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自堕落であまのじゃくな父の随想

4月27日に第二子が生まれた。長男につづき、男の子だ。今回もまた、幸運にも出産に立ち会えた。

立ち会ったところで、男は何もできない。できることがない。本当に、あまりに貢献できるシーンがないので呆然とする。するが、無力感というのとはちょっと違う。

ある命が誕生する瞬間の、その場には、無力なものなどひとつも存在しないように思う。そこにいる、ある、すべてに意味を与えてしまうパワーが出産にはある。

というより、そんなふうにすべてに意味を感じとろうとする肯定的情緒をそこにいる人間に与えてしまう圧倒的なパワーが、いのちの誕生というシーンには伴っている。

やれることが何もないのに、自分はそこにいてもいいのだと思わせてくれる。そんな場面は日々を振り返ってもそれほど多くない。ほとんどない気さえする。

寄与、貢献、ギブ・アンド・テイク……何かを求める前に「自分はこれを提供できます」という他者への価値の付与がなかば当然とされる現代は、契約社会としてはすこぶる健全なようでいて、その実どこか息ぐるしい。

ただそこにいる、ただ参加する、そして何もせずに帰る。誰に価値を提供するでもなく、こっそりと、自分だけ満足してその場をあとにする。

自堕落であまのじゃくで快楽主義的なぼくは、この健全で利他的な社会に参加しながら、ときどき、いやけっこうな頻度で、こういうずる賢い考えに思いを馳せてみたりしている。

生まれたばかりでまだ病院にいる我が子が大きくなった頃、自分は彼の目にどういう父親として映るだろうか。

まじめで家族思いの理想的な父親、などではなく、無責任で自分勝手だが毎日楽しそうに生きている変わり者の親父……

そんなどうしようもない背中を見せてやりたいなぁ、などと、これまた自分勝手に思う日曜の午後である。


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