見出し画像

17.アルバイト(その2)

お水のアルバイトをやめたあと、まだ1年生の頃はアルバイトする余裕もあったので、何かしようと思っていたのだが、そういう時に、高校の同級生だった駒沢大学のシコ中に紹介されて、時々、治験バイトをすることになった。
治験バイトは、今はどうだかわからないが、私が学生だった頃は完全に紹介されないとその存在が知られていないアルバイトで、もちろん、アルバイト情報誌には一切載っていない。内容は、製薬会社が開発した新薬の効果や副作用を実証するために、厚生労働省から正式に「薬」として認められるために実施する臨床試験の被験者となるバイトである。治験は、新薬が厚生労働省に認可されるための最終的な臨床試験となるので、実施にあたり、国は厳しいルールを定めているが、まだ認可されていない薬を試す仕事であるため、想定外のリスクは非常に少ないと考えられているが、もし治験中に副作用がみられたら、すぐに中止し、健康回復への対応がされなければならないなどリスクもあり、そのため高収入が得られるバイトとしても知られている。
治験には3つの試験段階があり、それらの結果を厚生労働省に報告して、問題ないと判断されてようやく承認されるので、新薬が承認されるまでには10~18年もの長い時間をかけて、さまざまな試験を繰り返して効き目の確認や安全性の評価などが行われる。治験バイトには通院するタイプと、入院するタイプの2つに分けられるが、私がやったのは毎回入院するタイプだった。どちらも基本的には薬やサプリメントなどを服用し、服用後の体調の変化を検査される。検査ではほとんどの場合、定期的な採血を行ってデータを取るが、治験の内容よってその頻度や回数は異なり、私が聞いた話では、中には耳たぶを切って、その血液を調べるというものもあったそうである。当然、そうした特殊ケースの場合、報酬は大きくなる。入院すると、起床や就寝、食事の時間が厳密に決められてしっかりと時間管理された生活を送ることになる。定期的な検査の時間以外の時間は基本的には自由行動だが、喫煙は良かったと記憶するが、外出や飲酒、カフェイン摂取もダメで、私の頃は存在しなかったスマートフォンの利用なども今は制限されるようである。期間中は他の被験者と集団生活を送ることになり、比較的自由時間がある人や、集団生活が苦にならない人が適している。時間に関しては、私の場合は男子学生限定だった。集団生活は、高校の3年間、寮生活していたので、私に関して全く問題はなかった。
私が初めてシコ中から治験バイトの話を聞いたとき、真っ先に思い浮かべたのは関東軍防疫給水部本部(通称:731部隊)である。ご存知の方も多いと思うが、731部隊は、石井四郎陸軍軍医中将の指揮下で、ハルビン南方24kmの平房に拠点をおいて、防疫給水の名のとおり兵士の感染症予防や、そのための衛生的な給水体制の研究を主任務とすると同時に、細菌戦に使用する生物兵器の研究・開発機関でもあり、そのために人体実験や生物兵器の実戦的使用を行っていた。 細菌戦研究機関だったとする論者の中でも、その中核的存在であったとする見方がある一方で、陸軍軍医学校を中核とし、登戸研究所等の周辺研究機関をネットワーク化した特殊兵器の研究・開発のための実験・実戦部門の一部であったという見方も存在する。活動実態については、長い間情報が不足し不明のままであった。その理由は、当時から高い機密性が保たれていたこと、部隊の解散にあたって厳しいかん口令が敷かれたこと、終戦後、アメリカ政府との取引の結果、東京裁判においても731部隊の関係者は誰1人として裁かれていない、および、関係者の多くが戦後医学界の中枢を構成したことなどである。戦後、ハバロフスク裁判で、本部隊がペスト・コレラ・性病などの生物兵器、びらん性・腐食性の毒ガスを用いた化学兵器の研究に携わっていた特別の部隊であったと認定された。
アメリカ政府との取引に関しては、近年アメリカで公開された資料によると神奈川県鎌倉での交渉で731部隊関係者側が戦犯免責等9か条の要求をしていたことが判明。「日本人研究者は戦犯の訴追から絶対的な保護を受けることになる」、「報告はロシア人には全く秘密にされアメリカ人にのみ提供される」等と書かれており、731部隊の幹部たちは戦犯免責と引き換えに人体実験の資料をアメリカに引き渡した。最終報告を書いたエドウィン・V・ヒル博士は「こうした情報は人体実験に対するためらいがある(人権を尊重する)我々(アメリカ)の研究室では入手できない。これらのデータを入手するため今日までかかった費用は総額25万円(当時)である。これらの研究の価値と比べれば、はした金に過ぎない」と書いている。ただし、ソ連によるハバロフスク裁判では訴追が行われている。
