見出し画像

カンリガルポ山群への道【①カンリガルポ山群周辺】(波密~察隅)

※2007年当時に書いたガイドです。すでに西部大開発等で変貌が激しく、高速道路が伸びた今は、旧道を行くことはかえって困難になっています。もしまた旧道で悠長に旅をすることが可能であれば、参考にはなるでしょう。

【目次】

カンリガルポ山群への道       渡部秀樹
カンリガルポ山群周辺(波密~察隅)


 カンリガルポ山群は東南チベットにあり、ヒマラヤ山脈の東端とされるナムチャバルワ(7762m)のさらに東から、南東に向けて伸びる全長約280kmの山脈である。6000m以上のピークが30座近くあり、5000m以上のピークは相当な数に及ぶ。西端はポミ(波密)県のポーロン・ツァンポ(またはバルン・ツァンポ)がイゴン・ツァンンポと合流し90度、さらにロンチュ(魯郎曲)と合流し90度と反時計回りに角度をかえながらヤルツァンポに注ぐ奇異な地形の部分で、谷底の標高は約2000mである。ラサからカンリガルポ西端までは直線で東に約400km、車道に沿うと約550kmの距離である。東端はザユール(察遇、ザユイ)県のサンチュ(桑曲、ロヒト川の上流)が南から西に流れを変えるあたりで、ラサからの直線距離は約650km、成都からも約650kmの地点である。カンリガルポ山群の東には横断山脈があり、東に行くにつれ山脈は南北方向に変化してゆく。
 ヤルツァンポ大屈曲部とサルウィン川の間に位置し、この間にはヒマラヤから続く主稜を南北に越える川は存在しない。カンリガルポ山群がヤルツァンポの東進を阻むかのような障壁となっており、ヤルツァンポ大屈曲部の謎とカンリガルポ山群との関連性は注目すべきであろう。つまりヤルツァンポとサルウィン水系がカンリガルポを避けるように湾曲しており、ヤルツァンポの支流、サンチュとポーロン・ツァンポによって南北の源流を形成している。松本征生氏によれば、この地域はプレート移動と地塊ブロック運動による造山活動、さらに大河の侵食が時間的に複雑に作用していると予想され、一元的な論理では説明できない地域であるという。(この地学的背景については『ヒマラヤの東・崗日嘎布山群』第一部Ⅱ章を参照されたい。)また、ベンガル湾からの湿った空気がミシミ丘陵を越えて流れ込むため大量の降雪があり、巨大な氷河と急峻な山峰群を形成するとともに、山麓に大森林帯を育んでいることが特徴である。
 カンリガルポ山群を西から東へたどりながら、これまでの踏査で知りえたことを、その周辺の見どころとともに述べることにしたい。

(1)波密県(面積約15000k㎡、人口約2.6万人)

① 波密県入口のカンリガルポ最西端
 ラサ方面からカンリガルポ山群に向かうと、ロン・チュ(魯郎曲)とポーロン・ツァンポ(バルン・ツァンポ、帕隆藏布)との合流地点がトゥルルン(ペルン、俳(パイ)龍(ロン))で標高は2050mまで下がる。ここには峠でもないのにタルチョがあり、この先の難所への旅の安全を祈るためのものだという。両岸はゴルジュの断崖絶壁をなし川蔵公路最大の難所とされてきた。数年前までは岩に付けられた桟橋の部分もあったが、現在道はかなり良くなっている。ポーロン・ツァンポ沿いに入るとすぐ波蜜県に入る。この地域は流れが西から南へ、さらに東へと流れを変える逆コの字型を呈する部分で、さらにその中で半島状に西に突き出た山がある。これがカンリガルポの最西端で、ポーロン・ツァンポの囲みの中からカンリガルポ山群がはじまる場所である。ラサから約540km。

