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発病からの通院履歴

2013年4月24日
昨日の日記を書いていたら、いつの間にか日付を超えていた。午前1時半になったところで飲み足りない気がして近所の立ち飲み屋「桂の木」に行く。すでに「Ms」は終わっていた。2時間かけてマイヤーズのロックをゆっくり飲んで、野良猫の相手をし、ママに半額セールのラーメン屋のことや、預けていたシュールストレミングの話などをして、午前3時半に帰宅した。午前4時からは仕事である。
天気はあいにくの雨だった。新聞配達をやっていて、一番困るのが雨だ。いくら暑くても寒くても大丈夫だが、雨だと新聞が濡れてしまう恐れがある。だから傘をさしながら新聞の入ったバックを小脇に抱え、自転車で慎重に配っていく。いつもなら30分弱で終わってしまう仕事が、ゆっくり回ったので1時間近くかかってしまった。帰りにいつものように「バーリアル(BARREAL)糖質50%オフ」500mlを2缶買って自宅で飲んでいると、睡眠薬なしでいつしか眠っていた。
起きたのは午前11時半だった。今日は精神科の診察がある。病院の場所は大阪市住吉区の府立総合医療センターの隣の「大阪府こころの健康総合センター」だ。いつも今里から市バスを乗り継いで行っているのだが、この市バスが1時間に1本しか運行していない。ネットで時刻表を調べたら午後12時30分にバスが出る。ちょっと寝過ごして遅れてしまったが、このバスで行くことにした。
病院に着いてみると順番は意外と早く回ってきた。いつもなら1時間や2時間待たされるのに・・・。今日は運がいいのだろうか?診察室に入ったら先生がにこやかに迎えてくれた。最近は症状が安定していて病気の話よりも世間話をしに行く感じである。
私の先生とはもう7~8年の付き合いである。さらに精神科との付き合いは14年になる。精神科医は、精神疾患・精神障害・依存症の治療を専門に行う医師であるが、それぞれ専門分野があって私の先生は薬物依存症の権威である。私が精神科の診察を初めて受けたときには、病名はうつ病だった。しかし、その後、アルコール依存症が判明し、その上睡眠薬や精神安定剤などのトランキライザーを乱用するようになった。そこで行き着いたのが薬物依存症の専門医である。しかしそこに行き着くまでには様々な医療機関にかかってきた。参考までに、それまでの経緯をざっと紹介してみよう。
30歳の半ばに体調が悪くなって初めて診察を受けたのは今ではもうなくなった川崎の鷺沼の駅前の爺さんの医者がひとりでやっている内科のクリニックだった。そこで血液検査をやったのだが内科的には異常は見つからなかった。原因不明のまましばらく通院していたのだが、吐血はするし、嘔吐はする。身体が動かなくなって救急車で運ばれても原因は不明だ。ただ、脈拍が120あって飢餓の兆候があるとは言われた。それもそのはずである。その頃には酒しか飲んでいないのだから。
そこで会社の社長の奥さんに「横浜の昭和大学藤が丘病院」を紹介してもらい、とりあえず内科を受信して、胃潰瘍の疑いがあると言われて一通りの検査を受けた。内視鏡をやって見つかったのが胃と食道の炎症である。しばらくそこの消化器内科に通院してガスターという胃薬を処方されていた。しかし、ある日の夜に、嘔吐が止まらなくなって救急でその病院に行ったところ、原因はわからなかったが、その時私は体全体が震えていたので、当直の医師に翌日、心療内科を受信することを勧められた。
心療内科でデパスなどを処方してもらい、血液検査をしてしばらく様子を見てみたのだが調子は一向に良くならない。そこでその心療内科の医師に初めて精神科を紹介してもらい受診した。
精神科を受信して色々話をしたところ、付けられた病名がうつ病である。アルコールの離脱症状で眠れなかったので、その時に初めて睡眠薬と精神安定剤を処方してもらった。これが初めての向精神薬の体験である。その時は、後年、その薬にハマってしまうとは思いもよらなかった。しかし、私はその向精神薬をアルコールで流し込んでいた。
何度か診察に通っているうちに、朝から酒を飲むようになっていて、診察の際にいつも酒臭い息をしていたので、担当の女医にアルコールのことをいろいろ聞かれ、やっとのことでアルコール依存症の病名が付けられた。しかし、「昭和大学藤が丘病院は」アルコール依存症の専門治療はやっていない。AAや断酒会を勧められたのだが、仕事が毎日忙しく、それらに通っている暇はなかった。その上通う気もなかった。酒はやめられない。
