無我の境地

赤子は人間の状態の中でもっとも愚かな状態だ・・・・・・そんなふうに考えていた時期がぼくにもありました。そんな自分が愚かだったということに気付かずに・・・・・・。

誰かの状態を見て「愚かだ」と思うことは、自分自身の愚かさを対象に投影していただけだったんだ。たとえばアリだ。自らを省みず、ただただ巣へと餌を運ぶだけのアリ。奴らは何も考えちゃあいない。本能の赴くままに、帰巣性と集団性のみを頼りにただただ長蛇の列を作っている。何と愚かな存在であろうか、笑いが止まらない。

いや、待て。

本当にアリは愚かなのだろうか?否。では彼らは賢明か?否。愚かでも賢明でもない、彼らは「アリ」だ。いや、アリという名前で区別することすらおかしい。彼らは、黒っぽかったり若干赤みがかったりしてる小さい蠢く何かだ。「ハニョ」という名前を付けても良いし、「ホニャ」でも良い、どうでも良い。

それがどうでも良い黒い変な蠢くモノと理解する人間は、どんな人間だろう?それは、赤子か、乳児だ。赤子や乳児は言葉を知らないし、経験もないので、目に映るモノが何かを判断できない。一応、何か小さくて蠢く何かが大量に居るのが目に映ると、何となく気持ち悪いという程度にしか認識しない。そして、這う乳児に成長すると、対象に興味を持ったらまず近付き、触れる。そして何となく・・・・・・口に運んでしまう。うわ、なんだこれは!?なんか口の中でもぞもぞする、キモッ!ペッペッ!・・・・・・こうして乳児は小さくて蠢く何かは口に運ぶものじゃあないと学習する。

しかし我々はどうだ、小さくて蠢く黒い何かを「アリ」などと、どこの誰だか知らん奴が勝手に付けた名前と特徴を信じ込み、たとえ実物を今までに見たことが無かったとしても、見た途端「ああアリか」で済ませて、触れもしなければ食いもしない。そのくせ「アリ」を知ったつもりになっている。

もし実物を見た時にそれが「珍しい存在」だという情報があれば、何故かありがたがって、写真を撮ったりして、SNSに貼り付けて「珍しいアイツ」を見つけた!と言って自慢まで始めてしまうだろう。

たとえば佐渡島のトキを、佐渡島以外の適当なその辺で見つけたら、これは珍しい!となって人はじっくり観察し、あるいは写真を撮るかもしれないが、それは本来何も珍しくないのだ。そいつは、ただの空を飛ぶ翼の生えた全体的に白っぽくて部分部分赤と黒が付いてる何かだ。

まだ言葉を修得していない赤子や乳児であれば、すぐにでもそのことに気付くし、興味が沸けばただ近付いて確認しようとするだろう。当然「珍しいアイツ」とは思わない。ただの全体的に白っぽくて部分部分赤と黒が付いてる何かだ。これが何とも賢いのだ。

そしてそれに近付くと、なんかわからんが凄い勢いで飛び去ったではないか。凄まじい音に凄まじい風圧。思わず泣きだしてしまった。が、すぐ泣き止む。別にそんなものはどうでも良いからだ。或いはずっと泣いたままかもしれないが、ママが来て抱っこして貰ってよしよしと慰められたら泣き止んで、安心して眠りにつく。

これが何とも賢いのだ。アイツは何のこともない、ただの空を飛ぶ翼の生えた全体的に白っぽくて部分部分赤と黒が付いてる何かに過ぎない。何の価値も無いし、何の恐怖も感じることはないし、喜ぶことも怒ることも哀しむことも楽しむこともない。我が無いので解釈も無い。そもそもそんな必要は無い。

そしてやがて乳児は、ある日突然気が付くのだ!自分が二足で立ち上がり、歩くことが出来るという無我の境地に!!嗚呼何ということだろう、自分は這うことしか出来ない存在だと思い込んでいた。しかし自分は立ち上がることが出来るのだ!まさに無限の可能性を持つ存在!その瞬間彼は正に悟ったのだ、自らが存在し、生き、考え、動く存在だということに!

だが、それは同時に、自分自身に対して「執着」というものも生み出してしまう。そして「執着」は、自らが経験し、学ぶことによって、どんどん、どんどん増えていってしまうのだ。物心ついた頃には自分は色んな事を経験し、学習し、知っている賢い存在だと思い込むようになる、或いは、何か知らんけど周りから馬鹿にされてるんで自分は馬鹿な存在だと思い込むかもしれない。

賢いと思い込んだ者はより学習を深めれば真理に到達するなどと思い込み、より学ぶようになる。それが執着を増やす結果になるだけとも知らずに。そして、馬鹿だと思い込んだ者は学ぶのをやめ、賢いと思い込んでいる者に対しルサンチマンを感じるようになる。それがただの被害妄想であり、自己への執着の始まりだとも知らずに。

そして社会に出ると、今度は上下関係などという意味不明なものまで刷り込ませられ、「上司」や「先輩」などという意味不明な存在から偉そうに命令され、その通りに過酷な労働を始めてしまう。そして生み出されたモノが必ず社会の役に立つとは限らない。作った端から捨てるモノさえある始末だ。

