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父と子のパピコ【甲斐大和→松本 120km vol.06】

6月中旬の土曜日に健太郎のサッカーの試合があり、カミさんと二人で応援に行った。
健太郎は左のサイドバックだ。父親に似てあまり器用ではないが、スタミナはあるし足もそこそこ速い。繊細なボールタッチは望むべくもないがドリブルでの突破力はある。自陣から相手陣内へ、相手陣内から自陣へ、試合中はずっと走っていた。
後半の試合開始直前、観客の中から健太郎の名前を呼ぶ声がした。そちらを見ると女の子三人組が健太郎に向かって大きく手を振っている。健太郎が気がついて手を振り返した。それを見て思わずカミさんと顔を見合わせた。
「隣のクラスの女の子たちよ。名前は確か……」
そうか。そろそろそういうこともある年頃なのか。よし、健太郎。ここでいいところを見せろ。

2対2でタイムアップ直前、相手陣内深くまで走り込んだ健太郎にパスが渡った。ぎこちないトラップから健太郎はゴール前にセンタリングを上げた。敵味方入り乱れたゴール前の混戦。味方チームの選手が強引にシュートしてゴールネットが揺れた。
私たちは思わず立ち上がった。チームメイトに走り寄った健太郎がゴールを決めた選手とともに皆に頭を叩かれている。そしてそのままタイムアップ。観客席に歓声が広がった。
相手チームのメンバーと握手をした後、健太郎たちが観客の前に整列して頭を下げた。健太郎は私たちに気がついて小さくガッツポーズしてみせたあと、先ほどの女の子たちにも手を振っていた。

「いつも『女の子なんか興味ない』っていう素振りだったのに」
試合に勝ったことより、カミさんはそっちのほうが興味津々で嬉しそうだ。
「もしかしたら健太郎はモテるのか?」
「どうかしら。女の子の話なんて一度もしたことなかったから、ちょとつまらないなあって思ってたのよ。そのうち家に連れてきたりしないかしらね。お母さんが品定めしてあげるのに」
「おいおい」
私は苦笑する。カミさんは恋愛については世話焼きロマンチック体質なのだ。こっちはこっちで、この先、健太郎は苦労しそうな予感がある。

7月に入り梅雨空のさえない天気がずっと続いていたが、九州では梅雨明け宣言が出された。もうすぐ東京も明けるだろう。健太郎は一学期の期末試験の最中だ。しかしそれも週明けで終わる。
今日は土曜日、カミさんは買い物に出かけている。リビングで本を読んでいると健太郎が二階から降りてきて、キッチンで水を飲んだあと所在なげにしている。横目で見ると目が合って、健太郎が意を決したように口を開いた。

「あ、あのさ……」
「ん? どうした?」
「夏休みになったらまた自転車で松本に行こうかなって思って……」
「お、いいぞ。でも父さん、いつ休めるかまだはっきりしてないんだ」
「いや…… 今度は一人で行ってみようと思って」
私は読んでいた本から顔を上げて健太郎を見た。健太郎は視線をそらす。
「父さんと一緒に行くんじゃなくて、一人で行きたいってことか?」
言葉の真意を測りかねた。
「父さんと行くのがいやとか、そういうことじゃないから」
「なにか他に理由があるのか?」
そう言うと健太郎は黙り込んでしまった。ずっと黙っているので「どうした?」と促すと「篠田さんに会いに行く」と、ぼそっと言った。

「えっ、どういうことだ」

驚いて耳を疑った。健太郎の言っている意味がわからない。なんで健太郎が彼女に会いに行く?

「篠田さんにひとりで行けるって言っちゃったから……」
「ちょっと待て。意味が分からない。どういうことだか説明してくれ。なぜおまえが篠田さんに」
「夏休みになったらまた松本に来ないのって聞かれて、行くっていったら、来たらまた自転車に乗らせてねっていうから」

(………… あっ!!)

突然、健太郎の言っていることの意味がわかり、思わずソファから腰を浮かせた。

(あの娘のことか!)

健太郎の言っている「篠田さん」というのは篠田美代子ではなく彼女の娘のことだ。健太郎は篠田美代子の娘に会いに行くと言っているのだ。
なぜだ。なぜそんなことになった。私は愕然とした。次の言葉が出てこない。健太郎はバツが悪そうな顔をしてキッチンカウンターの横に立っている。

(まさか…… 親子二代で片想いか)

一瞬止まった息を吐き出すかのように、私は深くため息をついた。そして浮かせた腰をソファに沈めた。なにがどう繋がるとこういう話になるのだ。

「ちょっとこっちに座ってどういうことなのか順番に説明してくれ。名前は夏希ちゃんだっけな」
「うん」
健太郎はゴールデンウィークの出来事から今までに何があったのか説明した。話はこうだ。

あのコンビニで撮った写真を健太郎のスマホから彼女宛に送ったことで、健太郎と篠田夏希は図らずもお互いの連絡先を知ることになった。その後、彼女から写真のお礼とロードバイクについての質問が送られてきたのだと言う。彼女はロードバイクに興味を持ったのだ。

