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言葉は大切なようで、大切じゃないって言いたい

言葉がないと不自由か?



やっていることと言っていることが違っている。
混乱する。
あまりにも言葉を頼りにしすぎると、行動と違ったときに「ん?」ってなる。
それは、ツンデレと言われる時もあり、不信感が芽生えるときでもあり。

うちのお母さんは明らかにツンデレ。
俗にいう分かりやすい母親ではない。
「頑張ったね。」「偉かったね。」「あなたのことが大切だよ。」
が、言葉にはできない。
(本人はおそらく自覚していない)
それはそれは、子どもながらに友達の優しいお母さんが羨ましかった。
親子のようで友達のような関係が、なんでも話せる関係性が羨ましかった。

何か話すと、否定から入る。
(それは、私のことが心配だから。)
(本当に、本気で考えているのか試しているから。)
何か話すと、疑いから入る。
(それは、大切な我が子を守りたいから。)
(社会の恐ろしさを知っているから。)

今では、お母さんなりの愛で守っていてくれたことが分かる。
浅いかもしれないけれど、社会を経験して口うるさく言っていたのがわかる。

言葉では、否定的で、疑い深く、嫌味な人かもしれないけれど、
何かあったときに駆けつけられるように、家にいる時間を確保してくれていたこと。
必ずご飯を作ってくれていたこと。
必ずお弁当を作っていてくれたこと。
帰りが遅かったら部屋を明るくして待っていてくれたこと。
帰りが遅かったら、叱ってくれたこと。

親としては当たり前だろうという人がいるかもしれない。
けど、それができない人が世の中にいることを知った。

自分のことしか考えることのできないものにはわからない。
からだはおとな、こころはこども
状態の中途半端な自分にはわからない。
(逆コナン。コナンくんと同じレベルにすな。)

行動を見たときに腑に落ちる。
できれば、言葉と行動が一致してほしい。
それは自分にも言えることなのに。

お母さんと反対の人もいる。
言葉では調子の良いことを言い、行動が伴っていない。
自分の機嫌で対応が変わる。
いくら、物をもらっても、調子良く話しかけられても、
「この人はこういう人なんだな」という、
それ以上でもそれ以下でもないという線引きになる。

心に思っていることは表現されている


言葉にしなくても、伝わる。
そんなことは周知の事実のはずなのに、
ついつい言葉に頼ってしまう。
言葉で繕ってしまう。

生まれたての赤ちゃんと接するとき
動物たちと接するとき

共通言語はないはずなのに、分かる。
大切にしてくれる人だっていうのが分かる。


自分の思考を残すには、相手に伝えるには、
やはり言葉が必要になってくる。
広く、不特定多数の誰かに届けるには、
自分のことを知らない誰かに届けるには、
より多くの言葉や、言語が必要となる。

こんなことを考えていますよ。
こんなふうな人ですよ。

いくら言葉をキレイに並べても
その人が普段からどのように考え、何を大切にし、
根本ではどう思っているのか。
文章を見ればわかってしまう。


心で感じたことを表現する。
そのためには、現時点で言葉が大切。
でも、それは、表現する一端をになっているに過ぎない。
どんな形でもいい。
絶対に分かるよ。
そのときじゃなくても、今じゃなくても。
あの時の自分へ、今の自分が
タイムスリップして伝えてあげているように。

「大丈夫。大丈夫だよ。」って。

大きな大きな、愛で包まれて生きているっていうことを
過去の出来事が積み重なって今の自分を
支えているっていうこと。

それをこうやって証明するにはやはり、
言葉は必要かも。
心がしっかり言葉に乗るように。
大切に大切に、扱っていきたい。

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