おじさんへの風当たり一考

 新内閣が「おじいさん内閣」などと批判されている。もちろん女性大臣の少なさなどは由々しき問題だと思うのだけど、それ以上に気になることがある。それは、近年「おじさん」に対する評価が急降下しているように思われる、ということだ。


 たしかに「おっさんズラブ」「ナギサさん」ブームはあったが、基本的に「おじさん」という言葉はもはや、「時代遅れの精神の持ち主」「男性的権力を行使する悪しき社会的支配者」「実力を無視した年功序列の非合理主義」といった表象になりつつある。2018年のサッカーワールドカップ日本代表がベテランメンバー中心になっただけで、「おっさんジャパン」と揶揄されたのは記憶に新しい。いま、「おじさんは嫌われる」のである。これは確かな趨勢であって、被害妄想の先取りというわけではないと思うのだ。

 それでは、いつの日かおじさんにならざるを得ない我々に希望はないのだろうか?いや、そうとも言い切れなかろう。「嫌われないおじさん」になるためのいくつかの戦略が存在するように思われる。その一つは、”かわいいおじさん”になることだ。
 
 若い女性がおじさんの何らかの側面を取り出して”愛嬌があってかわいい”ということにしてしまう構図は、しばしば観察することができる。こうした構図は、ある種の社会的構造によって要求されているとすら言えよう。綿矢りさ『蹴りたい背中』は、このメカニズムを的確に描いている。

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 うーーむ。たしかに、おじさんとして嫌われるのは嫌だ。けれども、「若い人たちすり寄って”かわいいおじさん”という表象の下に自らをどうにか滑り込ませるおじさん」というのも、なんとも物悲しい姿である。

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