたが、元朝フビライに敗北し、雲南の政治、経済、文化の中心地が昆明に移された。現在は大理白族自治州の州都として、また悠久なる歴史と文化、風光明媚な都として知られている。例えば、大理四大奇観として“風、花、雪、月”があげられ「下関の風、上関の花、蒼山の雪、洱海の月」を誇っている。また洱海(アールハイ)の特産巻貝のタニシは突起のあるサザエのようで、美味である。大理の行政上の中心は洱海の南の下関にある。昆明から約400km。

▲大理古城

③大理古城と大理三塔
 大理古城は下関から13km、地名から石の名になった大理石の産地、蒼山の麓の標高2020mにある。明代1382年に創建された大理古城は周囲6km、城壁の高さ7.5m、厚さ6m、東西南北に4つの城門がある。城内には一本南北に縦貫した通りがあり、両側に大理石製品、藍染め、ろうけつ染めなどの売店や白族風の食堂などが並んでいる。城内には清らかな水路が走り、庭に花を植えた白族伝統の住宅が建ち並んでいる。
 塔は大理三崇聖寺三塔とも称され、大理古城の西北約1kmにあり大理文化の象徴とされている。三塔の主塔は千尋塔と呼ばれる高さ約70m、方形十六層の塔で、西安の小雁塔と同様の典型的な唐代様式の塔である。建立は南詔の保和年間(824-839年)説が有力である。三塔の横にはもとは崇聖寺という大きい寺があり、周り3.5km、部屋890軒、仏像は11400体もあったという。
 蒼山は19峰からなる連山で、最高峰の馬龍峰は標高4122mである。中和寺の上に水平歩道が整備されたが馬龍峰への登山道は整備されてはいない。

▲大理三塔

④喜州と周城
 大理周辺は白(ペー)族が多く暮らすエリアで伝統文化が色濃く残っている。白族の民俗慣習、独特の白族料理、工芸品また、伝統的な白族三月街祭などは観光産業としても注目されている。白族の村として公路沿いで便利なのは大理古城からそれぞれ約15kmと20km北に位置する喜州と周城だ。白族の住居は白壁を基調に装飾がほどこされた切妻型の家で屋根の両端は反り上がり船形をしている。これは白族が淡水湖、洱海で漁業(鵜飼なども)を営んできたことに由来するという。「三房一照壁」、「四合五天井」という四方を家屋で囲い外壁はほとんど上が白色(石灰)、下が灰色(泥)に塗られている。
 喜州は「喜洲白族民居建築群」として雲南省の「重点文物保存単位」に指定されている。四大家、八中家、十二小家と称される由緒ある富豪の商人の街である。また三道茶と民族舞踊を見学できる村として貴重である。三道茶とはこの地方の白族が客人をもてなすためにたてるお茶で三杯出され、一苦(人生の辛さ)・ニ甜(人生の喜び)・三回味(懐古)という人生を表わすお茶として客をもてなす。
 周城は1500戸あり大理地域で最も大きな白族の村である。藍の絞り染めは周城白族の明代末期からの伝統工芸品で、村の女性たちは毎日、糸と針を手に布地を絞る作業に追われている。現在、村の絞り藍染め工場が生産する製品の9割以上は日本に輸出されているという。周城に関しては大阪の民族博物館の横山廣子氏が長く滞在し研究されている。
 大理古城の北方20kmには蝴蝶泉があり、蒼山の大理石からの湧水である。祭ともなると、民族衣装をつけた白族の女性でにぎわう。

