12.インドでの平穏な日々
退院は7月の半ばだった。インド出国は8月の終わりである。その期間は慌しく過ぎていった。会社の退職手続きを7月中に終わらせ、8月中、昼間はインドへ持っていく新規CADシステムの練習をし、夜は極力AAのミーティングに通った。その間は一切酒を口にしていない。おそらく、インドに行くという明確な目標が断酒生活を支えていたのだろう。それまではなんとしてでも飲んで潰れるわけにはいかない。計画を潰してはいけないと心に強く思い、ある種の強迫観念に取り付かれていた。それは気楽な「飲まない生き方」ではなく気の重い「飲めない生き方」だった。
8月30日、無事成田を出発した私は、その夜はデリー郊外のマジュヌカティラというチベット人キャンプで泊まり、翌日の夕方のバスで13時間かけてインド北西部ダラムサラのマクロードガンジに到着した。
ダラムサラでは亡命チベット人で構成されるNGOの施設に滞在し、約3ヶ月間そこのゲストハウスで暮らした。元僧侶の政治犯達の建物と言うだけあってアルコールやドラッグは禁止だった。ドラッグはともかく、アルコールが身近になかったのは断酒するうえでは助かった。
主な仕事はチベット人建築エンジニアにCADを教えることと、NGOから頼まれた設計やチベット亡命政府の公務員宿舎やアッセンブリーホールの基本設計で、後は気ままに山を登ったり、図書館のあるカンチェンキションまで行って、チベット仏教の講座を聞くくらいで、気ままな生活を送っていた。何と言ってもヒマラヤが現前に見えているのである。それだけで癒された。
3ヶ月の滞在中、断酒の3本柱と呼ばれる通院、抗酒剤、自助グループは当然なかったのだが、気楽に断酒生活ができた。日本から持っていった精神安定剤や睡眠薬も3週間分しかなく、途中、薬が切れたときは多少苦しかったが、現地の薬屋で、
「Can I have a sleeping pill?」
というと軽い安定剤を出してくれた。ちなみに事前にクリニックの先生が書いてくれた英語の処方箋の薬はデリーに行っても手に入るかどうか・・・と言われたが・・・
アルコール依存症者にとって幸いだったのは、町にリカーショップがなかったことである。あったとしても飲酒欲求はなかっただろう。頭の中にも「酒」という字はなかったのでアルコールに手を出すことはなかった。
10月2日。この日はインド建国の父マハトマ・ガンディーの誕生日である。普段はチベット人でにぎわうダラムサラだが、この日はインド人がお祭り騒ぎだった。私はその日の朝、チベット亡命政府の公務員宿舎の基本設計の件でカンチェンキションの役所を訪れていたのだが、役所が休みだったのでマクロードガンジに引き返してきたところであった。
その時、インド人達が通りで騒いでいたので、宿舎に帰らずにしばらく様子をうかがっていた。中には金持ちなのだろう、10ルピー札の束を持ったインド人がお金をばらまいていて、物乞いたちが必死の思いでそれを拾っていたり、賑やかな楽団がパレードしたりしていて、興味を持った私は彼らの後を付いて行った。楽団とインド人の群れはある建築途中の建物に入っていくと、そこでは振る舞い酒ならぬノンアルコールのジュースや食べ物が無料で振舞われていた。日本であればお祭りと言えば酒が付きものである。しかしここではアルコールの類が一切なかった。何人かはウィスキーのようなものをラッパ飲みしていたが、それはほとんど例外だ。
インド人がもともと酒を飲まないというのではない。バラモン教やヒンドウー教の文献はいうまでもなく、飲酒を禁じているはずの仏教文献にも飲酒の様子が描かれている。しかし、飲酒が悪徳である、という観念を広めるのに力を尽くしたのはマハトマ・ガンディーであった。かれの影響のもとに独立運動時にインド国民会議派は禁酒を党是とするようになった。1935年インド統治法にもとついていくつかの州政府を掌握した国民会議派は実際にその政策を実施に移し、酒店舗数の制限、販売時間の短縮、アルコール度の引き下げなどを行った。1975年10月インディラ・ガンディーの率いる中央政府は全面禁酒の準備として、ホテル・レストラン・クラブでの飲酒や酒類宣伝の禁止など12項目計画を発表した。1977年に政権についたジャナタ党もガンディー主義者のデサイ首相のもとで禁酒政策を継続した。しかし、同首相の出身地であるグジャラート州以外には全面禁酒に踏み切る州はなかった。ウッタル・プラデーシュ州では19県で全面禁酒を実施したところ、密造、違法飲酒、密輸が頻繁に生じるようになった。最近はむしろ解禁の方向にむかっている。それにもかかわらず大半のインド人は飲酒の習慣がない。
断酒生活にとっては都合のいいインドだが、全く誘惑がなかったわけではない。私が暮らしていたゲストハウスの1階には日本食レストランがあってその創立記念日にどこから調達したのか分からないがビールが山のように積まれていた。私もアルコールを勧められたのだが、その時は我慢して飲めないふりをした。飲みたくなかったわけではない。だが、一度飲んでしまって、だんだんそれが習慣化して連続飲酒に陥るのが怖かったのである。ここはインドだ。野垂れ死にたくはない。レストランのマネージャーのソナムさんは既に酔っ払って寝息を立てている。
また、日本人ボランティアが帰国する際の送迎会でもビールが出てきて、今度は私がいよいよダラムサラを離れるにあたって送迎パーティーが開かれた時、NGOの代表の高橋さんが酔っ払って私の部屋にやってきては、
「飯田さん、一緒に飲みましょうよ!!!」
としきりと誘われた。その時も、
「ごめんなさい、私お酒飲めないんです。」
と断るのがやっとだった。本心ではダラムサラでの仕事が終わり、一杯やりたかったのだが、これまでの断酒生活が途絶えてしまっては何かもったいないような気がしたのである。
インドでの生活は本当の意味での気張らない「飲まない生活」が実現できた。アルコール依存症者としてはこのまま上手く断酒が続けられたなら理想だったのだが、現実はいつも理想を裏切ってしまう。それは私の意志の弱さかもしれない。