見出し画像

鬼は外、福は内

「暮らしは楽じゃないけど、幸せだなぁ」

これは「鬼滅の刃」の物語冒頭での、竈門炭治郎の台詞です。
鬼滅の刃には魅力的なキャラやシーンがいくつもありますが、これはその中でも特に私が好きな台詞です。

主人公の炭治郎は、炭焼きで生計を立てている家族の長男です。
父親はすでに亡くなっているため、長男の炭治郎が炭を売って金を稼いでいます。
家族は山奥に暮らしているので、炭を売るためには、麓の町まで炭を担いで降りていかなければなりません。

「雪で危ないから、無理しなくてもいいのよ」

炭を売りに行く炭治郎を見送る母親が、顔の汚れを拭いてあげながら彼の身を案じます。

「正月になったら皆に腹一杯食わせてやりたい。少しでも炭を売ってくる」

彼の家は7人家族なので、きっと炭を売るだけでは満足な生活はできないのでしょう。
炭治郎と母親のこのシーンからは、暮らしの貧しさと炭治郎の優しさ、責任感といったものが伝わってきます。

名残惜しそうにする5人の弟妹に見送られ、炭治郎は笑顔で手を振り雪の山道を降りていきます。
息を白くしながら歩く炭治郎が、しみじみと言ったのが冒頭で紹介した台詞です。

「暮らしは楽じゃないけど、幸せだなぁ」

貧すれば鈍すると言いますが、炭治郎はなぜ、こんなにもポジティブなのでしょうか?

私は炭治郎とは違うようで、「暮らしは楽なはずなのに、幸せではないなぁ」と思うことがあります。
むしろ「幸せだなぁ」なんて思うことはほとんどありません。なんなら「自分は不幸だ」と悲観することすらあります。

日々の生活に不満を抱いてしまいますし、話したこともなければ会ったこともないような人のことを、何故だか憎んだり嫌ったりしてしまいます。

炭治郎であれば、きっとそんなことはしないのでしょう。
日々の生活に幸せを感じて、むやみに人を憎むことはせず、感謝しながら笑顔で生きていくはずです。
私と炭次郎とでは、何がそんなに違うのでしょうか?

私がもし炭治郎の立場であれば、不幸ばかりを噛みしめて泣き暮れているかもしれません。
亡くなった父を恨み、貧しい炭売りの生活を憎みながら、家族を養わなければならない重責と不自由に苦しみます。
炭を担いで町に降りれば裕福で楽しそうな人々を見て妬み、惨めな自分を嘲る誰かを想像して悔しい思いをしながら、鬱々とした日々を送ることでしょう。

ただでさえ不幸ばかりを感じている状況で、ある日突然家族を惨殺されて、可愛い妹を異形に変えられようものなら、それこそ私自身が鬼のようになって怒り狂うことでしょう。

炭治郎にあって私にないものは、豊かな心なのだと思います。
豊かでない私の心は、何をしても幸せを感じることが出来ません。
言い換えれば豊かな心さえあれば、どんな状況であっても幸せを感じることが出来るはずです。

鬼は外、福は内

節分になると、邪気払いのため豆を撒いて家から鬼を追い出し、福を家の中に招き入れようとする、日本人であればお馴染みの行事があります。

子供の頃は何も考えず、漠然と「鬼は自分を怖がらせる悪い奴、福はお金をくれたりとか、自分に嬉しいことをしてくれる神様だ」と感じていました。
しかし今考えてみると、あれは「豊かな心を願う行事」だったのではないかと私は思います。

それは自分の中にいる鬼(足りない、憎い、辛い、不幸だと感じる心)を外に追い出して、福(満ちている、愛しい、楽しい、幸せだと感じる心)を内に留めるための行事です。
福を金だと勘違いして、ふざけて豆を食っていた私には、どうやら豊かな心は宿らなかったようです。
あれ、きちんとやらないとダメなんですね。

その点、炭治郎は凄いです。
あれだけ苛酷な状況に身を置いていたのにも関わらず、鬼に心を支配されることは遂に無かったし、最後まで彼の心に強く残っていたのは「福」だったのだと思えます。

そう考えると鬼滅の刃は鬼退治の物語ではなくて、「鬼は外、福は内」の話だったんだなぁと私は感じました。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?