②タンメ(トンマイ、通麦)の河川流
 ポーロン・ツァンポ(帕隆藏布)とイゴン・ツァンポ(易貢藏布)の合流地点でイゴン・ツァンポの大吊橋を渡るとタンメの村があり標高約2100mである。ここで2つの河川は180度で吐き合い、さらに90度方向を転じて流下しており、平面的にT字型の河川流である。俗に「逆さ河」とも称される。2つの河川は地質代の構造谷に沿って成長したとされる。イゴン・ツァンポは東南方向、ポーロン・ツァンポは西北方向へとそれぞれ反対方向に一直線に流れ、地図上ではあたかも1本の河川のように見える。ここからカンリガルポ山群真只中のラグ氷河の源流まではポーロン・ツァンポに沿った旅となる。ラサから約550km。

③シュワ(ショーワ、縮瓦)、かつてのポ(ポバ)地方の都
 ポーロン・ツァンポのゴルジュはタンメから約40km上るとやっと段丘を持つ広い地形となる。川の左岸の段丘面にあるシュワ(縮瓦)村は標高約2600mであり、かつてのポ(ポバ)地方の古都で20世紀前半の探検家ベイリー、モースヘッド、コールバック、ネールらの記録にも登場する(ショーワとの記述もあるが地元の発音はシュワに近い)。コールバックの記録によると1931年まではまだ半独立国であったようだ。2004年現在の村は西と東に分かれて広範囲に広がっており、人口約200人25戸ほどである。王宮跡は畑の中に見落としてしまうほどの外壁跡のみが残されているにすぎない。東のはずれにシュワ・サンジュ・ゴンパがあるが、文革等で徹底的に破壊され今は木造の仮のゴンパが造られている。大きなマニ車の堂とグルリンポチェ(パドマサンバヴァ)を祀るニンマ派の本堂がある。かつて、中国侵攻前はボミ県の全ての僧800人がここに集まったという。村には文成公主が唐から嫁ぐ際ここを通ったという伝承がある。山口瑞鳳(1983)は『吐蕃王国成立史研究』のなかで主の吐入文成公蕃道は、西寧-河源-王樹-鄧柯-芒康-ツァワロンと結論しているから、史実かもしれない。ポーロン・ツァンポ沿いの低段丘面に石畳の旧道が残っている。この村では今では珍しくなった青い目をしたポミ犬を見ることができた。
 シュワ・ロンパ(谷、縮瓦弄巴)の奥にシュワ・ラ(4646mの峠)、スイ・ロンパ(随弄巴)の奥にスイ・ラ(4023mの峠)があり、現在も徒歩2日でメト(ペマコ、墨脱)地方へ越えられるという。ベイリーはスイ・ラを越えてペマコからシュワに入っている。ゴンパの僧侶はペマコに越えるとラグンという村があると話したが、ベイリーの時代と一致している。ラサから約600km
 ロンパ(弄巴)とはチベット語でチュ(曲)とおなじように沢のある谷~やや小さい河川を意味する。またルンドも谷ではあるが、山の入口を意味する。これに対して大河はツァンポ(藏布)という。

▲シュワ、サンジュゴンパ

④クーシャン(古郷)のパカ・ゴンパ
 ポミ(波密)の約30km西にクーシャン(古郷)パカ(巴卡)村があり、ポーロン・ツァンポの中洲の島にニンマ派のパカ・ゴンパがある。標高約2700m。僧侶はゴンパの歴史は9世紀にさかのぼると説明したが、これはおそらくパドマサンバヴァのチベット布教の時代のことを言っているのだろう。ちなみに、ニンマ派の教義は14世紀に確立し、17世紀にダライラマ5世の時代に各地に寺院が広がったとされる。文革で破壊されたゴンパは1982年に立派に再建され、現在15名の僧がいるという。本尊はグルリンポチェ(パドマサンバヴァ)で左に釈迦牟尼、右に観音菩薩が祀ってある。この寺の神山(ユラ)はカンジャナリパ(5631m)である。この地では珍しく寺の再建が許されたのは、この寺のパカ転生僧が亡命し、現在は米国で生活しているからではないかと思われる。
 なお、活仏という表現は正確にいうと間違っており転生が正しい。仏教で仏の化身は存在するが転生はしないからである。チベット語では転生のことをトゥルクという。

