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”本当のキモチ”と向き合うということ

本当に久しぶりにふと「書きたい!」と思った。

100人のインタビューチャレンジや趣味で続けてきたラジオをしばらくお休みすることにして、早1ヶ月。
そういえばあのとき、こんなことを書いていたなぁ…と、ふと振り返って思った。

頑張って続けてきた活動を両方とも中断することになった今、「次は何をしようか」、「私には何ができるのか」・・・読書をしたり、コーチングを受けたりしながら、じっくり考える毎日が続いている。
そんな毎日のなかに、今後少しずつnoteで表現することも加えていこうかな、と今は漠然と思っている。
仕事として「書く」ときとは違って、もっと肩肘張らない、等身大の自分で、言葉を紡いでみたいから・・・。

”コンプレックスだった「声」で、30回ラジオ収録を続けてみて…”より。

あれから1ヶ月。
そういえば、「書くこと」からはかなり遠ざかっていた。

この1ヶ月、私は本当に微力ながらではあるが、会社の新しい事業の立ち上げをお手伝いさせていただいている。
コロナ禍でいろいろと立ち止まることが多かったこともあり、久しぶりに動きの多い毎日で、慣れないことも多くて正直とても大変だけど、充実しているなぁと感じている。

そのかたわら、何度か友人のコーチングを受けたり、同じく友人が開催してくれた座談会やワークショップで、自分と向き合う時間をたくさん作ってきた。
その過程でいくつか気づいたこともあり、文章として残しておきたいなぁと何度か思ったが、結局書けずにいた。

ただ、ここ2週間ほど、脇目もふらずに仕事と向き合い続けるなか、ふと立ち止まる機会をいただいた今日、やっぱり久しぶりに筆を取りたいと思った。

きっかけは、セブでお世話になった友人のおすぎさんが2週間連続で開催してくれたワークショップ。

※世界一周経験者、フィリピン・セブの語学学校2校での勤務経験があり、英検1級保持者、そして元ソーシャルワーカーのおすぎさんの豊富な人生経験が理由なのだろう、温かみのある雰囲気と言葉で話を聞いてくださるので、上記はぜひオススメしたい。

果たして「器用」なのか?

えぴー1

さて、いきなり何のことだ・・・?と思う方もいらっしゃるかもしれない。
本題にも関わっているので、しばしお付き合いを。

先ほどの友人のおすぎさんのワークショップの中には、思いつく限りの「私は・・・」を挙げてみるというワークがあった。
5分間でざっと10個挙げてみたのだが、その中で私は「私は器用貧乏である」と書いた。

この「器用貧乏」は、ここ3〜4年ほど、私が抱えている悩みのひとつである。
仕事では、大体どんなことでも、言われたことはきちんとこなしてきた(つもり)し、どこの会社にいても、同時並行で幅広い業務を担当してきた。
今の仕事でも、ライター・インタビュアー、キャリアアドバイザー、オンラインコミュニティの運営とイベントの企画、そしてときどき(簡単ではあるが)動画編集やバナーのデザイン・・・など、業務に必要なことはなんでもやる。

※注:ここでは、それに対して愚痴や文句を言いたいのではない。
むしろ、そこまで何か突出したものを持っている訳でもない私を信じて、いろいろと任せていただけることに心から感謝していることはあらかじめ伝えておきたいし、そのようにご理解いただけるとありがたい。

好奇心の多い私は、いろいろなことにチャレンジできることを楽しいと感じている一方、「何かに突き抜けていない」ことがずっと悩みの種だった。
たしかに、PhotoshopやIllustratorの使い方など、デザインをするための基礎的なスキルはあるものの、実際にWebサイトのデザインができる訳でもないし、動画編集もソフトを少し扱える程度で、本当に簡単なテロップ入れやちょっとした編集しかできず、すごくスキルが高い訳ではない・・・など。
そんな私は、最近「いったい”何が”できるんだろう・・・?」と思うことが増えた。
だからこそ、このとき「私は器用貧乏である」と書いたのだろう。

