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16.アルバイト(その1)

多摩美術大学美術学部建築科は、特に実技課題の設計製図が厳しくて、大量の留年組がいるのは認識していたが、それでも、多少のアルバイトができる余裕は、特に1年生のうちはあって、大学に入学して初めてしたアルバイトは、八王子の市街地にあった「クラブ・ゴールデン赤坂」という大型キャバレーのボーイである。
生まれて初めて「フロムA」というアルバイト情報誌を買って、ちょっと水商売に興味もあったので、一番近場のお店に電話して面接を受けた。店名にクラブとついているものの、実態は大型キャバレーである。
キャバレーと言うお店をご存知だろうか?今ではキャバクラというお店が人気のようで、キャバクラのキャバはキャバレーの略だが、雰囲気は全然違う。語源はオランダの「カブレット」と同じフランス語圏内のピカール方言である「カンブレット」と諸説あり、はっきりしていないが、本来はダンスやコメディショーなどパフォーマンスをする舞台のあるレストランやナイトクラブの事で、本家フランスのパリにはエリック・サティやパブロ・ピカソなど、モンマルトルに住む名だたる芸術家たちの若き日の溜まり場となった「ル・シャ・ノワール (黒猫)」や、大規模な店内でトップレスの女性が舞台上でスペクタクルを繰り広げる(ただし決して卑猥なストリップショーではない)「ムーラン・ルージュ」や「リド」、「クレイジーホース」がいまだに健在らしい。ちなみに、フレンチカンカンはキャバレー発祥である。
日本では、1960年代から1970年代に流行した、ホステスが客をもてなす飲食店で、料金は時間制で"明朗会計"、ショーを行うステージや生バンド付きのダンスホールがあり、より大衆化した1970年代以降はおさわりなど、お色気サービスを伴う店も登場した。私が勤めた「クラブ・ゴールデン赤坂」では、残念ながらお色気サービスはなかったが・・・
日本のキャバレーの歴史的展開を見ると、第二次世界大戦後、進駐軍向けのキャバレーが生まれたが、1971年のドルショック、続く1973年のオイルショックにおいてはネオンサインの自粛や関連する諸般の事情から客足が遠退き次々とキャバレーは廃業へ追い込まれていった。その後1976年頃よりディスコの台頭によってキャバレーの存続自体が難しくなり、さらに追い討ちをかけるかの如く1980年代半ばからはキャバクラなどの新たな業態に押され、キャバレーは次第に劣勢になった。
2010年代に入ると、「地域で最後のキャバレー」という説明とともに大型店舗の閉店が報じられるようになった。2013年5月の新聞記事によると、同年2月に北海道札幌市の「札幌クラブハイツ」が閉店したため、その時点で存続していた大型のキャバレーは日本全国でも東京都と大阪府だけになったという。東京都中央区銀座の「白いばら」閉店を伝える2018年2月の雑誌記事によれば、同店は銀座で最後のキャバレーであった。「キャバレー・ハリウッド」の北千住店・赤羽店が2018年12月に閉店した際は、この2店舗が東京都内で営業を続けていた最後のキャバレーだと報じられた。2020年2月28日に閉店した新宿区歌舞伎町の「ロータリー」は、歌舞伎町で最後、都内で最後のグランドキャバレーであったと報じられている。大阪では、「裏なんば」と呼ばれるエリアに昭和12年の創業(すごい!!!)の「ミス大阪」という老舗があって、まだ頑張っている。23時までの営業ということで最近では女性のお客、カップルで来店するお客も多く、なんばエリアのディープスポットとしても親しまれている。大阪にはこのほか、「グランドサロン十三」や「ミスパール」などが健在で、どうも大阪という街は昭和遺産の宝庫である。ちなみに、サントリー文化財団の助成研究で、立命館大学衣笠総合研究機構生存学研究センターの専門研究員 櫻井悟史による「大阪キャバレー100年史――盛り場と社交の歴史社会学」という研究成果もある。