▲パカ・ゴンパ

⑤ガラン(嘎朗)、タンカ・ロンパ(丹卡弄巴)とカンジャナリパ峰
 ポミ(波密)の約10km西にタンカ・ロンパ(丹卡弄巴)があり、カンリガルポで氷河が残る谷はこのあたりが西端となる。氷河の奥にカンジャナリパ(5631m)という鋭峰の神山があり、クーシャン(古郷)あたりからポミまでの広範囲で美しく望むことができる。

⑥ポミ(ポメ、波密)
 ラサからカンリガルポ山群に向かう際、通常パーイーまで一日、さらにポミまで一日を要する。現在は波密県の県府が置かれておりカンリガルポ・エリアでは最大の街である。標高2740m。ポメには「ポ(地方名)の下」の意味があるが、「祖先」の意味であるとの説もある。なお、チベット語で土地の上、下を表わすものとして、トォ(上)に対しメ(下)、ヤン(上)に対しマン(下)、ガン(上)に対しホォ(下)がある。ポミの別名としてジャム(扎木)とも言う。街は年々発展しており、商店に生活必需品はたいがい揃っている。街からはシンギカンラ峰をはじめ、氷河の峰々が頭をのぞかせており「チベットのスイス」などと表現されるが、川藏公路沿いでは氷河の山々が近い地域なのでそのように表現されるのだろう。街の中心には立派な公安の建物もあり、外国人に対するチェックも厳しい。公安が厳しい理由のひとつにポーロン・ツァンポの対岸はメト(墨脱)県への道で、稜線を越えるとガーロン・チュからペマコへ至りマクマホン・ラインの(インドとの実行国境線)境界上の地域である。対岸へは橋があるが軍の駐屯地があり、外国人は渡ることはできない。ラサから約650km。

▲ポミの街から望むシンギカンラ峰

⑦ゴンダ村とポミ(波密)三山
 ポミ(波密)の約10km東にゴンダ村がある。川藏公路とポーロン・ツァンポの間が放牧場になっている。道路の脇は松が多く、山麓は針葉樹の森で、カナディアン・ロッキーやアルプスのような風景である。このあたりから南に望むポミの三山は美しい。地元では西から①セジョ・ポモ・プンドゥン(セジョの7人姉妹の意)、②ドゥポ・アリ・モナ(黒顔の魔神の意)、③シンギ・カンラ(白い獅子神の雪神山5688m)と呼ばれている。①は長い尾根をもつ連山。②はヒマラヤヒダと豪快な大氷瀑をもつ台形上の山である。③はこのあたりの重要な神山(ユラ)で、名のとおり巨大な白い獅子の姿で神々しさがある。ポミのすぐ近くにこのような豪快な山々が連続しているが、登山隊が入ったという話しは聞いていない。今後、トレッキングやハイキングコースとして注目される地域であろう。

▲ドゥポアリモナ(右)とシンギカンラ(左)

⑧ダシン(达興、大興)とジンルー・ロンパ(金珠弄巴)
 ドロ(多洛)村からダシン吊橋を対岸に渡るとダシン村があり、標高約2850mである。ラサから約665km。この村は20世紀前半の探検家トレーシーとコールバックが南北から合流して滞在した場所である。村長のペンバ・ツェリン氏の話では豊富な森林を利用した林業と農業が主産業で、なかなか裕福だ。草原と岩と雪の峰、森林にはカラマツの黄葉が混じり、南チロルの山村にいるかのような錯覚をおこす。ダシン・ゴンパは文革で破壊されたままの無残な姿であるが、周りのカシの大木の並木がかつての栄華を偲ばせる。かつては東西200m南北100mの大きなニンマ派のゴンパであったとのこと。再建はボミ県から反対されており、木造校倉造の臨時的なものが現存している。ニンマ派の本尊はグルリンボチェ(パドマサンバヴァ)であるが、この寺はツォンカパ(ゲルク派)であり、新旧混合が見られる。この村の神山(ユラ)は、ポミ(波密)からも豪快な姿が望まれるシンギカンラ(5688m)で「白い獅子神の雪神山」の意味がある。漢字では森格日とされているが発音も意味も間違ってくる。
 ジンルー・ロンパ(金珠弄巴)を詰めると約25kmでジンルー・ラ(約4500mの峠、金珠拉、別名チムド・ラ)があり、越えるとメト(墨脱)県のジャンベタン(江別塘)という放牧場へ約2日間で行くという。メト県の一番近い村はシンケ村で6月から8月の間峠越えが可能とのことである。