ただ、私がネガティブに捉えている「器用貧乏」を強みに変換してみようという、リフレーミングのワークをしたとき、私のなかで1つ疑問が生じた。

詳細なやり取りについて言及するのは差し控えたいが、リフレーミングの過程で、この「器用貧乏」を「マルチタスクで、器用にいろいろなことをこなせる」と一時的に置き換えてみたときのこと。

「あれ・・・? そもそも私って、”器用”なんだっけ・・・?」

素直にそう思った。

じつは、今月に入ってから、同じ疑問を抱えた瞬間があった(正確にいうと、このときは疑問というよりはちょっとした違和感?)。
なんとなく引っかかっていたから、ノートにメモだけして、特に気にすることもなく流していたけど、このとき再び思い出した言葉。

「小さいときはなんでもそつなくこなすしっかり者だったのに・・・大人になってから、なんでそんなに抜けちゃったんだろうね!?」

話の流れや何に対してそう思われたのかはすっかり忘れてしまったが、母の一言である。
そして、「そんなに抜けちゃった」のところは、正直おっちょこちょいで、ヘマも多い私なので、激しく同意で笑うしかなかった(笑)。

ただ、その一言になんとなく違和感を感じていたのだ。
そして、このワークでふと感じた疑問を機に、その違和感の原因を突き止めた気がした。
そう、「小さいときはなんでもそつなくこなすしっかり者だった」というところに。

学生時代の私は、「(長女なので)お姉ちゃんだからしっかりしなきゃ!」と思って生きていた。
そして、改めて思い返したとき、「小さいときはなんでもそつなくこなしていた」は事実ではなく、むしろそう「”見せる”ために必死だった」のではないだろうか。

実際、最近の私は、何事も器用にこなせる訳ではない自分に悩み始めている。
周りの人と比べると、物事を新しく習得するスピードが速い訳ではなく、むしろかなり必死にならないと追いつけない。
デザインや動画編集も基礎的なところは教えてもらったとはいえ、その都度出てくる必要なことを自力で調べながら進めているので、何かを作るにしても、かなり時間がかかる。
ライターだけど、執筆には時間がかかるし、枚挙に暇がないが、仕事の進め方は全般的にかなり不器用だ。
そんな私だけど・・・「任せてもらった仕事はきちんとこなしたい!」と強く思うので、曲がりなりに一生懸命やってきた(とはいえ、至らないことの方が多いんだけど)。
だから決して器用な訳ではなく・・・むしろいつも少し背伸びをして、「きちんとできる人でありたい」みたいなところがあるのだろう。

学生時代や20代前半を振り返っても、決して「器用」ではなかったと思う。
むしろ要領が悪くて、他の人の3倍〜5倍は頑張らないと追いつけない人間だった。

高校1年生の頃、数学の最初の単元「因数分解」が完璧にできるまで軽く1ヶ月はかかってた気がする(どんだけ・・・笑)。
それでも、「ちゃんと理解したい!」という気持ちだけは人一倍強く、4月の1ヶ月間、放課後は毎日数学の先生のところに通っていたことを今もよく覚えている。
そんな私だったから、他の教科でも「なんでこんな簡単なことがすぐに理解できないの!」なんて怒られたこともあったなぁ(笑)。

ただ、どんなにつまずく単元があっても、必ず定期考査までは帳尻を合わせていたので、成績は上位をキープし続けていて、そういう「結果」として”目に見えていた”ところだけが、母の記憶に残っているだけなんじゃないのかなぁなんて思ったのだ。

仕事を始めても不器用っぷりは変わらず、初めての一人暮らしで家事と仕事の両立が上手くできず、仕事中にぶっ倒れそうになったこともあった。
←当時は家事に慣れていない上に今よりもっと完璧主義だったので、仕事終わりに夜中までかけて家事を綺麗に片づけ、毎朝早起きしてお弁当も作っていたので、ろくに眠れていなかった(苦笑)。