乗り方、走るとどんな気分なのか、パーツの名前、値段、売っている場所…… 彼女から質問が送られてくるたびに、健太郎は自転車雑誌を見たり、私に聞いたりしてその問いに答えた。そして「また松本に来たら乗らせてね」と言われて「夏休みになったらすぐに行く」と返事したらしい。しかも「お父さんが一緒じゃないと無理だよね」と言われて「一人でも行かれる」と答えたというのだ。

「あの…… 彼女のお母さんも歓迎すると言ってくれてるって」
なんということだ! すでに篠田美代子もこのことを知っているのか。ああ、もう彼女はなんと思っているだろう。また私は頭を抱えた。この親にしてこの子ありと思っているだろう。よりによって彼女の娘とは。
健太郎、お前の学校にだって可愛い女の子はいるだろうに。ほら、サッカーの試合の時に応援してくれていた女の子は可愛かったじゃないか。あのコたちはどうしたんだ。

「あと、篠田さんのお母さんから僕と父さんに伝言というか… 」
「えっ? なんだ?」
「篠田さんのお母さんが『ちゃんと相談すれば健太郎君のお父さんは絶対反対しないはずだから大丈夫』って言ってたって」
私は絶句し、そのあともう一度深くため息をついた。篠田美代子も娘からこの話を聞いたときにはきっと驚いただろう。でも彼女の言うとおりだ。私には反対ができない。

まったく、健太郎よ、そんなところまで「父親の背中」を見なくていいんだ。父親と同じ失敗を繰り返すことはない。

…… いや、違う。
少なくとも健太郎は私のときのような一方的な片想いではない。篠田夏希は健太郎のことを待っていてくれるのだ。父親のときよりずっと条件はいい。
篠田美代子がくすくす笑っている顔が思い浮かんだ。もしかしたら彼女は私のこんな葛藤まで予想して、この出来事を面白がっているんじゃないか? そんな気がしてきた。

私はもう一度ため息をついた。もう観念するしかない。
「よし、わかった。このことは父さんから母さんに説明するから、とりあえずおまえはなにも言わずにおけ」
「うん、わかった」
「細かいことはまた相談しよう」
「うん」
健太郎はホッとした様子で頷いた。
「あのとき撮った写真はまだ持ってるのか?」
「うん」
「ちょっと見せてみろ」
健太郎はスマホを取りだしアルバムを開いた。
「これ」
スマホを受け取って写真を見た。健太郎のバイクに跨がりヘルメットを被った篠田夏希が笑っている。
可愛い女の子だと思う。それはそうだ。かつて私が恋をした女の子に瓜二つなのだから。
「可愛いコだったよな」
「うん」
まるで自分の彼女が褒められたかのように健太郎は嬉しそうに笑う。健太郎、それはまだちょっと気が早いと思うぞ。

一学期が終わり、夏休み最初の土曜日、健太郎と私は甲斐大和の駅にいた。ゴールデンウィークのときと同じく、スタートは笹子トンネルの向こう側のこの駅だ。暑くなる前に少しでも距離を稼いだほうがいいので朝早くにここまで輪行で来た。
この小さな駅が自分の人生で重要な場所になるなんて思いも寄らなかった。私はここで健太郎を見送って折り返しだ。健太郎は輪行袋を開けてバイクを組み立てている。練習したと言っていたが随分手際が良くなっている。

カミさんには健太郎が一人で松本まで行くことを「大人の階段を登る健太郎の第一歩」的な話で納得させた。純粋に心配もしていたのだが、一度、私と一緒に走ったコースだし、今の健太郎なら大丈夫だと話した。もちろん篠田夏希に会いに行くのだということは、私と健太郎だけの秘密だ。
いっその事、松本まで輪行で行ってしまえばいいのではないか。そんなふうにも一度考えたのだが、それでは意味が無いのは分かっていた。会いたい人がいる。その人に会うために自転車で走る。それは何物にも代えがたい体験だということを私は知っている。

バイクを組み立て終わった健太郎は輪行袋を畳みデイパックに仕舞った。ゴールデンウィークに走った時のコース、つまり一番安全なコースのデータは健太郎のスマホに送ってある。間違えやすい交差点をチェックした紙の地図も渡してある。甲斐大和を起点にした要所要所までの距離を書いたメモを健太郎はハンドルに貼っていた。

「じゃあ、気をつけてな」
「うん」

いつも後ろを走っていると思っていた息子が、ある日、こうやって自分の背中から離れて一人で走りだす。その姿を見送るのは悪くない気分だ。しかもこのコースで、だ。

「行ってきます」

駅前から甲州街道に向かって健太郎は坂を下っていった。
この物語は繰り返されたのだろうか、それともずっと繋がっていたのだろうか。いや、どちらでもないな。これは私の息子の新しい物語なのだ。健太郎の後ろ姿を見送りながらそんなことを考えた。

日が傾きかけた頃、健太郎から「着いた」とメッセージが届いた。メッセージには写真が添えられていた。ヘルメットを抱えぎこちなく笑う健太郎と、その横で満面の笑みでピースサインをする篠田夏希。この写真を撮ったのが誰なのかは言われなくともわかる。

(おわり)

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