731部隊では、生物兵器の開発や治療法の研究などの目的で、本人の同意に基づかない不当な人体実験も行われていたとする説があり、この説によると、被験者とされたのは捕虜やスパイ容疑者として拘束された朝鮮人、中国人、モンゴル人、アメリカ人、ロシア人等で、「マルタ(丸太)」の隠語で呼称されていたという。その人数は、終戦後にソ連が行ったハバロフスク裁判での川島清軍医少将(731部隊第4部長)の証言によると3,000人以上とされるが、ハバロフスク裁判では石井四郎中将が無罪とされているため証言の信用性は疑問である。犠牲者の人数についてはもっと少ないとする者もあり、解剖班に関わったとする胡桃沢正邦技手は多くても700 - 800人とし、別に年に100人程度で総数1000人未満という推定もある。終戦時には、生存していた40-50人の「マルタ」が証拠隠滅のために殺害されたという。こうした非人道的な人体実験が行われていたとする主たる根拠は、元部隊員など関係者の証言である。例えば、元731部隊員で中国帰還者連絡会(中帰連)会員の篠塚良雄は、当時14歳の少年隊員として「防疫給水部」というところに配属され、細菌を生きている人へ移すという人体実験を行ったことを、2007年にアメリカ、イギリス、中国などの歴史番組のインタビューで答えた。篠塚は、当時若かった自分の罪を悔やんでいるとして、2007年には中国のハルピンへ行き、遺族や被害者に謝罪をしている。ただし、中帰連関係者などの証言については、撫順戦犯管理所での「教育」によって「大日本帝国による侵略行為と自己の罪悪行為」を全面的に否定(自己批判)させられた者の証言であることから、信憑性を疑問視する見方もある。ともかく、私とシコ中は、お互いのことをマルタ1号・マルタ2号と呼び合った。
私がシコ中から紹介されて、治験バイトの登録とバイトの実施を行ったのは、東京都板橋区高島平の都営三田線西台駅から歩いてすぐにある西台クリニックという入院施設のある病院だった。今では、PET/CT検査、MRI検査、超音波検査などでがんや脳疾患、心臓疾患の検診などを行っているようであるが、私の学生時代、いまから30年以上前は治験専門の病院で、一般の外来診療はしていなかったと思う。また、場所も、今では西台駅の近くに移転しているが、当時は大東文化大学の近くにあった。
私が住む八王子の鑓水から西台まで通うのは結構大変だ。まず、京王線か中央線で新宿に出て、都営新宿線に乗り換えて、さらに神保町で都営三田線に乗り換える。通院コースなら不可能で、結果的に入院コースの治験バイトになった。
バイトにあたっては、治験前日に一定数以上の男子学生が西台クリニックに集められ、健康診断を受けた上で病院に1泊させられる。翌朝、再度健康診断を行って、毎回何人かは健康上の理由で治験には入れず、交通費だけもらって帰らされる。まあ、この交通費と、前日の夕食に毎回ステーキを食べさせてくれるだけでも貧乏学生にはありがたかったが・・・
治験に入ると、まず、新薬を服用する。その後、病院からは1歩も出られず、定期的な採血のため、ベッドで横になっているか、娯楽室のような部屋でビデオを見て暇つぶしするのだが、観たいと思うビデオはリドリー・スコットの不朽のSF映画「ブレードランナー」くらいしかなくて、何度も同じビデオを見るのでいい加減飽きてしまった。そのため、治験バイトをする時には何冊本を持って行って、ベッドでひたすら読書に励んだ。その中に、高校・浪人時代の愛読書の「FOOL'S MATE」が通巻100号を機に洋楽専門誌と邦楽専門誌に分割された時に出来た洋楽専門誌の「MIX」の創刊準備号が入っていて、そこに載っていたクラブやハウスミュージックの記事を貪り読んで、後にナイトクラビングにはまるきっかけになった。
定期的な採血は、最初は10~30分おきに行われたが、時間とともにその間隔が長くなる。私が体験した治験バイトは、土日を利用した1泊2日の入院コースばかりで、そのため報酬もそれほど多くなく、多くても2、3万だったと思う。それでも普通のアルバイトと比較するとおいしい仕事である。回数にすると4、5回行ったと思うが、必ず土曜日を含んでしまい、その結果、毎週土曜日の西洋建築史の授業に出席できなくて、テストでゴシック建築の特徴を論述した時にいい線いっていたと思うのだが、成績はそれほど良くなかった。出席不足が祟ったのかもしれない。また、西洋建築史を受け持っていた助教授に嫌われてしまったようで、4年生の卒業論文の発表の際にトチ狂った言いがかりを付けられることになる。まあ、その先生、建築科の研究室の中でもあまり好かれてはいなかったようで、私を擁護してくれた助手の先生は、研究をいう点ではその助教授を馬鹿にしていた雰囲気もあって、大学の研究室の中の人間関係も色々あるのだな~~~としみじみ思うことになる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?