一体自分は何者で、何をしているのだろうか?そうやって混乱した挙句、貰える給料の少なさに愕然とし、身体や精神を消耗した結果浮かび上がる結論が「自分に生きている意味なんて無い」という悲しい現実だった。そして人間、一度は虚無主義のような何かに陥り、自己嫌悪し、世界を呪うようになる。

そこで迷いを振り切り、それでも自分には社会の一員としての役割があるのだ!と奮起する者も居れば、ああもう自分はダメだ、これ以上頑張れない。もういっそ死んでしまいたい。と思う者もいる。下手をすれば変な悟り方をして、死こそが至福、あなた方も死ぬべきだ!と妙な宣伝をし始める者まで出てくる始末だ。

そして、奮起した者もいずれは老い、病み、自分が築いてきた牙城など泡沫の幻に過ぎなかったのだと知り、自分を見失う。自分がダメだと思い込んだままの者もまた当然自分を見失い、精神疾患に罹患したりしだす。

だが、そんな中稀に気付く者がいる。

いやいや待てよ?そもそもモノの価値なんて誰が決めたんだ?自分がその基準に従わなければならない理由は何だ?

ああ、そうか!そうだったのか!その価値観はすべて思い込み、あるいは刷り込みに過ぎなかったんだ!モノの価値は自分で自由に決めて良いんだ!自分はなんてつまらないことで悩んでいたのだろうか!まだ価値を定める知識が無い小さな子どもを見ろ!彼らは一万円札など目もくれずに、自分がイイと思った玩具やぬいぐるみを、それがたとえ数百円の価値しか無かったとしても、まるでこの世で最も高価なモノであるかのように大事に抱きしめて離さないではないか!

しかしモノの価値基準を自分で定めると今度は、安物を後生大事にすれば他人からは笑い者にされるわ、自分で価値が高いと認めたものが他人にとっても価値が高いと、それを狙って盗もうとする者もいれば、嫉妬してくる者も居るではないか。

ああ、そうか!これが執着するということか・・・・・・!価値なんて言うものはどうでも良いものなんだ!価値観そのものを捨てることで、執着も捨てることができ、要らぬ雑念に捉われて、何かに怯えなければならないことも無くなるということなのか!

しかし、そこまで捨てても、自分を馬鹿にしてくる者はいるし、理由もわからないが嫉妬してくる者も居る。おいおいどういうことだ、ぼくは価値観のすべてを捨てたんだぞ?なのになぜあいつは馬鹿にしてきて、こいつは嫉妬してくるんだ、ようわからん!

そこで最後の砦が待ち構えている。

選択肢
1.人里離れて引きこもって暮らす
2.自分自身をも捨てる

1を選択すると、なんだかすごく面倒で、しんどい。なんか買い物一つするのも大変だし、っていうか何だったら金が無い。

2・・・?いや待ってくれw自分は自分だろう、自分を捨てるなんて出来ない。自分を愛さなければ他人も愛せないってよく言うじゃないか。

メニューコマンド→アイテム→自分→捨てる  と選択すると、自分の中にシステムメッセージが流れてくる。

「それをすてるなんてとんでもない!」

だが!なんとそこで何をトチ狂ったのか、キッパリと自分を捨てる奴が中には居るのだ!そして彼は、自分自身という檻から抜け出し、自由になる!これが悟りの正体だった!

自分を捨てても自己は認識でき、他者を愛し慈しむこともできる。楽しいことを見出して楽しむことも出来れば、美味しいものを食べて満足することもできるし、他者と語らい笑うこともできる。自分を捨てても相変わらずクオリアはそこにあり、自分の好きなようにモノを解釈し、判断し、価値をつけることが出来る。

そして執着が無いので、他人にこき下ろされて気になるなら価値観を捨てることも、いとも簡単にできるし、自分の主張した意見すら捨てることが出来、そして相手の意見を無条件に受け入れることも出来る。そしてヒトは、自分の意見を受け入れて貰えると単純に嬉しい。否定されれば悲しい気持ちになる。そこに責任なんて無かったのだ。

だから意見を無条件で受け入れて貰えるなら、受け入れてくれた人を好きになる。こうやって絆も生まれ、情や愛も芽生えるのだ。

ただ自分を捨てるというだけで、すべてが好転し、世界が一転する。世界が自分を愛してくれるようになるのだ。そう、自分自身というエゴこそが最大の敵であり、自分の幸せを奪う恐ろしいサタンであったのだ!自分自身というサタンさえ打ち破れば、世界という神に愛されるのだ!

それを知った、ゴータマシッダルタは自らのサタンを打ち破り、悟りの境地へ達した。ゴータマシッダルタの弟子ナーガルジュナは師の悟りの知恵を受け継ぎ、何とか人々に伝えようとした。そして仏教思想が生まれた。

イエス・キリストもまた自らのサタンを打ち破り、悟りの境地へ達し、弟子たちに教えを説いた。教えを受けた弟子たちはイエスの死後各地へ散り、何とか人々にその知恵を伝えようとした。そしてキリスト教が生まれた。

そして、ゴータマシッダルタやナーガルジュナの時代から2640年余り、イエスの時代から2020年余り、現代人の心は未だ彷徨い続けている。が、悟った者はいつの時代も一定数居る。

自分という殻をぶち破り、自由になりましょう。それが自分自身を幸福にし、他者をも幸福にするのです。


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