見出し画像

遊びについての対話の会~「怠惰」「ウツ」「戯れ」について考える~

先日、遊びについて対話するオンラインの会を開催しました(こちらのブログが最初の会のまとめになります)。こうして仲間と共通のテーマで語り合える時間がとても楽しいです(*^^*)

今回の会も、とても面白い語り合いができました。特に自分が興味深かった内容についてまとめたいと思います。

遊びが持つ創造性と破壊性

対話の中で、遊びの創造性と破壊性についての話題になりました。ある遊びの動きが社会的に許容されればそれは文化として位置づけられるけれど、否定されればたちまち既存の文化を破壊するものとして見做されてしまう…。これは、各国に伝わる神話やそこから派生した物語に登場する「トリックスター」の存在と重なる気がします(個人的には、トリックスターが持つ役割についてとても興味があります)。何か新たなものが生まれるプロセスでは、従来の流れを崩すほどの衝撃が加わります。それは、ある意味ではダニエル・N・スターンが「出会いの瞬間(モーメント)」と定義したものと重なるのかも知れません。

まさに今という瞬間が生じた時、治療者は、必ずしも準備していない困難な作業に直面させられる。まさに今という瞬間は、通常、技法的に許容範囲の応答を超えたものを要求する。すなわち、それは出会いの瞬間を要求するのである。出会いの瞬間とは、まさに今という瞬間により生み出された危険を解決する瞬間である。(ダニエル・N・スターン『プレゼントモーメント』2007年、岩崎学術出版社)

こうした「出会いの瞬間」は、ある意味では関係性を破綻させる瞬間ともなり得ます。スターンも「自然発生的な正真正銘の応答を形作り、出会いの瞬間を満たそうとする際に、障害となるもののひとつとして、まさに今という瞬間において治療者が体験する不安が挙げられる」と述べ、「不安を減少させるために最も手っ取り早い道筋は、あとずさりし、標準的・技法的な動きを隠れ蓑にしてしまうことである」としています。そして、このことにより「確かに、不安と、武器を取り上げられたという感覚は除去される」けれど、「同時に、治療は跳躍のための好機を失ってしまうであろう」と指摘しています。遊び(とりわけ突発的・偶発的な「名のない遊び」)も、そのようなもののメタファーともいえる「トリックスター」と呼ばれるような存在・概念も、こうした両義性を孕んでいると言えるでしょう。

画像1

↑4年前のレッジョ・エミリア現地研修で開催されていた親子ワークショップの様子。交互に様々な線を描き合い、その調律具合を楽しむ。ある意味で自分が描いた線を妨げることになりかねない危険を孕んでいる「今、ここ」のプロセス。その中でふと訪れる予測不可能な出会いの瞬間に、新たな関係性を構築するエッセンスが含まれている。

「怠惰」「ウツ」とは何か?

この話に関連して、遊びをデザインしている仲間が「怠惰」の意味について教えてくれました。「怠惰」と聞くと、私たちは「怠けている」というネガティブなイメージを抱いてしまいがちです。けれど、もともとの意味はそうではなく、キリスト教文化において「定められた安息日を使わずに働き続けることで、本来の自分の姿を見失うことを戒める概念」とのこと。現在流布している一般的な「怠惰」とは真逆の意味だったため驚いたとともに、先人たちが「安息日」の重要性(と共に、定期的に心を落ち着けないと「本来の自分の姿を見失う」という危険性)を見出し説いていたにも関わらず、現在では真逆の意味で捉えられていることがなんとも皮肉だなぁと感じました。

最近私は古来の日本思想を辿るべく様々な文献を読んでいます。その中で、「怠惰」、すなわち一度自分自身をからっぽにすることによって「本来の自分の姿」を取り戻すという感覚が日本文化においても大切にされていることがわかりました。それが「ウツ」という言葉です。

…ウツという語根からは、ウツロ・ウツホ・ウツセミなどという言葉が生じます。いずれの意味も「内側が刳り貫かれたように空洞になっている状態」のこと…です。ところが、このウツなるものは何かの情報を宿す力をもっている。たとえば『竹取物語』はかぐや姫が空洞の竹の中に生まれる物語です。「かぐや」というのは「かがみ」と同じ語類の言葉で「輝くもの」ということですから、何か輝くばかりの小さなスピリットが竹の中に宿ったという話です。竹の中は空洞であるはずなのにそこに輝くほどの美しさが宿ってたというのが、この物語の発端です。(松岡正剛『日本という方法』2020年、角川ソフィア文庫)

