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2.幼少時代

私は昭和43年、大阪の下町である東大阪の長瀬で生まれた。しかしながら生まれてすぐに大阪郊外の大東市の野崎に移り住んだので、長瀬時代の思い出は全くない。いまは唯一先祖代々の墓地があるだけである。
大東市という町は、大阪府内の外郭部を通り、大阪郊外の主要都市を結ぶ骨格的な環状道路軸である大阪外環状線が走り、スティーヴン・キングの「クリスティーン」で描かれているような典型的な郊外(サバービア)の荒廃した景観が広がっている町である。寂れた工場や中古車販売所、ガソリンスタンドやトラックターミナル、廃業したボーリング場、ファミリーレストラン、ラブホテルが幹線道路に連なっていた。小学校に通学する途中に大阪外環状線の高架橋の下を通るのだが、何度もホームレスたちの布団が燃やされていたことが強く印象に残っている。人間も殺伐としていたのだ。
周辺の景観はまだ昭和であった。どういう理由で放置しているのかは定かでないが、空き地がいたるところにあり、子供の格好の遊び場となっていた。放置された車やトラックの荷台や木材置き場は子供の恰好の遊び場である。小学校の前の川は黒く濁っていて、時々メタンガスを放出する。町は明らかに荒んでいた。カエルの腹に爆竹を差し込んで川に投げたりもしていた。トカゲを捕まえて腹を引き裂いたこともあった。子供とは残酷なものである。私の心も荒んでいたのだろう。
反面、背後には生駒山系の山が連なっており、野崎観音(のざきかんのん)として知られる福聚山慈眼寺があって緑も多く、小学生時代にはそこで良く遊んだものである。
福聚山慈眼寺の本尊は十一面観世音菩薩である。江戸時代より続く、有縁無縁問わずすべてのものに感謝を捧げる『野崎参り』で知られ、その期間である5月頭は参拝客で賑わう。祭りの期間にはよく鯉釣りをしていた。釣れたことは一度もないが・・・野崎観音の石段の途中にはいつも傷兵軍人が寄付を募っていた。まだ戦後を引きずっていた。
野崎観音はまた人形浄瑠璃や落語の作品を通じても知られている。境内には南條神社や役小角像も鎮座し、神仏習合や修験道の歴史を今に伝えている。四天王によって守護される本堂には、十一面観音菩薩、普賢菩薩、文殊菩薩が祀られており、平成11年に完成した壁画「花蝶菩薩」には、黄道十二星座が表現されている。本堂周囲には当寺中興の祖と位置付けられる遊女、江口の君(江口の長者)を祀り、婦人病と子授けの御利益があるとされる江口堂や、一番から三十三番まである河内西国霊場すべてを拝むことができるという三十三所観音堂、釈迦の16人の弟子(十六羅漢、じゅうろくらかん)を祀り、北河内の遊び歌において「野崎観音十六羅漢、うちの親父は働かん」とユーモラスに歌われる羅漢堂などがある。そうした大東市の荒廃殺した殺伐さと豊かな環境に築かれた寺院との奇妙な融合が後々まで私の原風景になっている。依存とのつながりは不明だが・・・
当時の私は、近所の友達と遊ぶよりは一人で遊ぶことが多かったように思う。そのころ住んでいた家には適当な庭があり、そこに土で城郭を作って一人だけのファンタジーに浸っていた。また、世界の偉人伝を読むのが好きで学校が終わると自宅に閉じこもって、むさぼるようにそれらの本を読みあさっていた。
振り返ってみると、幼少時代から私は現実社会から逃避する傾向があった。家庭に居心地の悪さを感じると中途半端な家出を繰り返した。自分の世界はここではないとずっと思っていた。そして、自分ひとりの世界に引き籠る。それは今も変わらない。
初めてアルコールを口にしたのは、はっきりと覚えていないが、4歳か5歳の時だったように思う。父の会社の同僚や友人たちが実家に遊びに来たおりなどに彼らが飲んでいたビールを悪戯心で飲んでは酔っ払い、庭を走りまわっていたと後日両親から聞かされた。また、私の祖母は健康にいいからと梅酒をよく飲ましてくれていた。私の実家は梅の季節になると必ず梅酒を作っていたので私も悪戯心で飲んでいたものである。
その時、どんな感じがしたのかは覚えてないが、酒の味よりもむしろアルコールがもたらす「酔い」や「酩酊」に気持ちよさを感じていたと思われる。つまり私にとってのアルコールは、飲んだ時から味や香りを楽しむ嗜好品としての「酒」ではなく、現実から逃避させてくれるドラッグとしての「アルコール」だった。

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