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父と子のパピコ【甲斐大和→松本 120km vol.01】

 少し勾配がきつくなった急カーブを抜け、その先にある広い自販機コーナーで脚をとめた。廃業というかすでに廃墟になりつつあるこの自販機コーナー。私が東京〜糸魚川ファストランを走っていた頃は、よく参加チームがここにサポートカーを駐めて臨時のエイドステーションにしていた。今でもそうなのだろうか。スタート地点が高尾山口から山梨県内に変わってから、あのイベントにはずっと参加し損ねている。
 そんな思い出に浸っていると後ろから健太郎がやって来た。自販機コーナーの少し手前で最後の力を振り絞るようにダンシングをして、あとは脚を停めて惰性で滑り込んできた。

 「すごいな。上から見ていたけど、さっきの休憩から一度も足をつかなかったな」
 
そう声をかけると肩で息をしながら一瞬白い歯を見せて笑ったが、すぐにここ最近の仏頂面に戻ってしまう。別に機嫌が悪いわけではないのだ。親の前で無邪気に笑ったりはしゃいだりするのがちょっとカッコ悪いと思っているのだろう。そういう年頃なのだ。息子はこの春、中学二年になった。
 「もうちょっとで下りになるから諏訪湖まで行って飯にしよう」
 背中を向けてボトルの水を飲んでいた健太郎が首だけ振り返って頷いた。あと三キロくらいで富士見峠を越える。峠と言ってもたいした上りではないのだが、ここまでだらだらと三十キロくらいずっと緩い上りが続いている。この辺りが最後の勾配のきつい場所だ。富士見峠を越えてしまえば、しばらくは下り基調だ。諏訪湖までは二十五キロほどあるが、健太郎が一緒でも一時間もかからずに着けるだろう。

 このコース、もう何十回も私は走ったことがある。東京から国道二十号、甲州街道をひたすら走る。私一人なら自宅からずっと走ってくるのだが、今回は健太郎が一緒なので都内から甲斐大和まで輪行した。甲斐大和はちょうど笹子トンネルを抜けたところにある中央本線の駅だ。
 笹子トンネルを健太郎に走らせるのは無理がある。大型トラックが常時行き交っている路肩も殆どない四キロの狭いトンネルだ。かといって旧道で笹子峠を越えることは健太郎の脚ではさらに難しい。甲斐大和まで輪行してしまえば目的地の松本までは約百二十キロ。その距離ならば今の健太郎でも無理なく走れるだろう。それでも富士見峠、塩尻峠という二つの峠を越えることになる。今いる辺りでちょうど道程の半分ほどだ。
 松本は私の生まれ故郷であり、中学二年の春まで住んでいた街だ。今でも親戚や旧い友人が松本にはいる。両親の転勤で東京に引っ越して以来、再び住むことはなかったが、ここ十年くらいはこうやって時々自転車で里帰りすることが私の年中行事となっている。健太郎を伴っての自転車での里帰りは初めてだ。

 「少し食べておくといい。諏訪湖まで行ったら昼飯にしよう」
 途中のコンビニで買ったどら焼きを千切って健太郎に渡し、自分も少し食べた。
 「諏訪湖までまで行けばうまい蕎麦屋もあるし、塩天丼とかみそ天丼とかもあるぞ」
 「ハンバーガーとかでいいよ」
 「まあ、着いてから考えればいいさ」

 十五分ほど走って富士見峠と書かれた歩道橋をくぐり、道は下りになった。暫くは右手に中央本線が併走している。茅野の手前まで行ったら一旦国道二十号から外れて県道十六号に入り、諏訪大社上社を経由して諏訪湖の西岸に出る。
 速度を少し抑えて三十五キロくらいで下る。振り返ると健太郎は下ハンドルを握って後ろから着いてくる。サイクリングウェアでヘルメットを被ってサングラスをしたその姿は、いっぱしのロードバイク乗りに見える。

 私がこのコースを初めて走ったのも、今の健太郎と同じ中学二年の夏だった。今にして思えば、両親がよく一人で松本まで行くことを、しかも自転車で行くことを許してくれたものだと思う。今の自分なら、健太郎が同じことを言い出したら止めているだろう。