▲周城

▲白族の娘

(2)納西(ナシ)族自治県から迪慶(デチェン)藏族自治州へ

①麗江(リージャン)
 麗江は白溪場(または九河)で滇藏公路を右に折れて約50km入り込む。大理からは約190kmで標高約2400mの麗江納西(ナシ)族自治県大研鎮にある県府である。昆明から航空便も就航している。県人口100万人強の内、納西族をはじめペー族、プミ族、リス族、イ族、ミャオ族などの少数民族が半分以上を占めている。
 納西族は東巴(トンパ)文化を伝承していることで知られている。「トンパ」とは納西族の言葉で宗教儀式を司る祭司のことで、自然崇拝を中心に発展してきたものだ。東巴文化には東巴教をはじめ、独特の象形文字である東巴文字、音楽、舞踏、絵画などが見られる。玉泉公園にある「東巴文化研究所」では、老東巴と研究者との協力による経典の解読と記録が行なわれてきた。東巴教は納西族の原始的宗教に、当時吐蕃王国(チベット)で盛んだったポン教を吸収して形成されたもので、太陽、月、星、山、水、風、火などの自然物を崇拝し万物の霊性を崇拝するものだ。現在のポン教が仏教の影響を多大に受けていることもあり、ポン教の原型を知る意味からも貴重な宗教といえよう。
 アメリカのプラントハンターであり文化人類学者であるジョセフ・ロック(1884-1962)は1922年を皮切りに長年麗江に通い、しゃくなげなどの植物、トンパなどの民族文化、地理などを研究し、玉龍雪山や麗江の風情を『ナシュナル・ジオグラフィック・マガジン』(1926,ほか)などに発表し世界へ紹介したこともあり、古くから欧米人に人気のあるエリアである。昆明から約590km。

       ▲麗江四方街

②麗江古城・四方街

 四方街は麗江・大研鎮に宋代末(12世紀末)に創建された納西族を中心とした古城である。古城ながら周囲に城壁がなく、伝説によれば、木氏という世襲の知府がこの一帯を支配し、「木」氏を城壁で囲むと「困」の字になることを嫌ったからだという。石畳の路は雨季にも適しており、三本の清らかな水路が走り、明清時代のアーチ橋を含む石橋が約300あるという。四方街を中心として路地が放射状に延びている。民家はすべて木と土から成り瓦葺の構造で現存する古代建築の傑作として1997年に世界文化遺産に指定された。

▲麗江四方街の水路

③玉龍雪山(ユイロン・シュエシャン)
 麗江の北15kmに聳えている玉龍雪山は、南北約35km東西約25kmの13峰からなる山塊で主峰は扇子陡と称される5596m峰である。北半球南端とされる氷河と岩峰群が複雑な地形を形成しているが、麗江側からはどっしりした独立峰のように見える。滇藏公路を虎跳峡方面に進んだ山群の西側から望むと鋭鋒の連山が圧巻である。納西族の守護尊である「三朶」は玉龍雪山の化身であるという。3365mにある聖地、雲杉坪や4500mにある展望台までロープウェイであがることができる。)

▲玉龍雪山

④石鼓(シーク)
 青藏高原を源流とする金沙江(長江、チベット名:ディチュ)は雲南に入って、瀾滄江、怒江と並んで横断山脈の谷の中を走り、麗江県石鼓鎮で突然、南への流れが約130度の角度で急カーブをなし東北方向に流れを変える。このV字に湾曲した場所は「長江第一湾」と称されている。このあたりは流れが比較的緩やかなため昔から金沙江の渡しとして知られていた。三国時代の諸葛孔明は雲南遠征の時ここを通って南下した。また1936年に紅軍長征もここから川を渡って北上した。
 石鼓へは麗江への分岐、白溪場の少し先から左に入る。麗江からは約40kmである。村に鼓形の石碑があるので「石鼓鎮」と名付けられたという。伝説によれば鼓の側面に裂け目があり、世の中が不穏なため鼓が自ら裂け、太平の世になると閉じるという。

▲石鼓の長江第一湾

⑤虎跳峡(フーチャオシア)
 金沙江のゴルジュ、虎跳峡は麗江から約60km、滇藏公路の西南側の入口は虎跳峡鎮(橋頭、標高約1900m)にある。全長18km、上虎跳、中虎跳、下虎跳の3つのエリアに分かれていて、この間金沙江は高低差で約200m下り、東北側の入口、大具に至る。東に玉龍雪山、西は哈巴雪山に挟まれ峡谷の高度差は3790m、川幅が狭い所で30m以下の大激流地帯で、虎がこの峡谷を飛び越えたという伝説が名前の由来である。渓谷内には岩の暗礁が続き高低差10m以上の奔流や、支流から落ちる滝も多い。
 かつては冒険的なトレッキング縦走コースとして知られたが、現在は観光開発が進んでおり上虎跳へは虎跳峡鎮(橋頭)から車で入り、急な階段を下って近づくことができる。雨季の水量はすさまじく怒涛のうねりは圧巻である。現在でも徒歩での縦走は2日間を要し雨季は危険である。ダム建設も進められており、観光開発とともに今後どのように変化していくのか予想ができない。

