見出し画像

トルストイのリアリズム?: 「アンナ・カレーニナ」 II レフ・トルストイ

(写真はサンクトペテルブルクとロシアの風景)

ロシア文学を読んでも、涼しくはなりませんね。
極寒の冬の描写に期待したのですが、効果なしです。
わたしの頭の中のロシアでは、せっせと汗を流して農作業が行われていて、涼しいどころではありません。

画像1

「戦争と平和」の時代は貴族たちの第一外国語はフランス語でした。

時代がくだった本作では、フランス語がまだ主流ながら、プラス英語になっているのがわかります。
親と小さな子がフランス語や英語で話す場面もありました。
言語は覇権と密接な関わりがあります。
帝国ロシアにおけるイギリスの存在感が増した、というわけですね。

さて、第3部(第2巻)

リョーヴィンは貴族であり農業経営者ですが、自ら畑に出て農民と共に農作業をするという、おそらく珍しいタイプの人です。

彼の長兄コズヌイシェフも田舎を愛する人ですが、貴族然とした考えで、休む場所であり、自然を満喫し都会の喧騒を逃れるオアシスとしての田舎が好きなのです。
もちろん農作業などしません。

一方で、長兄は「農民」に対し一種の崇敬の念を持っています。
農民を清いもの、として見ています。
しかしリョーヴィンは農民の悪い面ともつき合って生きていますから、憎々しく思うこともあるわけです。
農作業を共にすることで、彼らに対する敬意を持ちもしています。

崇めもしないし、蔑みもしない。

この姿勢は差別と深く関わることです。

被差別者、民族や障害などによって差別される人たちを善として、特別な目で見ることも差別です。
絶対的善なる人というのはいません。
生まれながらにして尊い存在というのも存在しません。その人の属性(属性を決めることが差別の根源ですが)が人格を保証することはないのです。
血筋なんていうものにもまったく意味はありません。
誰かを尊く、ほかの人間とは違ういう考えは、その人に対する差別です。
また、そういう存在を認めるということは、その人以外の人たちは皆、下等と認めていることになります。

誰のことも特別視しない、上にも下にも。

難しいことです。
心にある差別的な発想はゼロにはなかなかならないので、自分を疑わないとダメだなぁとしばしば思うのです。

画像3

リョーヴィンの人としての農民の見方は、トルストイが示した人に上下をつけない優れた発想だと感じました。

さらに優れていると思ったのは、このリョーヴィンが教育の意味や意義についてはとても保守的な考えを持っているという点です。

農民たちと一緒に働くことでなぜ彼らが新しいやり方を嫌い古いものに固執するのか、リョーヴィンは考えます。

そんな折に新式の農機具を使い、経済的に成功している独立した農民に出会います。
その一家のことが頭から離れない彼に、多少期待したのですが、彼は進歩的農業ではなく、レベルを下げればいいのだという結論に達します。

農民に対して階級の違いで下に見ないリョーヴィンが、一方では学ぶ機会を得ることで彼らが進歩したり、優れたものを受け入れらるようになるとは考えられない。
それをわかっている貴族と出会うのですが、そこまでは進歩的に考えられていない第3章です。

リョーヴィンにこの二つの対立し得る考えを持たせているのが素晴らしいです。
さげすまないことと、進歩し得る存在=自分たちと同じだと考えることは、別の問題なのですね。

トルストイのリアリズムなのかなと思いました。

「アンナ・カレーニナ」の恋愛小説というイメージは、早くも崩れました。
この時代のロシアやトルストイの思考のわかる、リョーヴィン側のおもしろさが圧倒的です。

画像2


サポートいただけました場合は、書籍、資料、語学文献に使用し、情報として還元いたします。 心より御礼申し上げます。 今後ともよろしくお願いいたします。