▲ダシン村

⑨トンムー(通木)~ルンヤ村のチョルテン
 ダシンの東の森林地帯の中にルンヤ(龍亜)村があり、ニンマ派のチョルテンがある。標高約3000m。チョルテンには大量のツァツァが奉納されている。チベットでは一般的に墓をつくらない。このあたりは森林が豊富なため火葬であり、一緒に焼いた粘土の塊、ツァツァを納骨のようにして奉納する。粘土は特別な聖域から採ってくるそうだ。対岸の山岳は岩壁が屏風のように連なり、山麓は緑豊かな美しい風景が続く。

⑩西限の6000m峰のあるドンチュウ・ツァンポ(朗秋藏布)とチュンカン・ロンパ(忠康弄巴)
 カンリガルポの西側で最初の6000m峰は、対岸のドンチュウ(朗秋)村から入る全長約20kmの大きな谷の奥に位置する三俣の氷河(東、南、西の3方向)の奥にある。東氷河の上流部に6044m峰があり、西隣のチュカン・ロンパ(忠康弄巴)の奥の尾根のさらに奥に6045m峰がある。ドンチュウ村の20kmの谷の吐合付近には橋が確認できず、東のソンゾンで渡って回るか、下流の吊橋から山径を伝わなければならない。大きい谷ながら波密県地図には名が無いが、村人はドンチュウ・ツァンポ(朗秋藏布)と称している。谷奥に小村があり放牧場もある。この谷と6044m峰および6045m峰の確認には、かなりのキャラバン日数を要するものと思われる。

⑪ソンゾン(松宗)とソンゾン(松宗)四山
 「ソンゾン」とはソン(三)ゾン(集まる)でポーロン・ツァンポにチューゾン・ツァンポ(曲宗藏布)の谷が合流する地形のとおり「三つ俣」を意味する。谷が合流する地点は開けた堆積地形になっており、山々の展望も美しい所である。標高約3050m。ソンゾン・ゴンパは古くはニンマ派であったが、五世ダライラマの時代にゲルク派に変わったという。過去の調査の度にゴンパの僧侶に各山岳等の聞き取りを行なってきたが、この山域はチベットを教化の地とした観音菩薩の系統の信仰を、ツォンカパの啓示に基づき、完結した物語としてみごとに表現されており興味深い。我々がソンゾン4山と称しているのは、東からユダ、リガ、リガ前衛峰にあたるパンテンラモ、デルポラで巨大な山塊を形成している。ラサから約690km。
ソンゾンからでは見上げるかっこうとなるが、チューゾンツァンポを10km北上するとチャロ(茶茹)村があり、このあたりから南に離れて見る4山のパノラマは美しい。

▲ソンゾン4山

▲ソンゾンゴンパとリスンガンポ峰

⑫ダバ(达巴)村とコネカンリ峰
 学習院大隊がコネカンリ峰(6260m)に遠征したときのキャラバン・ルートはダバ(达巴)から索汝弄巴に入り左俣の谷を空氷河へ進んだはずである。この谷の吐合付近は迷路のような複雑な地形をしている。コネカンリの北側にはソンゾン4山の山塊があり、この山塊を取巻く谷は歪(いびつ)な放射状をなし、ポーロン・ツァンポを北に押しやったような地形をしている。