⑥香格里拉(シャングリラ)(中甸、ギェルタン)
 滇藏公路は虎跳峡鎮で金沙江と別れ支流の小中甸河を遡ると、広い小中甸高原に入りチベット的風景の高原地帯となる。この高原の南東部には棚田型の石灰岩と石灰華からなる、有名な白水台がある。公路からは大きく迂回して中甸から100km南に入らなければならない。小中甸の集落を経て小1時間走ると迪慶(デチェン)藏族自治州の州都で香格里拉県の県府、大中甸である。標高3276m。古くはチベット語でギェルタン、また、最近まで中甸(チョンディエン)と呼ばれたが、2002年中甸県から香格里拉(シャングリラ)県に改名された。中甸周辺は草原が多く、チベット族の遊牧民がたくさん暮らしている。草原は高山植物の宝庫であり6月~8月の3ヵ月間は高原に花が咲き乱れ、また春の桃やチンコー麦の若葉の景色も美しい。昆明から麗江を経由しない場合、滇藏公路沿いに約700km。

⑦香格里拉(シャングリラ)とは
 英国の作家ジェームズ・ヒルトン(James Hilton1990-1954)が小説『失われた地平線(Lost Horizon)』(1933)で舞台としたシャングリラ(伝説の理想郷)は架空の地ではあるが、発表の時期から推測しアメリカ人ジョセフ・ロックの1923年の旅の報告(1926)を参考にした可能性が高いといわれている。この地域の風景が小説の中の記述とほぼ一致することなどから州政府は中甸が「シャングリラ」であると宣言し1999年開港した空港を中甸香格里拉空港と命名し、さらに中国政府も認め2002年中甸県を香格里拉県に改めたのである。
 雪山が聳える峡谷、神秘的な寺院、森林と湖、麗しい草原は「桃源郷」の情景にぴったりかもしれない。しかし、本来「シャングリラ(香格里拉)」とはチベット仏教教義の中にある「シャンバラ(香巴拉)」のことでる。シャンバラの根源は『カーラチャクラ・タントラ』に説かれる仏教王カルキによって統治されるユートピアで、本来はこの世に属さない神秘の仏教国にある。いわば、「極楽浄土」とか「黄泉の国」と同様にこの世にはない天界の神域であり、チベット仏教的に見れば無謀な宣言と思われるのではないだろうか。

⑧松賛林(ソンツェンリン)寺(帰化寺)
 香格里拉(中甸)の北5kmに雲南省最大のチベット仏教寺院がある。漢語で帰化寺とも呼ばれるが、チベット語では松賛林(ソンツェンリン)寺、正確には喀丹松賛林(グァデン・ソンツェンリン)寺という。「喀丹」とはゲルク派総本山の甘丹(ガンデン)寺と関係があることを意味し「松賛林」は天界の神様が遊ぶ地を意味するという。1679年ダライラマ5世によって創建された。堅固な城壁と五つの城門がある。寺院は五層のチベット式彫楼建築で「小ポタラ」とも称される。現在700人の僧侶が修行しているという。寺の最上部からは地元で巴拉根宗(パラクンツン)雪山と呼ばれるギザギザの鋸状の連山を望むことができる。

▲喀丹松賛林寺

⑨納泊海(ナパハイ)(湖)

 香格里拉(中甸)のから北西に約10km行ったところにある納泊海(ナパハイ)は、乾季と雨季で大きさが変わる。夏は湖だが10月から3月までは、完全に干あがって草原となる季節湖である。標高は3266メートルで自然保護区に指定されている。毎年オグロヅルなど多くの渡り鳥が飛来する。あまり納泊海が美しいのでオグロヅルは美女と化けてここに住むようになったという伝説がある。春から初夏、様々な花が咲き、この草原はカラフルなじゅうたんのようになる。四季を通じて美しい風景が展開されることは迪慶の風景を追う地元の写真家、彭建生氏の写真で知った。かつて彼が自ら運転する車で迪慶(デチェン)からチベットまで案内してもらったことがあり、誇らしげに地元の美しさを解説してもらったことを思い出す。

