6.大学時代
大学に入学すると、私は何のクラブやサークルにも入らず、一人孤独に勉強とアルバイトの生活を送った。なぜなら、多摩美術大学の建築科は厳しく、同期入学の1/3しか4年間のストレートで卒業できないという現実があり、2年間も浪人してしまった私は留年することが自分自身の中で許されなかったからである。
そのため、結果的に飲酒するときはいつも一人だった。また、外で飲むという習慣もなかった。たまに、友人や、時には教授たちと一緒に飲み会に誘われることも無くはなかったが、その時はいつも自分を殺して飲んでいて、酔いつぶれるということは一度もなく、下宿に戻ってから一人飲み直すことが多かった。その習慣は、大学を卒業して社会人になってからも変わることはなかった。一度だけ酔いつぶれて失敗してしまったことは、フランス語原書講読の試験前日に深酒してしまって、試験に間に合わなかったことくらいである。おかげでその講義の単位は落としてしまったが・・・
大学時代を通じて習慣飲酒は続いていたが、当時飲んでいたのはビールやワインなどのアルコール度数の低い酒で、むしろ大学時代を通じては飲酒よりもナイトクラビングに明け暮れていて、週に2度3度と最終電車で六本木や西麻布に行っては朝まで踊り明かしていた。まだ20歳そこそこの学生なので体力はあったと思う。当時よく通っていたのは六本木の「ラゼルダゼル」だった。夜は通常営業するのだが、週末の深夜2時を過ぎるとアフターアワーズパーティーとなって入場料が1000円になる。それで入ってノンドリンクで朝の8時過ぎまで踊り狂う。金のない学生にはもってこいだ。
元々音楽が好きで、暗闇の中、ストロボライトを浴びながら好きな音楽で踊り狂うことはドラッグと同じで、何時間も休みなく踊り続けることで日常のストレスを忘れさせてくれ、ランナーズハイに似たトランス状態に導いてくれた。当時は、アルコールよりもダンスに酔っていたのである。それを教えてくれたのが、当時通っていた英会話学校の講師であるデヴィッドで、自分もコンビでVJをやっていたのでよくクラブに誘われた。彼らが師として仰いでいたティモシー・リアリーにもクラブで会ったことがある。「チベットの死者の書―サイケデリック・バージョン」を記した元ハーバード大学教授の心理学者である。彼は、ハーバード時代はシロシビンやLSD(リゼルグ酸ジエチルアミド)といった幻覚剤による人格変容の研究を行った。幻覚剤によって刷り込みを誘発できると主張し、意識の自由を訴え、私が会った晩年は、宇宙移住をサイバースペースへの移住へと置き換え、コンピュータ技術に携わった。コンピュータを1990年代のLSDに見立て、コンピュータを使って自分の脳を再プログラミングすることを提唱していた。
私が大学に入学したのは1989年である。時代はまだ80年代の香りを残しており、バブルとサイバーに浮かれていた。バブルの方では特に恩恵は与らなかったが、サイバーにはどっぷりとハマってしまった。サイバーパンクである。
サイバーパンクの語源となるサイバネティクスとは、アメリカの数学者、ノーバート・ウィーナーが提唱し、本来はフィードバックの概念を核にして生理学と機械工学、システム工学、情報工学を統一的に扱う学問領域であるが、これが転じて脳神経機能の電子的・機械的補完拡張やコンピュータへの接続技術を指すようになった。サイバーパンクではこれらの人体と機械が融合し、脳内とコンピュータの情報処理の融合が「過剰に推し進められた社会」を描写する。さらに、社会機構や経済構造等のより上位の状況を考察し、それらを俯瞰するメタ的な視点・視野を提供するという点で従来のSFと一線を画する。ウィリアム・ギブスンの『ニューロマンサー』などがサイバーパンクの代表作で、それに続く『カウント・ゼロ』や『モナリザ・オーヴァドライヴ』を貪るように読んだ。それが私とコンピュータとの出会いである。コンピュータとの付き合いは23年後の今に至るまで蜜月関係だ。また、『ニューロマンサー』の主人公のケイスが依頼主との契約違反の制裁として、脳神経を焼かれてジャック・イン能力を失い、ドラッグ浸りのチンピラ暮らしを送っていた電脳都市千葉市(チバ・シティ)の風景は私が幼少時代に過ごした大阪の郊外、大東市の殺伐とした風景を思い起こさせる。
ナイトクラビングの理論的な背景がサイバーパンクなら、音楽ではブリープ・ハウスがそれに当たる。NYの王道HOUSEやGARAGEの虜になるのは後のことである。
1989年から1991年にかけてイギリスの北部、シェフィールドのレコードレーベルWARP Recordsを震源地に、小さいながらもブリープ・テクノ、ブリープ・ハウス、ノーザン・テクノ、ヨークシャー・ブリープなどと呼ばれるダンスミュージックのムーブメントがあった。その特徴は、アメリカのシカゴ・ハウスやデトロイト・テクノからの影響をストレートに表したそれまでに無かったようなフィルター全開の重低音のシンセベースと剥き出しの電子音だ。そしてデヴィッド達が作り上げるビデオMIXと相まってクラブの中はまさにコンピュータやネットワークの中に広がるデータ領域を、多数の利用者が自由に情報を流したり得たりすることが出来る仮想的な空間であるサイバースペースだった。当時のキーワードはバーチャルリアリティである。私はサイバーに酔っていた。
大学の設計課題の作成は大変だったが、週末などは夜の11時までそれをやり、最終電車で遊びに行って何時間もサイバースペースに浸りきり、朝帰ってきてからまた昼前まで続きをやるということが当たり前になっていた。しかも酒を飲みながらである。
私は人を驚かせる癖がある。入学から卒業まで真面目な学生を演じていて、教授たちには私が六本木や西麻布で遊びまくっていたことなど想像もつかなかっただろう。卒業式の後の謝恩会の時に学友たちが私を指さして、
「六本木の帝王はここにいますよ。」
と言うと、教授たちは一斉に、
「もう学生たちを信用できないよ~。」
と言ったことが懐かしい。
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