見出し画像

24.アルバイト(その3)

2年生の冬だったと思うが、建築計画第2の原坦教授から、設計事務所のバイトをしないかと誘われた。原先生は、4年生の時の卒業論文の指導教授で、1990年度に、「公共建築物への文化性導入に関する基礎的研究その2」といった学術論文も発表されており、デザイナーが中心の美術大学の建築科の教授陣の中では珍しくアカデミックな先生で、私は個人的に慕っていた。その原先生の誘いなので断るわけにはいかない。ちなみに、3年生、4年生の時は、原先生を中心にした「建築家教育」の共同研究の手伝いもすることになって、先生は大岡山の東京工業大学にも研究室を持たれていたので、けっこう頻繁にそちらに出入りして打ち合わせなどを行った。この手伝いは、ボランティアではなく、ちゃんとギャラももらえたのである。卒業後、会社で仕事をしていたら郵便物の不在通知を受け取って、会社に届けてもらうと、現金書留だった。金額は3万くらいあっただろうか?うれしい臨時収入だった。何の収入かと思えば多摩美術大学と書いてあった。さっそく大学の研究室宛の領収書を書いて送り返した。
さて、設計事務所のバイトであるが、事務所の名前と所長の名前を忘れてしまったが、事務所はまだフジテレビがあったころの新宿区の曙橋にあって、冬休みの間であるが、毎日通うことになった。最初は雑用だったが、すぐに事務所がその時抱えていた仕事の手伝いになった。その仕事は、東京都新宿区中井(下落合)に、小説家の林芙美子が1941年8月から1951年6月28日に死去するまで住んでいた家があり、林芙美子の死後も夫で画家である緑敏名義が住んでいたのだが、1989年に夫の手塚緑敏が亡くなった後、この家は新宿区に寄贈され、新宿区によって林芙美子記念館として改築・整備して公開するための旧邸の現地実測とその設計である。現在は、林芙美子記念館は、東京都選定歴史的建造物に指定されている。普段はアトリエ棟の一部と庭のみ公開されている。
林芙美子は落合の地を愛し、昭和5年に杉並から移って以来、亡くなるまでの足かけ22年間、落合に住み続けた。この家は、昭和14年に島津製作所所有地を購入したもので、芙美子の意向も強く反映させた、数寄屋造りの平屋建てで、当時は建坪の制限があったため、林芙美子名義の生活棟とアトリエ棟の2棟を建て、渡り廊下でつないだ建物である。ここで彼女の代表作である、「うず潮」「晩菊」「浮草」などが執筆された。家を建てるに当たり、林芙美子自身が大工を連れ京まで民家を見学しに行ったり、材木を見に行ったりと、格別の思い入れだったらしい。京風の数寄屋造りと民家のおおらかさをあわせもつ。下落合には、林芙美子の他に松本竣介、佐伯祐三、壺井栄など、多くの画家や小説家が住んでいたらしい。
後に、旧邸の設計者を調べると、山口文象だった。
山口文象は、東京高等工業学校附属職工徒弟学校木工科 卒業後に入った清水組をすぐに辞めて、曽根・中条建築事務所の門を叩くも願い叶わず、中条の紹介状で、逓信省経理局営繕課の製図工となった。そして岩本禄の下で京都西陣電話局(1922)などの製図を担当。さらに大阪中央電信局の現場管理を担当するようになり、上司の山田守に認められ、山田守の紹介で内務省帝都復興局橋梁課嘱託となって、清洲橋・蔵前橋・浜離宮南門橋などの意匠設計を担当。分離派建築会の縁で、石本喜久治のいる竹中工務店の設計技師となった後、独立した石本の建築事務所の主任として、旧 朝日新聞社屋(1927)や日本橋白木屋(1927)を手掛けている。また、日本電力の嘱託にもなっており、黒部川第2発電所と小屋ノ平ダム(1936)設計の前には1年半ほどドイツに赴き、ワルター・グロピウスのアトリエで働くかたわら、カールスルーエ工科大でダム設計の指導も受けている。分離派建築会は、当時の建築学科では佐野利器が中心となり、耐震構造など建築の工学面を強調していて、また、同学科を5年前に卒業した野田俊彦が「建築非芸術論」を発表し、建築は芸術ではないと主張していた時代に、こうした工学偏重の動きに対して、建築の芸術性を主張したものであり、「分離派」という名称は、伊東忠太の建築史講義でウィーン分離派の話を聞いて感激したことから名付けたと言われている。
林芙美子邸に話を戻すと、林芙美子がなぜ設計を山口文象に頼んだのかその経緯はわからないが、グロピウスの元で学んだ山口文象がこの手のスタイルの住宅を設計する事は不思議である。同時期に久が原に自邸を建てている山口文象は、これを「戦時中の悪夢」と称し、戦時中の国際建築スタイルの弾圧から、自分の心の中にあった民家への郷愁の日本的なものへの回帰した設計をし、作品として戦後10年を経て発表しているが、この林芙美子邸とも関係があるのだろうか。
林芙美子記念館への改修設計では、基本設計の図面は残されていたが、実施設計の図面がなく、実際に現地へ行って実測する必要があった。私が主に任されたのは、各部屋の展開図のスケッチと、事務所に帰ってきてからそれをもとに図面を描くことである。実測に当たっては、所長と2人で新宿から西武新宿線に乗って下落合まで通い、現地で所長が建築の専門学校で教えていた学生と合流して、3人でメジャーで測りながらスケッチを進めた。
事務所に帰ってくると現場で実測し、スケッチしたものをもとに展開図を描くのだが、大学の設計製図で描いてきた図面の描き方はいい加減なものであり、JIS規格に基づいたちゃんとした図面の描き方はこのアルバイトで教えてもらった。事務所の女性スタッフと一緒に事務所の近所の定食屋にお昼ご飯を食べに行くことは楽しかった思い出である。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?