⑩尼西(ニーシー)と幸福村
 中甸高原のチベット族の民家は三角屋根の板式住居と呼ばれるものであるが、ツブ・ラ(峠、3560m)を越えて尼西(ニーシー)の盆地に入ると屋根が平らな彫楼式住居に変化する。盆地の中に丘がありその丘を裸麦(チンコー)畑が囲む美しい農村の風景が続く。春は桃の花が美しくまさに桃源郷の風景である。公路は再び金沙江に向けて支流である清流の崗曲(カンチュ)沿いに下って行くと「幸福」という名の村がある。このあたりから裸麦から小麦へ変わる標高の低い土地で名前が表わすとおり温暖で豊かな土地である。裸麦と小麦の境界は見ているとだいたい3,200m付近だ。迪慶(デチェン)地方には「(旅人は)裸麦で倒れ小麦で立つ」という諺があるそうだ。高度計の無い時代の高所対応にも役立つ先達の知恵である。チベットでは標高が低いだけでも「幸福の地」であろう。幸福村(上橋頭村2050m)では樺の木の根でツァンパを入れる椀を彫りチベット中に搬出され、木のない高地では重宝されているという。

⑪奔子欄(ベンツーラン)の金沙江月亮湾(屈曲部)
 濁流の金沙江に支流の清流、崗曲が合流する地点は水温の差から、なかなか水が交じり合わないまま流れる様子が見られる。カラコルムのインダス河沿いで良く見かけるのと同様の景色である。やがて福竜橋で金沙江を右岸に渡り香格里拉県から徳欽県に入る。奔子欄(ベンツーラン、標高約2050m)は金沙江の右岸にあり、チベット語で「美しい砂の堤」の意味があり、金沙江がここで大きく湾曲し多量の砂を残すからだという。奔子欄の金沙江を挟んだ左岸は四川省甘孜藏族自治州である。昔からギェルタン(中甸)とジョル(徳欽)の中間の宿場町、また、雲南、四川、チベットの交通の要衝として栄えたという。現在は徳欽へ向う昼食休憩の場所として使われるからか金沙江の川魚を食べさせる食堂が繁盛している。
 奔子欄から少し進むと公路から金沙江の月型の屈曲部を望む場所がある。中国語で「月亮湾」と呼ばれる地形で、湾に突き出した均整のとれた円錐型の岩峰に茶馬古道の旧道が見られる。ここは「茶馬古道」の険しい場所の写真としてよく紹介されるポイントである。また、よく似た構図で「ヤルツァンポ大屈曲部」核心部の写真があり、まちがえられることがあるが、ヤルツァンポの方には道は見られない。

▲金沙江、月亮湾の茶馬古道

⑫白芒雪山(パイマン・シュエシャン)
 白芒雪山は金沙江(チベット名:ディチュ)と瀾滄江(メコン川、チベット名:ギャムムチュ)の間、徳欽県に位置する。滇藏公路を登っていくと広い峠、白芒峠(白芒Y口、約4250m)から主峰(5429m)が望める。上部に氷河を持ち、氷食カールと台形の荒々しい山容のこの主峰を地元の人は「ツァラチュニ」と呼んでいる。また白芒(パイマン)とはチベット語の「ペマ(蓮華)」のことであり、山容が開花した蓮の花に似ているところからそう呼ばれている。峠は少しはなれて2つ存在する。金沙江側の峠は主峰を美しく望むことができるが、瀾滄江側の峠からは白芒雪山主峰は望めない。周囲は自然保護区に属し、原始林の垂直分布が見られ動植物が豊富である。孫悟空のモデルといわれる滇金糸猿(国家一級保護動物)が生息することでも知られている。
 白芒雪山がある地帯は、金沙江、瀾滄江、怒江の三河が約170km並行して流れる「三江並流」地域も中でも、最も並流が狭い地域にあたる。瀾滄江間の最短直線距離は66km、瀾滄江と怒江間は19kmである。

