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『君の名は』と他者理解

 『君の名は』を初めて観たときに抱いた謎は、「主人公の二人は、どのように恋愛関係に陥ったのか?」というものだった。

 この映画のポイントは、三葉と瀧くんが恋愛関係に至るまで、ほとんど邂逅を果たしていない点にある。もちろん一目惚れということはあるし、手紙を交わすという形でのコミュニケーションが思慕を生じさせることもある。実際に三葉と瀧くんは、互いの身体が入れ替わった際には、互いにノートを通じて交流を重ねていた。

 しかしながら僕には、彼らの慕情がそうした過程によって醸成されたもののようには理解できなかった。それでは、彼らはどのようにして互いを理解し、惹かれ合ったのか。簡単に言えば、「他者という鏡を通じて互いを理解した」のである。どういうことか、説明しよう。

⑴一般的に僕たちは、「誰か(=他者)からの評価を通じて自己を理解する」という経験をしている。この「評価」とは、広い意味の評価であって、自己の言動に対する他者の反応すべてを含む。つまり、自己は「他者の他者」として理解される

⑵この物語において、彼らは身体を入れ替えているあいだも、それぞれの生活を全うしようと努める。そしてその様子は、彼らそれぞれの周辺にいる友人や家族(=他者)からの報告によって、すなわち「昨日の三葉は~」「昨日の瀧くんは~」という形で互いに知られるところとなる。つまり、三葉と瀧くんは、互いに「他者の他者」として理解される。

⑶この他者による報告は、「昨日の君はいつもと違った」という形式において行われる。つまり、互いのパーソナリティーについての情報は、「入れ替わった彼ら」と「普段の彼ら」との差異として理解されることになる。すなわち、「昨日の三葉」や「昨日の瀧くん」と、「いつもの三葉」や「いつもの瀧くん」との差異である。

 つまり、この物語では、互いが「他者の他者」として理解され、なおかつそれは「他者の他者たる自己」との差異として理解されることになる、ということができよう。こうしたメカニズムこそが、三葉と瀧くんが出会うことなく互いを理解することができた理由である。

 こうしたプロセスによって形成された他者像が果たしてどれほどの解像度を持っているのか、僕にはよく分からない。そもそも解像度を問題にするのが間違っていると言えないこともないだろう。僕たちは常に、ぼんやりとした像を絶え間なく組み替えながら認識することしかできないのだから。

 いずれにせよ『君の名は』という作品は、他者理解の不確かさについて考えさせてくれた。ちょうど4年前の話である。あれ以来、この作品を観ていない。


※以前にTwitterに投稿した文章を再掲したものです

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