さて、「クラブ・ゴールデン赤坂」でのバイトであるが、最初のうちはお酒や料理をフロアへ運ぶボーイが主だった。左手にトレイを持ち、そこに様々なものを載せてテーブルまで運ぶ。一応、トレイには滑り止めのシートが貼っているのだが、それでもバランスが難しいし、結構重い。お店が広いので、テーブルNo.を覚えるのも大変だった。早い時間でお客さんが少ない間は、専属バンドの演奏をバックにドサ回りの歌手のステージや、フロアでバンドの曲に合わせてお客さんとお姉さんがチークダンスしている様子を見る余裕もあったが、世の中、まだ景気がいい時代で、そのうち広い店内もお客さんでいっぱいになる。そうすると、次第にそんな余裕もなくなり、強引にテーブルを分割したり、新規のテーブルを作ったりするので、ただでさえ運ぶのが忙しい上に、ややこしいテーブルNo.が追加されて、何度も注文を間違えたりした。その時、若いアルバイトのお姉さんはヒステリックに怒ったりしたのだが、ベテランさんたちは割合に寛容で、どちらかと言うと私は可愛がられた方かもしれない。ある時など、カウンターでちょっとした作業の最中、後ろからベテランのお姉さんに絶妙な加減で体に腕を回され、「ちょっと栓抜き貸してね」って私の制服のポケットに入っていた栓抜きを持って行かれたこともあって、そういう時はゾクゾクしたものである。当時の私の年上のお姉さん好きに拍車をかけた。
しばらくそうしたボーイの仕事をしていると、店長に呼ばれ、黒服を着させられて店のエントランスに立たされることになった。エントランスの仕事は、お客さんが出入りするときにドアを開け閉めしたり、来客の連絡ボタンをおしてフロアに伝えたり、テーブルについているお姉さんとの連絡係や、満席の場合には新規の客の入店を断ったりすることで、はっきり言ってボーイに比べて仕事はかなり楽である。本来であれば、車で来店したお客さんの車を駐車場に止めに行かなければならなかったのだが、免許を持っていないことでそれは許してもらえた。仕事は楽になったものの、ある程度、店が満員になるとやることがなくなって、逆に暇になって退屈するようになった。
時として、お客さんに店の料金の説明をしなければならない時もあった。「クラブ・ゴールデン赤坂」は、一応は9800円でビールかウィスキー(サントリーオールド)の飲み放題なのだが、それは最初のセット料金であって、女の子のドリンクやおつまみの料理を注文すると当然別料金である。さらに、会計の時にサービス料が別途10%かかってくる。こういう料金説明の時に一度やらかしたことがある。あるとき、ヤクザの2人連れから料金の説明を求められ、セット料金の9800円の話だけで入店させてしまった。どうやらその2人のヤクザは懐に余裕がなかったようだ。ギリギリ1人9800円で飲めると思って入ったものの、当然、最後の会計はそれでは済まない。まあ、私がセット料金の話しかしなかったからいけなかったのだが、普通、ヤクザならこういう店の料金システムくらいわかっているはずである。閉店時間になってエントランスからフロアに降りていくと、そのヤクザと店のスタッフが何やら揉めていた。要するに金が足りないのだ。若い方の弟分が私を見るなり「あいつに払わせろ!!!」みたいなことを言っていたようだが、私は無視してバックに戻って帰り支度した。その後、そのヤクザの飲み代について店からは何も言われなかったので、その件に関しては不問になったのだが、あのヤクザはどうなったのだろうか?よく、キャバクラなどで本指名客が払えない場合、キャバ嬢が売掛をかぶるケースが多いが、そのヤクザは一見のフリーの客である。クレジットカードも持っているようには見えなかった。
こうして、お水のアルバイトを3ヶ月ほど続けていたのだが、夏休みに大阪のフランス語学校で開催される夏期講座を受けたかったことと、いい加減、通勤がしんどかったので、社長にもう一度大学を受けなおすと理由をつけて辞めさせてもらった。辞める理由は両者ともだったが、後者のほうが大きかった。まず、私が住んでいた鑓水から八王子市街に出るためには国道16号を、御殿峠という山越えの道を自転車で往復しなければならない。これが結構きついのだ。当時はまだ若かったのでなんとかなったが、深夜、自宅にたどり着くと疲れでベッドへ倒れ込んだ。アルバイト優先の学生生活を送るなら、鑓水などに住まないで八王子市街に住んでいただろうが、残念ながら多摩美術大学美術学部建築科というところは、アルバイト優先の生活をしてしまうと確実に留年して、下手をすると卒業できない。こうなってしまうと何のために大学へ行ったのかわからなくなる。今でも建築科、或いは建築学科というところは大学の中でもたぶん一番忙しいところで、課題の製作などで学校のスタジオに寝袋持参で泊まり込んで何日も徹夜というのは当たり前の光景である。とくに女子学生にとっては過酷なところで、メイクなどしている暇もない。大学のスタジオなどには風呂もないので、当然、風呂に入れない日が続くことになる。下着も毎日換えられないだろう。たまに帰って洗濯とシャワーだけ浴びてまた泊まり込む。おそらく、この期間は女を捨てる覚悟が必要だ。

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