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9.初めての入院

横浜の大学病院の精神科で初めてアルコール依存症と診断され、断酒を勧められた時には私は全く飲酒をやめる気になれず、病気だから飲酒を繰り帰すのが当然と考えていた。それは当時かかっていた病院がアルコール依存症の専門治療を行っていなかったことと、主治医もアルコール依存症の専門家医ではなかったからである。だからアルコール依存症の病気の説明もほとんどなく、私が自主的に断酒することが唯一の治療と考えていたきらいがある。ましてや、私自身、自暴自棄になっており、とことんまで落ちてやろうという思いもあった。
私の病状が悪化の糸をたどるに従って母が心配し、様子を見に来た。その時、私の1Kの部屋はアルコール臭で充満していた。母はそれに気付くと半狂乱のようになって大学病院の最後の診察に社長とともに付き添った。そして私一人では置いておけないと判断したのだろう。社長と相談して実家の奈良に連れて帰ることをとんとん拍子に進めていった。休職は3カ月となっていた。
その時の私はこれまでにない脱力感に苛まれていた。帰りの新幹線の中で最期の一杯と諦めかけていたビールを一口飲み、実家に帰ったのだが、固形物が一切受け付けなくなっていた。食事を出されても全て嘔吐し、栄養失調状態であった。
とりあえず奈良には近畿大学付属奈良病院というホテルのような病院がある。まずはそこの神経科で診察を受けるつもりで行ったのだが、そこの医者もアルコール依存症には門外漢で、あちこちのアルコール専門治療を行っている精神病院に片端から入院治療ができるかどうか確信してくれた。どこも満員で、やっと見つかったのが堺にある金岡中央病院である。
入院は生れて初めてである。しかもアルコール依存症治療には3か月もの入院が必要と宣告された時には失望した。せっかくの休みを入院だけで済ますなんて・・・。一通りの入院手続きをしているとき、自分の手が震えて自分の名前さえ碌に書くことができない。その時には絶望感を味わったものである。医師はその様子をじっと眺めていた。
最初にベッドを与えられ入室した病室はナースステーションの隣にあり、24時間モニターで監視されていた。隣のベッドにはかなり重症の患者が点滴を受けていた。もちろん大小便は垂れ流しである。顔色も土色で、死を感じさせた。
「これはもしかしたらとんでもない所に来てしまったのではないだろうか?」
それが入院初日の感想だ。しかし、次の日は隣の比較的静かな病室に移された。心底ほっとしたものである。
入院から数日たったある日の午後、主治医から診察室に呼び出されて数枚の書類を手渡された。まず一枚目にはアルコール、睡眠薬・抗不安薬、咳止め薬、シンナーなど、アンフェタミン、マリファナ、LSD、ヘロイン、コカイン、類似薬物、ニコチンが箇条書きにされていて、それぞれの毒性や精神依存性や身体依存性が詳細に書かれてあった。アンフェタミンだけが初耳だったので主治医に聞いてみると。
「覚醒剤ですよ。いわゆるシャブってやつですよ。」
それぞれの項目で強さを表す丸印を見てみると、アルコールは身体依存で覚醒剤を勝っていたのである。そして医師の次の言葉が強烈に印象に残った。
「いちどアルコール依存症になれば一生治ることはありません。しかもアルコール依存症者が飲酒すると、脳内からモルヒネ同様の物質が分泌され、死に至ります。」
心の中で私は何度もつぶやいた、
「モルヒネか~~~モルヒネか~~~モルヒネか~~~」
ドラッグに関する知識はウィリアム・バロウズやティモシー・リアリーなどの著作を読んでいただけにある程度持っていた。実際、クラブでLSDをやったこともある。しかし、麻薬=アヘン、モルヒネ、ヘロインだけには手は出すまいという自負だけはあった。あれに手を出すと人間をやめなければならない。当時の私はどこか厭世的でいつ死んでもいいくらいに思っていたのだが、人間という尊厳だけは失いたくなかった。そしていざ死を前にすると心とは裏腹に足がすくんでしまう。その時、急に生への希求が出てきた。
「いちどアルコール依存の悪循環の回路ができてしまったら死ぬまで治りませんよ。」
そう説明されると、初めて事の重大さに気がついて仕方なくではあるものの断酒を決意する以外には生きるすべがなくなり愕然となった。
後に東京の精神病院のアルコール病棟に入院してその違いがわかったのだが、私が初めて入院した精神病院のアルコール病棟は、回復へのアルコールリハビリテーションプログラムは一応あったものの、非常に自由な病院で、初期の離脱症状と点滴が終わると外出が自由であった。しかも病院が自転車を貸してくれるという。私はその自転車に乗って昼食後に病院を飛び出して、中央環状線を西に向かい、地下鉄御堂筋線の新金岡駅を発見した。そこを右折するとあびこ筋で、直進すると天王寺に出る。病院の点呼の時間は4時だったので行けるところまで行ってやろうと思って、何度も天王寺や難波、梅田までも行ったことがある。
