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山彦の社【エッセイ】

 2018年の5月、私がそこの生徒であった頃、選択科目の美術の授業で、学校の校舎裏にある山彦やまびこもりの風景画を描いた、正確には"描かせて頂いた"ことがある。
 山彦の杜は、私が通っていた学校の、中庭のような存在である。木々が生え、植生がほとんどそのままになっており、自然を直に楽しめる施設である。しかし中庭とは言うものの校舎の中心にある訳ではなく、意図的に向かわなければ辿り着くことのない場所である。存在すら知らずに卒業する生徒もいるかも知れない。そしてそれはとても勿体無いことだと思う。私にとってこの森は、崇高で暖かい、まさに母なる大地であった。
 そしてそこで描いた絵は、我ながら拙い絵だったと思う。単位の関係で仕方なく選択した美術である。絵の技術に関して褒められた記憶はない。私は現在、教員になるための図画工作の授業を取っているが、そこの教授は「生徒を褒めるにあたって大切なのは、絵の技巧ではなく、創意工夫や努力である」と仰っていた。そういう分野について褒められた覚えも同じく無い。その絵を見たら、絵に造詣の深い人はきっと心中、私を鼻で笑うだろう。
 ボールペンで幹や葉の輪郭を描き、水で薄めたアクリル絵の具で少しずつ色を塗っていった。縦に長い絵で、下半分には石垣が、上半分中央には枝がほとんど無い5,6本の木が高邁にそびえ立っていた。樹種の名前は知らない。遠近法で上から別の木の葉がその木々を包むように描かれている。
 たったそれだけの絵である。週に50分×2回の授業で、1ヶ月も経たずに彫刻の授業へ移ってしまった。そんな何気ない短い期間に、今の自己の枠縁が形成されたように思える。色々な事(大概良い気分のものでないが)を次々と思い出していまう。友達も出来ずに、向こう側の石垣に座って仲良く喋りながら絵を描いていた4人程の級友のグループを申し訳無さそうに消して、彼らの向こうの風景を想像で描いていた。きっと彼らも同じように僕を消している。そう思うと幾分か仕事を楽にこなせた。なんとなく美術家のやりそうな仕草をしてみる。先程まで向かいの生徒達と楽しそうに雑談に混じっていた美術教師が哀れんだ目でこちらへ見回りにやって来る。優しい先生だった。彫刻の授業でも、私の捻くれたアイデアを真摯に受け止めて改善を促してくれた、教授者の鑑のような存在であった。今もお元気だろうか。
 たった今ふと、その次の授業がもっと嫌いな体育で、嫌いな絵描きをずっとしていたいと思い耽っていたのを思い出した。

 2020年も秋に近づき、大学受験の刻々と迫る中で受けた模試が終わった土曜の夕方17時の帰り道、思いがけず振り返り、下り坂から金網越しに山彦の杜を見た。無機質で重厚な小型ショベルカーが鎮座している。その横には細々とした枝が命を失い、赤色のビニールテープに巻かれて山積みになっていた。あの時に高邁に立ち上っていた木々はもうほとんど切り落とされていた。
 19年の夏頃から、そこが取り壊されて教員用の駐車ロータリーになることは以前から耳にしていた。休み時間に誰が来るでもなく、部活の活動場所に使われるでもなく、蛇口もトイレも無い簡素で質素な杜である。気高い合理主義者たちにとっては邪魔に見えても仕方がない。暫くして立入禁止になり、山彦の杜を守り続けた木々はことごとく消えていった。50数年在り続けた自然は、ものの3ヶ月で潰された。
 ふと我に返ると、自分が杜だった場所に対して深く頭を下げていることに気が付いた。慌てて頭を上げ、周囲に人が居ないか見渡し、何でもないように塾へ足を急めた。
 被写体とさせて頂いた、高々と背伸びする木々たちは今の機械の様な僕らを褒めてくれるだろうか。間もなく取り壊されると聞いた時、もう一度来ておけば良かった。高校生活の顛末を辿っても、あの時間こそ、最も有意義で安心できた時間であった。家に帰ったらスケッチブックを取り出してみよう。絵は残っているだろうか。絵の中で杜は生き続ける。そして、最後に木の名前くらい調べておけばよかったと思う。あの木々に名前を尋ねても、もう声は聞こえてこない。

※『山彦の杜』は、架空の名称です。また、ヘッダーの画像は、実際の施設とは関係のない場所です。あいにく現存の写真は残っておりませんでした。

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