 両親は私が何かをやろうとしたとき、どんなことでも頭ごなしに「まだ早い」とか「おまえには無理だ」と言うことはなかった。なぜそれをやりたいのか、実際にどうやってそれをやろうとしているのかを聞いた。そして私の考えが至らないところは指摘し、代案を考えさせ、本当にその時の私には無理がある部分は論理的に説明し止めるように諭した。多感な時期の両親とのそういったやりとりが、その後の私にどれほど役に立ったか。この点に於いて、私は両親に心から感謝している。そして両親が揃って自転車好きであったことにも。
 あるメーカーの開発部門に勤めるエンジニアだった父と、地元の中学の英語教師だった母。ごく普通の人だった両親が、自分の子どもをなぜそんな育て方をしたのか、なぜ私のことをあれほど信じてくれていたのか、自分が父親となった今、不思議に思うこともある。もしかしたら二人が育った信州という土地柄も関係しているのかも知れないとも、ふと思う。一度、ゆっくりと子育ての話を聞いてみようと思っていて何年も過ぎてしまった。それでも私は両親が私に接してくれたように健太郎に接しようと無意識に努力している。

 茅野を過ぎて途中で諏訪大社に参拝した。この道程の私の恒例行事だ。ここに来ると厳かな気持ちになる。
 「ここはなんの神様なの?」
 「軍神。戦の神様だな。試合のことをお祈りしておくといいかもしれないぞ」
 そう言うと健太郎は目を見開いて、そのあと神妙な顔をして長い時間手を合わせていた。サッカー部の試合が来月あるのだ。健太郎がレギュラーになって最初の試合だ
 参拝を終えてしばらく走ると前方に諏訪湖が見えてきた。やがて道は湖岸となり右手に湖を眺めながら暫く走り、目星を付けておいた蕎麦屋で少し遅い昼食をとった。
 ゆっくり食事をしたあと、湖畔を少し走ってから、次の難所、塩尻峠に向かった。諏訪盆地と松本盆地をつなぐ峠だ。ここさえ越えてしまえば、あとは松本まで下りになる。松本側からは結構きつい登りだが、諏訪側からはそれほどでもない。
 相変わらず健太郎は怒ったようなふくれっ面をしてあとを着いてくる。それほど勾配がきついところはないのだが、相変わらずだらだらと上りが続く。私自身もこういう上りはあまり好きじゃない。休日なのでそれほど交通量は多くないが、そのかわり時々大型トラックが猛スピードで横を通り過ぎていく。路肩は余裕があるので左に寄って一定のペースでゆっくり上った。

 途中で振り返ると健太郎が停まってボトルの水を飲んでいる。
 「ゆっくりでいいぞ」
 そう声をかけると、ボトルをくわえたまま健太郎がうなずいた。
 「このくらいの坂でダンシングするときは、あまりハンドルに覆い被さるような前のめりの姿勢じゃないほうがいい。もう少し腰を引いてお尻がサドルの先端にちょっと当たるくらいの感じで」
 そう言って中勾配でのダンシングのお手本をやってみせると、健太郎はポジションを変えてダンシングしながら私を追い抜いていった。なかなか飲み込みは早い。

 少しのんびりし過ぎたせいで、松本の市街地に入った頃には日が傾きかけていた。サドルの下のテールライトを手探りで点けたあと、フロントのライトに手を伸ばした時、ハンドルにガタンと衝撃があった。路面の小さな段差に気がつかなかったのだ。その拍子に手のひらでライトを思いっきり叩いてしまった。あっと思った時には台座から外れたライトが後ろに転がっていった。右手を挙げて後ろに合図をし、路肩に停まって振り返ると、数十メートル後ろで健太郎が落ちたライトを拾って掲げた。
 「落としたよ、これ」
 「ああ、ありがとう」
 傍らに来た健太郎からライトを受け取って台座に付けようとしたが、台座が割れてしまっていて付かない。
 「まいったな」
 「割れちゃった?」
 いつもならこういったトラブルのためにビニールテープを持っているのでそれでとりあえず固定すればいいのだが、今日に限ってうっかり持ってない。
 「どっかにコンビニがないかな」
 「どうするの?」
 「ビニールテープを買ってそれで固定する」
 少し先の交差点まで行って、コンビニがないか左右を見渡していると後ろから名前を呼ばれた。
 「坂上君……?」
 聞き覚えのある声の記憶。はっと気がついて息が止まりそうになった。聞き間違えるわけがない。私はゆっくりと振り返った。

 そこには篠田美代子が二人立っていた。

(つづく)

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