営業の仕事もかなり「足で稼ぐ」タイプで、得意先のキーパーソンの心だけ上手く掴んで、効率よく営業するスタイルの先輩には、「お前、もうちょっと手の抜き方を覚えた方がいいんじゃない?」なんて言われたこともあった。

などなど・・・本当に全然「器用」なんかじゃない。
「不器用な自分に悩み始めている」なんて書いたが、実際はもともと「不器用」だったのだ。

さて、随分長くなってしまったが、ここからが本題。

私は最近、「仕事において不器用」な自分に悩んでいると書いたが、そもそも「生き方においても不器用」なのではないだろうか・・・。

今日改めてそんな風に感じたのだ。

”本当のキモチ”を知る、受け入れる、そして誰かに伝えるって難しい

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ちょうど1週間〜2週間前、私は友人のコーチングを受けていた。
その友人のコーチングのスタイルが私は大好きで、「最近、調子どう?」という何気ない会話から始まり、1時間のセッションが終わる頃には、ズバッと私の抱えている潜在的な悩みに気づかせてくれるからだ。

タイトルにある、「”本当のキモチ”を知る、受け入れる、そして誰かに伝えるって難しい」は、私がこのコーチングセッションの後にしみじみ感じていたことだ。
特に、このとき強く感じたのは、「”本当のキモチ”を誰かに伝える」難しさ。

そして今日、冒頭に紹介したおすぎさんのコーチングの補講の中で、改めて考えたのがきっかけで、「”本当のキモチ”を知る、受け入れる、そして誰かに伝える」難しさのすべてを一気に感じた気がしたのだ。

これまでさんざん「私は不器用な人間である」と書いた。
そして私は・・・不器用な人間ではありながらも、「器用になんでもこなせるしっかり者」として見られたいと強く思うがゆえに、少し背伸びをしたり、見栄を張ってしまっているところがある(と気づいた)。

そう感じたきっかけは、今日行われた「自分の思いの実現を阻むもの」は何かを問われるワーク(私の「思い」の詳細についてはまた後日!)。
このワークが特徴的なのは、「自分の意志が弱い」とか「自分のスキルがない」のように、「自分」に原因を見つけるのではなく、「自分を取り巻く環境」に目を向けてみようというところ。

そのワークのなかで、私がひとつ挙げたのが、「今は(コロナウイルスの影響もあって)新しい誰かとの出会いを求めるのは難しい」ということ。
そして、その次のワークで、今置かれた環境の中で、「少しでも自分の思いの実現に近づけるためにできること」を探していった。

では、「新しい誰かとの出会いを求めるのは難しい」という環境要因に対して、今の私ができることはいったい何なのだろうか・・・?

私の心に浮かんできた答えは、「今すでにある関係を大切にする」ということだった。
そして、この答えについてワークショップの後、今一度深く考えた。

果たして、今の私は・・・すでにある関係を大切にしているのか?

そう考えたとき、冒頭の友人とのコーチングセッションでの気づきが再び強く思い出されたのだ。
そして、それこそが私が「仕事だけでなく、生き方も不器用だな」と痛感するきっかけにもなった。

私は、誰かの想いを伝える仕事をしてはいるが、自分の想いを口にするのはかなり苦手で、むしろ怖いとさえ思っている。
それに、自分の”本当のキモチ”なんて知られたら、きっと嫌われてしまうとか、弱い人だと思われたくないとか、そんな風に思っているからこそ、つい見栄を張ったり、強がったりしてしまうのだ(とこれも今日気づいた)。

でも・・・私が見栄(ときには意地かもしれない)を張ったり、自分を大きく見せようと飾っていることで、私が本当に伝えたい想いなんて、微塵も伝わらないのではないだろうか、とふと思った。