病院に通院しているが、病気は一向に治らない。とうとう私の母親がしびれを切らして川崎の私が住んでいた部屋までやってきた。そして、当時、勤めていた会社の社長と3人で精神科の診察をした際、実家に呼び戻すことが決定され、私は3ヶ月の休職を与えられて奈良の実家に帰った。
奈良に帰った翌日、早速、近所の「近畿大学奈良病院」という、食堂に都ホテルが入っているホテルのような病院に行って神経科を受信したが、そこでもアルコール依存症の専門治療はやっていなかった。そこの医師が入院の必要があると診断して、大阪のアルコール専門病棟がある病院に入院の紹介をあたってくれたのだが、どこも満員で断られた。しかし最後に、堺の新金岡にある「金岡中央病院」に空きがあるのが分かって、その日のうちに緊急入院することになった。病院に入院するのはそれが初めてである。しかも精神病院だ。開放病棟だが時間になると入口が施錠される。
入院生活については既に「アルコール依存症闘病記」に書いたので省略する。3ヶ月の入院が終わって、仕事で神奈川に戻ることになり、引き続きアルコール依存症治療に通院する病院として紹介されたのが「神奈川県立精神医療センターせりがや病院」である。
この病院は、アルコールおよび薬物(覚せい剤・大麻・処方薬・市販薬・脱法ドラッグ等)依存症の専門病院で、依存症からの回復するために、薬剤調整および治療プログラムの提供を行っている。しかし、当時、私が住んでいた横浜の市が尾からは同じ横浜市内でも通院するには遠すぎて不便だった。何せ市が尾から東急田園都市線であざみ野まで出て横浜市営地下鉄に乗り換え、1時間近くかけて上大岡まで行き、そこからバスで30分かかる。何度か通院したが続かない。そこで会社の社長の奥さんの総務部長に紹介されたのが、川崎市高津区の武蔵溝の口にある「かわむらクリニック」だ。
「かわむらクリニック」に通院しながら1年ほど、なんとか仕事は続けていたのだが、やはりアルコールは止まらなかった。そして再度の入院になってしまい、「かわむらクリニック」に紹介されたのが東京の多摩市にある「桜ヶ丘記念病院」である。この病院には合計3回入院した。最後の入院は、私が睡眠薬のべゲタミンAを30錠をビールで流し込んで自殺未遂を図った末の入院で、もう横浜で一人暮らしするのは不可能だと諦めて大阪に帰ってくるきっかけになった。
アルコール依存症になるには大きく分けて2通りある。ひとつは長年アルコールを飲んできて生活習慣病としてアルコール依存症になるパターン。もう一つはアディクションである。私の場合は後者だったので、大阪に帰ってきてからはアルコール依存症治療専門の「小杉クリニック」に通院しながら、ドラッグのリハビリテーションセンターである「大阪ダルク」に通所していた。
1ヶ月ほどそんな生活が続いていたが、「大阪ダルク」で人間関係のトラブルから通所しなくなって、代わりに「小杉クリニック」のデイケアを受けることになった。ところが、このデイケアがとんでもなく退屈な場所で、居心地が悪く、通うのがだんだん辛くなった。その上この頃から大阪西成の釜ヶ崎を徘徊するようになって、闇で向精神薬を買い求めるようになっていった。
ドラッグの問題で「小杉クリニック」に通院できないようになって、一時、大阪の柏原市にある同じ系列の「小杉記念病院」に通院していたが、ここも向精神薬の問題で通院できなくなって、アルコール専門病院の「東布施クリニック」のソーシャルワーカーの紹介で、今の「大阪府こころの健康総合センター」に通院するようになった。
小杉クリニックの時は、アルコールは全く御法度で、立ち入り禁止になったが、今の主治医は飲むなとは言わない。その上、もし飲んだときの離脱症状を抑えるためのセルシンを処方してくれている。そうしたわけで今に至っているのだが、横浜に住んでいた時は断酒しながらも、そのストレスから飲酒してしまっていた。そして度々連続飲酒に陥って毎年の恒例行事のようにアルコール専門病棟に入院していたのが、現在では5年前に今の主治医がいつも勤務している大阪岸和田の「久米田病院」の閉鎖病棟に2ヶ月ほど入院しただけで済んでいる。断酒していたときよりも今の方が精神的には安定しているのである。身体的にも中性脂肪の数値は正常値に戻った。精神的にも身体的にも今の方が健康だ。いったいそれは何故なのか?是非とも究明してみたい。

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