加えて、「サナギ」=銅鐸や鉄鐸の「鐸」のことであり、シャーマンの身に何かのスピリットをもたらす媒介として小さなサナギがぶらさげられていたこと、昆虫の「蛹」も中がからっぽのように見えて、そこからいずれ蝶のような輝くばかりに美しい生命が誕生すること、古代ギリシアの「プシュケー」(魂)という言葉やラテン語の「アニマ」という言葉も、蛹のような空洞に生じたスピリットのようなものを意味することが紹介されていました。さらに、こうした無と有という両極端をつないでいる現象、見えないことやマイナスから別のプラスが生まれる可能性を含むプロセスが「ウツロイ」だと述べられており、普段何気なく使っている言葉の中にある奥深さを感じました。

どこか遊びの両義性とも結びつくように感じ、だからこそ「怠惰」「ウツ」という感覚は、遊びが生まれていく上で重要なのだろうと考えました。それはもしかすると、私自身の肩書きにもしている「アンノウアビリティー」という概念、すなわち「不確かさを楽しむ・不確かさにステイできる力」とも繋がるような気がしています。

無題191

↑「ウツ」の状態で、気付いたら描いていた蝉の蛹?抜け殻?。中身がないけれど、そこには確かに生気が宿っているような気がします。いつかこうした「ウツ」観を表したツールを作ってみたいなぁと思っています。

「遊び」ではなく「戯れ」

対話の中で「『遊ぶ』というより、『戯れる』という表現のほうがしっくりくる」という話題になりました。「遊ぶ」というと、どこかゴール指向的で意味や意図が内包されており、その結果、行き着く先は予め決められた何等かの「遊び」になるというイメージがある。一方で「戯れる」は、プロセス指向的でゴールがないようなニュアンスを表している…とのこと。なるほど、確かに!と思いました。

今回のブログで「トリックスター」「出会いの瞬間」「怠惰」「ウツ」といった概念を取り上げてきましたが、これらに通ずるものとして「不確かさ」「予測不可能性」「両義性・多義性」「ある種のスロッピーさ」というものがあるように思います。もちろん定義の仕方にも拠ると思うのですが(例えば「ブレーキの”遊び”」などを意味する「余白」的なニュアンスでの「遊び」は「戯れ」が生まれる場として重要であると考えると、両者は必ずしも区別できるとは限らない)、この会において私たちが捉えようとしている現象を理解する上で、こうしたプロセス指向的で共構築的なニュアンスを持つ概念を探究していくことが非常に重要であるように思いました。

スライド25

↑「連歌」やローリーズ・ストーリーキューブズなどから着想を得て、音を使った即興物語創り遊び「音戯噺(おとぎばなし)」を昨年度作成しました。学童保育の子どもたちと遊んで大盛り上がりしたのですが、いつ遊びが破綻するかわからない不確かさに満ちたプロセスの中だからこその面白さを感じることができました。当て字にしたという理由もありますが、そういえばここでも「戯」という言葉を使っていたなぁ…!

まとめ

今回のオンラインの対話の会を通して、改めて遊び(あるいは戯れ)の奥深さを感じることができました。会に参加しているメンバーの3人に共通するのが、遊びを「パッケージ」としてではなく「現象」として捉えている点であるように思います。すなわち、ゴールありき・マニュアルありきのものを「遊び」として捉えるのではなく、常に「今、ここ」の”動き”の連なりとして捉えているのではないかと思うのです。だからこそ、対話の会自体がプロセス指向的で、崩しと創造とがダイナミックに(動的に)展開されていく。そんな時間がとても心地良い―。

今後、もしかしたら対話の会をツイキャス等で行ない、よりインタラクティブに「戯れる」場を創っていくことになりそうです。また、私個人の今後の展望としては、念願だったスマートフォン用アプリを近日中にリリースすることができそうです。これからの活動も、ぜひ応援していただけたら嬉しいです(*^^*)

最後までご覧いただきありがとうございました!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?