今の私は、「きちんとした人」と見られたいという気持ちが、正直かなり強い(「お姉ちゃんだから」の名残なのかな…)。
だから、そう思われなさそうなことが起こったとき、自分を防衛するかのように、過剰に強気に出てしまうことがある。
でも、本当に心の底で思っていることや本当の自分の姿は、それとはかなり遠い。

強気に振る舞っている裏では、「自分にできることなんて少ないのではないか」とか「自分は本当にチームや仲間に対して貢献しているのか」とか・・・そんな風にいつも自信なさげに自問自答している。
それに、誰かに対する心からの感謝や尊敬の念はもちろん、今はまだ上手く言葉にできないけど、心の中に溢れている想いだってたくさんある。

今日のワークショップの後に改めて深く考えたとき、そんなちょっと「弱っちい」部分も含め、自分が日頃感じている”本当のキモチ”にきちんと目を向け、そんな自分を一旦感じきった瞬間、涙がとめどなく溢れていた(久しぶりに号泣した)。
それだけ、今まで自分の素直な感情や想いと向き合うことを避けてきたのだろう。

そして、そんな”本当のキモチ”は果たして自分が「心から感じている通りに」、大切な人たちに伝わっているのだろうかを考えたとき、おそらく今のままではきっと・・・”NO”だろう。
そのためにはどうすべきか、これは「きちんと表現していくしかない」のだと思っている。

ただ、これだけ自分の”本当のキモチ”に向き合ってこなかった自分が、いきなりそれを誰かに適切に伝えるのも、やっぱり難しいのだろうとは思っている。
自分のことを自分が理解しきってはじめて、誰かに伝えることができると思うから。

だからまずは・・・今日改めて気づいた、自分の”本当のキモチ”を大切にすること、そしてあまり背伸びし過ぎず、等身大の自分でいること、そんなことを少しずつ意識しながら生きていきたいと思う。

少しの違和感を大切に。 そして「不器用さん」でもいいじゃない!

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忙しい毎日のなかだと、自分のなかの”ちょっとした違和感”を見過ごしがち。
実際、今回の私も母の一言から感じた小さな違和感の正体を突き止めきれていなかったし、「誰かに対して強気で振る舞うたびに感じる、ちょっとした胸の痛み」を薄々感じていたけれど、忙しさにかまけて、見て見ぬフリをしてきた。

でも・・・「そんな”ちょっとした違和感”にこそ、より良く生きるヒントが詰まっている」、そんな気がした。
だからこそ、どんなに忙しくても、少しでも自分の”本当のキモチ”と向き合う時間を取っていきたいなぁと改めて感じている。

最近は久しぶりに充実した毎日を過ごしていて、つい見過ごしてしまいがちだった大事なことに気づくきっかけをくださった、おすぎさんにまずは心から感謝したい。

そして、今回長々と語ってしまった、果たして「器用」なのか「不器用」なのかについて。
もちろん、私自身がすぐには不器用な自分を完全に受け入れることは難しいけど、「どっちでもいいかな」と思い始めている。

ただ、ちょっぴり不器用な自分もきちんと受け入れ、過剰に見栄を張ったり、強がったりすることについては、今後は少しずつ控えていきたいなぁ。
他者と共存する以上、自分本位であってはならないことは十分承知しているが、弱さを受け入れ、素直に頼ることは、自分本位ではないと思う。
頼った分だけお返しするなり、次の”誰か”へ恩送りすればよいのだ。

そう考えたとき、何事においても過剰に気負わず、もう少し”等身大の自分”で臨んでもよいのかもしれない。

今日は自分の思うがままに綴ってしまいました。
最後まで読んでいただき、ありがとうございました!


(最後はただのひとりごと)
あまりに一気に書き上げたので、自分でも驚き・・・。
この勢いで、目の前のお仕事もどんどんこなしていこうと思います!!

じつは、他にも書きたいお話があるので(インタビューも含め!)、仕事がひと段落したら、どんどん書いていきたいなぁ…!!




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