⑬ユイプー(玉普)郷の2つの谷
 ダバの東には、この地域の郷政府のあるユイプー(玉普)郷があり、ケパ・ロンパ(改巴弄巴)とゲサン・ロンパ(加桑弄巴)の2つの谷が隣接している。標高約3230m。阿西吊橋でポーロン・ツァンポを渡るとシュワ村とケパ(改巴)村がある。シュワ村のセティン・ギェンツェン村長によると、ゲサン・ロンパを遡っても旧ソ連地図に示されているところのザユウ(察隅)に越える道はないとのこと。ケパ・ロンパにはモンシー(蒙西)とパカン(巴康)という放牧場を結ぶカプカンラ(改普貢拉)を越えて、さらに東のシュルー・ロンパに出る道があり、また、本谷を遡ると夏の間だけザユウへ越えるポーコンラ(菠貢拉)の峠道があるとのことだった。  また、ゲサン・ロンパの西には谷の入口にチョルテンがあるニーソーチュ(汝鎖曲)という川の谷があり、奥に2つの小さな氷河があるが川藏公路からは望むことはできない。ラサから約725km。

▲玉普郷の阿西吊橋
 
⑭シュルー・ロンパ(雪茹弄巴)
 シュルー・ロンパ(雪茹弄巴)には2004年福岡隊がおそらく外国隊として初めて入ったはずである。谷入口、谷内とも定住村は無いが、ポーロン・ツァンポにポ地方独特の木造建築様式の橋があり、放牧場までトレールがある。標高約3500mの谷入口から氷河端まで約12kmで、川は急流となっている。シラカバ、カラマツ、モミ、シャクナゲなどの森林が豊富で、モミ類は直径1m以上の大木も多い。谷奥に東のシンゴー・ロンパとの間の6238m峰がある。谷奥の西側にパカン(巴康)という放牧場があり、西のユイプー(玉普)郷のケパ・ロンパ(改巴弄巴)からもカプカンラ(峰)を越えて放牧に来るという。

▲シュルーロンパ

⑮ミマイ(ミーメイ、米麦)とシンゴー・ロンパ(新果弄巴)
 ミマイ(米麦)はポーロン・ツァンポ左岸、シンゴー・ロンパ(新果弄巴)出合の右岸にある30~40戸の村である。標高約3550m。川藏公路沿いにも小さな集落がある。家は木造建築の校倉(あぜくら)造で木材の豊富さがうかがえる。シンゴー・ロンパ(新果弄巴)も2004年福岡隊がおそらく外国隊として初めて入ったはずである。ポーロン・ツァンポ本流はこのあたりでゴルジュ帯になっているため、支流のシンゴー谷の方が広く開けている。谷の中には放牧場はあるが定住村はない。谷入口から氷河端まで約10kmで、氷河は東シンゴー氷河と西シンゴー氷河(奥でさらに2分)が合流している。放牧場までは渓流沿いに針葉樹と落葉樹の混合森林の中に緩やかなトレールが伸びる。谷奥には無名峰(6220m)と東のミードゥイ(米堆)谷との間のゲニクッツ峰(6100m±)が望める。

▲シンゴーロンパのゲニクッツ峰

⑯ミードゥイ(米堆)谷
 ポーロン・ツァンポ沿いに川藏公路を東に遡上していくと、ゴルジュの谷が開けミードゥイ(米堆)谷が合流している。ラサから約750km。標高約3600mの谷入口は放牧場とチョルテンはあるが集落はない。2002年、福岡隊は外国隊としてはハンベリー・トレーシーの探検から約70年ぶりにミードゥイ(米堆)谷に入って以来継続的に調査し、福岡隊ゆかりの谷となっている。谷は開けており、下(6戸)、中(約10戸)、上(8戸)の3つの村に分かれ、民家は木造校倉の切り妻二階建である。谷の奥に二股の巨大なアイスフォールをもつ米堆氷河がある。約8km入った中間の村(標高約3750m)が一番大きく、氷河の奥にゲムソング峰(6450m)を中心とした巨大な氷河の山塊が展望できる。トレーシーが「Black River of Tibet」でカンカール・ラモ峰として発表した山はこのゲムソング峰である。同山の東8kmに位置するハモコンガ峰(ハモ・カンカールとも発音し、白い雪のハモ女尊の意6260m)と混同したのではないかと思われる。2004年からポーロン・ツァンポにコンクリートの橋が架かり村まで車で入れるようになったが、雨季には沢が増水するため徒歩で入るしかない。村の神山(ユラ)はハモコンガで、山麓にあるドゥ・ラと呼ばれる峠を越えると拉古氷河に越える道があり、昔は放牧で越えていたようである。