▲白芒雪山

⑬徳欽(ドォチン)(ジョル、升平鎮、阿敦子(アトゥンツ))
 中甸から北西に183km、チベット自治区までの距離が100km足らず、白茫雪山山系の瀾滄江側の標高約3280mの升平鎮に徳欽県の県府がある。2003年に香格里拉と徳欽間は完全舗装され所要時間が大幅に短縮、4時間強で到達できるようになった。街の人口は約5000人、周りの農村も含む徳欽県の人口は6万人弱でチベット族が八割を占める。チベット名はジョルという。中国名の徳欽(ドォチン)は元来この地のゴンパの名を漢字表記したものであるという。1911年にこの地をベースとして植物採取を行ったキングドン・ウォードの『青いケシの国』には阿敦子(アトゥンツ)という名で登場することを知る人は多いだろう。「アトゥンツ」は納西(ナシ)族の地名であるという。能海寛(のうみゆたか)は1901年阿敦子の先にて殺害されたという説が有力とされている。昔からチベット族、納西族、及び中国との間で帰属争いが絶えず、20世紀初めまでチベットと中国との間で戦闘があり、雲南省に帰属したという歴史を持つ。現在は梅里雪山(メイリーシュエシャン)観光の基点として大きく変貌しつつある。昆明から約880km。

⑭梅里雪山と展望スポット・飛来寺
 梅里雪山(メイリーシュエシャン)は雲南省、チベット自治区、四川省にまたがる怒山山系に属し全長約30kmの山群の総称である。6000m峰が6座、氷河を抱く万年雪の峰は20座以上あるといわれる。また、高峰が十三峰あることから「太子十三峰」とも呼ばれている。山群の最高峰はチベット語でカワカブ(白い雪)と呼ばれ標高は6740mであり雲南省の最高峰である。瀾滄江、怒江の急流によって浸食されたその山容は険しく、またベンガル湾から吹くモンスーンの影響のため多量の降雪がある。瀾滄江の河床からカワカブ山頂までの標高差4700mの山腹は、サボテンの生える乾燥地帯から、苔むした森林帯、高山植物の咲く草原帯、雪氷帯にいたるまで植生の顕著な垂直分布が見られる。梅里雪山の存在は、キングドン・ウォードの『青いケシの国』によって広く紹介され、青いケシや200種以上のシャクナゲ・ツツジ類をはじめとする多様な高山植物があることでも注目されている。
 梅里雪山の山々を眺めることができるスポットは、残念ながら瀾滄江の支流に奥まっている徳欽にはない。白芒雪山の峠から徳欽に向けて進むと、街がある谷に入る手前、東の尾根上に第1の展望スポットがありチョルテンが祀られている。また、徳欽の谷の先には西の尾根が伸びている。この徳欽の10キロ先の車道沿いに飛来寺があり、正面にカワカブ望むことができる。
 飛来寺は徳欽の東南10キロにあり、チベット名をナムカタシ・ゴンパといい尊格カワカブ神が祀られている。この一帯からは瀾滄江をはさんで梅里雪山を望むことができる。車道から少し入ったところに1991年1月に梅里雪山で起きた京都大学士山岳会と中国側隊員による合同登山隊17人の遭難事故の遭難碑があり、日本語で「大地あり 美しき峰ありて 気高き人がいて」と刻まれている。この登山隊の遺体捜索に従事し長年この地で活動をしてきた小林尚礼(2006)によると、展望できる山峰名は左(南)からメツモ(6050m)、ジャワリンガ(5470m)、マーベンゼンデウーショ(6000m)、カワカブ(6740m)、スグドン(6379m)である。

▲梅里雪山山群最高峰のカワカブ(6740m)

▲梅里雪山山群の鋭峰メツモ(6050m)