季節は夏の盛りで、おそらく体感気温は36度を超えていただろう。いつもなら冷えたビールでも飲みたいところだが、入院期間中は不思議なことに全く飲酒意欲がなかったのである。ビールの自動販売機を見ても何も感じない。のどが渇いたと思ったらミネラルウォーターを買っていた。入院中飲酒すると病室の外から鍵がかけられる保護室に入らないといけないのだが、そんなことは特に意識していなかった。ただアルコールを飲みたくなかっただけである。その時思ったのは、断酒は意外に簡単ではないだろうかということである。これまでの人生の中であんなにも親密だったアルコールは簡単に辞められる。しかしながら、これが甘い認識であったことは退院後に分かった。
入院中のアルコールリハビリテーションプログラムは、まず、最初に肝臓の障害の併発をしているかどうか、脳委縮は進んでいるのかといった内科の検査を一通り行った後、アルコール依存症がどんな病気であるかの講義から始まる。
例えばアルコール依存症者は、意志が弱いので酒がやめられない?だらしない性格の人が依存症になるのでは?ビールだけしか飲んでいないから、依存症にはならない?酒を飲んでも顔が赤くならない人は、依存症にならない?仕事をしているから、まだ依存症ではない?肝臓が悪くなければ、まだ依存症ではない?アルコール依存症になったら、死ぬまで酒をやめられない?悩みを解決すれば飲まなくなる?病気が治れば、また飲めるようになる?こういった偏見を1から否定していくのである。
そして飲み続けると併発する内臓疾患の講義、そして院内での断酒例会と、院外の断酒会、AAへの参加である。特に院内での断酒例会と、院外の断酒会、AAへの参加を習慣化させるだけである。シアナマイドなどの抗酒剤の服用は強制されなかった。
入院中、忘れられない思い出がソフトボールであった。病院にはソフトボールができる運動場があってそこで練習し、別の精神病院のアルコール依存症患者との対抗試合を行う。その時は看護師も冷たい飲み物を持って応援し、相手の病院までバスで向かうという本格的なものだった。しかもユニフォームまである。
入院中一番うれしかったことは仕事のことを一切考えずに済んだことだ。それだけはまるで天国にいるような錯覚で入院生活をエンジョイしていた。
もうひとつ、入院生活を楽しくさせていたのは同じく入院していたアルコール依存症の患者の面々の面白さである。まだ入院したての外出禁止令が解除されなかったころ、喫煙したい私にたばこをめぐんでくれたKさんと言う人がいる。ニコチンの禁断症状でくるしかった時に後払いで良いからと「わかば」を一箱貸してくれた。その後もKさんとは仲良くなり、一緒に外部の断酒会に一緒に行ったり、バカ話で花を咲かせることになる。「わかば」を吸ったのはこれがはじめてである。
Kさんは元々タクシードライバーで、仕事中にあった傑作話をいろいろ聞かせてくれた。
「大阪で御堂筋って行ったら一流会社が集まっているところやろ?あそこのOLってとんでもないやつらばっかりや。仕事が終わってワシのタクシー止めよるから、てっきりキタかミナミに遊びにいくと思うやろ?ところが十三に行ってくれって言うんや。もしかして風俗のアルバイとかか?って思うやろ?不審に思ったまま十三に行ったらやっぱりキャバクラの裏口から入っていきよったで。」
つまり、一流会社のOLをやっても風俗のバイトをかけ持ちしているらしい。
それ以外にも日曜日に釣りして帰ってくる患者もいたし、病院から仕事場に行っていた患者もいた。
毎食後はテレビの観賞時間である。たまたまテレビが2台あったのでチャンネル争いはなかった。主に映画派とナイター派に分かれる。私はいつも映画派だった。阪神が勝つと映画組も盛り上がってヤンヤの歓声が上がる。
また、夏だと言うので病院からバスに乗って二色が浜と言う海水浴場に行ってバーベキューをしたことがある。カキ氷の機械も持参しては海水浴に来ていた子供にあげていた。しかも「氷」と書いた幟付きである。
そうこうして既定の3か月が過ぎると退院の許可が出た。会社からはしばらくは自宅療養でしたほうがいいと言ってもらっていたのだが、大嫌いな上司が退社するというニュースを聞いて早く復職する気でいっぱいだった。まだ根っからの仕事人間の血は薄くなっていなかった。
しばらくの自宅療養期間を利用して東大寺を参拝したくなり、あまり遅くならないと両親を安心させたうえで奈良市内へ向かった。はじめのうちは大仏殿を見学し、二月堂で会社に退院した旨を報告し、春日大社を回って猿沢の池までやってきた。ところが、入院中あれほど強固だった断酒への意思はここでもろくも崩れ去った。缶ビールを買ってしまい、池のほとりで罪の意識にさいなまれながら飲んでしまった。これが契機となって、事あるごとに飲酒してしまうという生活に戻ってしまった。復職までの短い期間ではあるが、病院から通っていたAAにも参加した。ただし、夕食にビールを飲んでしまっていたが・・・

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