▲米堆氷河とゲムソング峰

(2)八宿県(面積約12600k㎡、人口約3.3万人)

①ラウ(ラウォ、然烏)とラウ・ツォ(然烏湖)
 ポーロン・ツァンポのゴルジュはやがてU次谷の開いた地形となり、スイスの氷河湖を思わせるラウ・ツォ(然烏湖)が現われる。湖の東端にあるラウの街が川藏公路から拉古氷河やカンリガルポ高峰群へ入る入口となる。街には川藏公路沿いに軍の施設、第11兵站と八宿県人民政府然烏派出所、招待所と数件の食堂がある。標高約3920m。然烏湖はキングドン・ウォードの時代(1934年の地図)は拉古氷河の下からラウの街中まで、ひとつの巨大な氷河湖であったようだが、現在は三つの湖、下からアンム・ツォまたは狭義のラウ・ツォ、マン・ツォ、ヤン・ツォに別れている。ラウの西の湖畔には村人からメンレ、ドイ、テイギと呼ばれている三山が投映する。ドイとテイギの間の谷を遡るとハモコンガ峰の真下に到達するが、ポーロン・ツァンポに橋が無く対岸に渡れないため谷に入ることはできない。右岸の丘に登るとハモコンガ峰を望むことができる。また、ラウの街の東はずれから南のマン・ツォ方面を望むと広い放牧地で牧歌的な景観が美しかったが、2002年頃から工事の重機置き場や工場などができてしまい昔の面影は失われてしまった。ラサから約780km。

▲然烏からドジツェンザとマンツォ

▲然烏湖と投映する三山

②カンサ(康沙)村とシュデン・ゴンパ
 ラウから川藏公路を南に分かれてデマラ(徳母拉)を越えてザユール(ザユイ察隅)へぬける道に入ると、やがて美しい湖マン・ツォ沿いの道となる。正面には聖山ドジツェンザ(5662m)の尖峰が天を突いている。約10km行くとマン・ツォとヤン・ツォの間にラグ(拉古)村へ向かう道との分岐があり、カンサ(康沙)村がある。村の東上、標高約4100mには古くはナゴン地方の府であったゲルク派の僧院シュデン・ゴンパがある。当時は僧侶100人を超える大僧院であったが文革等で破壊され、今も破壊された壁が放置されている。現在、本堂とチョルテンが再建され3名の僧侶が守っている。この寺の神山(ユラ)はドジ・ツェンザ峰(5662m)で護法尊ドルジェ・ギェンツェン(ポムラ尊の従者)のことを指している。ここからヤン・ツォ方面の展望はすばらしく、奥に福岡隊が2003年に登頂したヒョン峰(4923m)をはじめラグ氷河南東のゲニ峰等の雪山を望むことができる。この村から上流にかけて民家は石と土造りの平屋根となり、米堆村などの木造建築と大きく建築様式が変わっている。

▲シュデン・ゴンパとドジ・ツェンザ峰

③ラグ(レゴ、拉古)村とチベット最大のラグ(拉古)氷河
 ラグ(拉古)氷河はカンリガルポ山群最大の氷河で、さらにチベット最大といわれている。ラグ(拉古)村は標高約4100mでラサから約820kmである。ここからは、氷河とゴンヤダ峰とゼ峰、ドジザンドイ峰など周辺の山々が展望でき、氷河展望の村としては世界トップクラスの景観といえよう。2002年までは村入口数キロのところにゲートがあり、車で入ることは難しかったが、2003年からは村の学校まで車で入ることができるようになった。さらに2005年からはモレーンの下にゲートができ入場料を徴収するようになった。(2005年20元)ラグとは「9つの峠」という意味と解釈しているが、当て字の「拉古」だと「古い峠」の意になってしまい、さらに最近は「来古(らいぐ)」と表記されるようになり、「古から来る氷河」などと呼ばれている。本来のチベット語の意味から乖離(かいり)してしまう問題は、辺境の地では現在も進行中である一例だ。ラグ氷河がポーロン・ツァンポの源流である。