⑮明永(ミンヨン)村と雨(ユイ)崩(ポン)村
 明永氷河は梅里雪山で最大の氷河で、低緯度にあって、しかも標高の低い氷河として世界的にも特異な存在である。AACK(京大学士山岳会)の小林尚礼氏が長年通い滞在した明永(ミンヨン2300m)村はチベット語ではムロンと発音し「火の谷」の意味があるという。現在は車道が通じ、飛来寺の先から瀾滄江に向けて下り入場料を払って橋(2040m)を渡ると一時間程で到着する。明永村から約5km登ると標高約2700mに太子廟(ネノグメ)と呼ばれる小さな寺があり、明永氷河の展望台が造られている。氷河の隣には森が広がり、氷河の末端は標高2650mに達する。これはモンスーンの影響のために降雨量が多く地形が急峻なためである。2000年中国科学院の調査隊は明永氷河の流動速度は年間500mで最速の氷河であると発表した。
 雨崩(ユイポン)村は明永村から瀾滄江右岸を下った西当(シーダン)からさらに進み3750mのナゾヤ峠を越えてジャワリンガ(5470m)峰の下部に入った標高3200mところにある。人口は約150人の村で、村人は自らの村の名を「シュ・レボン」と呼んでいる。村の西南の谷は聖なる内院の滝「チシェ神瀑」への巡礼路である。梅里雪山一周巡礼のコルラに対し、この神瀑は雨崩村の上部、メツモ(6050m)とジャワリンガ(5470m)の峰を仰ぎ見る3700mの内ふところにあり、徳欽から普通2泊3日の巡礼となる。AACKの梅里雪山遠征に使われたベースキャンプは雨崩の西の谷を詰めた笑農(シオノ3500m)に設営された。

▲飛来寺にある梅里雪山遭難碑

(3)迪慶(デチェン)藏族自治州からチベット自治区へ
①塩井(イェンジン)(ツァカロ)

 徳欽から滇藏公路を北上すると旧茶馬古道の要衝、溜策橋があり対岸には険しい旧道を見つけることができる。雲南省最後の街は仏山鎮(約2200m)でこれから省境の西魯まで雄大な溪谷の景観が続く。西魯(シル、約2300m)で雲南省とチベット自治区の境界線を越える。徳欽からは約110kmで塩井(イェンジン)である。塩井は標高約2650mにありチベット名はツァカロ(南の塩水井戸の意)で、その名のとおり塩の産地である。その塩田は奇怪な光景だ。急峻な瀾滄江(メコン)の両岸に幾段、幾層ものやぐらを組み、そこへ河床の石組みの井戸から滲み出た塩水を人力で汲み上げる。気長に天日干しでできた塩をロバの隊商が積み込んで悠然と出発してゆく。おそらく何百年も営々と繰り返してきた業であろうが、現代の光景として理解するまで少々錯綜してしまうほどだ。塩は古くから貴重な食品のひとつである。そのため塩井をめぐって少数民族間の争いがあったが、納西族の支配が長かったという。
 また、塩井の街にはカトリック教会である塩井天主教堂(経母進教之佑堂)がある。1856年にフランス人宣教師によって開かれ現在600人ほどに信者がいるという。信者には納西族が多く、ここは納西族が住む最北端の土地である。周辺の小麦畑とくるみの木の色彩調和を見ているとジェームズ・ヒルトンの『失われた地平線』の舞台としたシャングリラを彷彿させる景観である。昆明から約990km。

▲瀾滄江(メコン)の両岸にやぐらを組んだ塩井の塩田

▲塩井の扇状地

②芒康(マルカム)で川藏公路に合流
 塩井のすぐ先を分かれ、瀾滄江に下りと対岸の右岸に吊橋で渡ったところに曲致卡(チュズカ)温泉(約2350m)がある。さらに進むと車道はぐんぐん高度を上げ、標高3500mに近づくと小麦畑はチンコー(裸麦)畑に変わり、西側に梅里雪山から続く大米勇(ダムヨン)山群が見えてくる。主峰は6324mで、地元のドライバーはトゥンタラ山であると言っていた。4200mの紅拉(峠、ホンラ)を越えると針葉樹の森になり中岩曲(川)に下る。普拉(プラ、3750m)のゴンパを過ぎ、やがて滇藏公路が川藏公路と合流する芒康(マルカム、約3850m)に至る。塩井から110km北上したことになる。昆明から約1100km。

※これから西は『成都からカンリガルポへ(川蔵公路東半部・四川ルート)【カンリガルポ山群への道③】』(2)カンゼ(甘孜藏族自治州)からチベット自治区への芒康(マルカム)へつづく。

▲旅行人ノートの地図より

成都からカンリガルポへ(川蔵公路東半部・四川ルート)【カンリガルポ山群への道③】
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ラサからカンリガルポへ(川藏公路西半部)【カンリガルポ山群への道②】
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カンリガルポ山群への道【①カンリガルポ山群周辺】(波密~察隅)
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