 拉古村をさらに南へ3km進むと、カンリガルポ最高峰バイリーガ(ロウニ、若尼)峰を望むトーンと呼ばれる拉古村の放牧場がある。村人はチョンボ(または、チャングリ・チャンベ)峰と呼んでいる。
拉古氷河左岸(北側)には放牧のためのトレールがあるが、モレーン下の川を渡渉することは困難であるため、一旦10km下流のヤズ村あたりから左岸のタバ村に橋で渡り、ツォシ峰(5298m)の南稜線を越えて入ることになる。このトレールがドゥ・ラを越えて米堆氷河に至る旧ルートであるが、現在利用されてはいないようだ。
 拉古氷河右岸(南側)には2003年福岡隊が発見した湖ヒョングン・ツォへ、さらに放牧場のユウォンチョゲ (4500m)まで上る放牧のためのトレールがある。ここからは拉古氷河が眼下に広がり、奥にドジザンドイ峰(北面からの名はハモコンガ峰)の尖ったピークが印象的だ。

▲トーンから見た若尼峰

④カンサ(康沙)村からデマ・ラ間の大パノラマ
 カンサ村からデマ・ラ方面に上ると4400m地点あたりから最高峰バイリーガ(ロウニ)峰(6805m)から連なるカンリガルポ脊梁の13峰のパノラマが可能となる。道路沿いでは一地点から13峰すべてを望むことはできず、少しずつ移動することで眺望が可能となる。このパノラマについては、第一部第1章で松本が記述している。そして、さらに西にドジザンドイ(ハモコンガ6260m)、さらに西のゾンゾン(松宗)地域のポムベソン(5800m±)まで眺望できる。

(3)察隅県(面積約31700k㎡、人口約2.5万人)

①デマ・ラ(デモ・ラ、徳母拉)
 カンサ村から東にザユール(ザユイ察隅)へぬける道に入ると察隅県との境にデマラ(徳母拉、4920m)がある。察隅県の許可を取っていなければ通常ここまでしか入ることはできない。峠は新道にあり、旧道は峠の約5km手前を南に入った道でゾ・ラを越えている。現在はデマ・ラがザユールの入口となっており、峠までは緩やかな高原を形成している。

② バシェ(巴学)とツォジュ(措珠)
 デマ・ラを越えるとしばらくは緩やかな下りであるが、U字谷に入るとジグザグに切られた道で一気に下っていく。標高約4400m地点に道班がありサンチュ(桑曲、ロヒト川の上流)沿いに下る道となる。途中、カルカ(放牧場)はあるが標高3650mにあるバシェ(巴学)が察隅県最北の定住村となる。村は南北広範囲に渡り50戸以上の集落となっている。さらにサンチュを下ると約3550mにツォジュ(措珠)村がある。この地域を車で通過すると道の子供たちは皆、敬礼のポーズを取る。車は軍関係が多く通過することを物語っているようだ。


③サンガチュ(ケマイ、古玉(クーユイ))と山群東端の6327m峰
サンチュと旧道ゾ・ラからの渓谷が合流する地点、標高約3400mにサンガチュ(現在名古玉(クーユイ))がある。河岸段丘に畑を開墾した美しい村である。2004年に検問所のような建造物を建設中であり、今後はここが察隅県へ入る際のチェックポストになるようだ。2004年福岡隊は今まで未知であったカンリガルポ東端の6327m峰の実在を確認し写真撮影に初めて成功した。観測地点は村の北の山麓を登った地点で、南西の方角に3つのピークと氷壁を持つ巨大な山塊を確認した。将来ザユウ(察遇)県が開放されることになればクーユイ(古玉)村から北西の谷に入り、北東面からこの山塊へのアプローチが可能となる。この北西の谷の出合には白壁の建物が遠望できる。サンガチュ・ゾンの跡であるかもしれないが、現在は外国人がこの谷に入ることは許されていない。ラサから約870km

▲玉古の河岸段丘

▲世界初で写真に撮れた未知のカンリガルポ東端の6327m峰

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?