こころの相談窓口で人生崩壊した話

「死にたい」とか「自殺」とか、最近はそんなワードを検索しただけでも「こころの相談窓口」みたいなものが出てくる。随分とそういったものにアクセスしやすくなったと思う。
 もう十年ほど前になる。私が中学生のときは、名刺サイズの、連絡先が書かれた小さな紙が配られた。
「困ったときに相談を」
「秘密は必ず守ります」
 この言葉を馬鹿正直に信じて、最後の希望だと縋った子どもたちがどれほどいたのだろうか。
私は、追い詰められた先でこの大人を信じてしまったことを今でも後悔している。

 私の家は、転勤が多いもののしっかりとした専門職の父と母のおかげで、比較的不自由のない家庭だった。
 しかし、それは取り繕ったものであった。子供のような見栄によって外面だけキレイに整えられた家。父は不機嫌になると台風のようになり、ナイフを振り回したり家の壁を壊したりする人だった。
 母は常にそれに怯え、日々の不満を私にぶつけた。暴力こそ振るうことはなかったが、父にされたモラハラ、夜の生活に関することまで事細かに話され、それは着実に私の心を蝕んでいった。
 内側はこんな惨状にも関わらず、父は学校のPTA会長をつとめるほどアクティブだった。否、世間体の為ならばどんなことでもする人だった。
 だから私は、学校の先生でも友達でもない、見ず知らずの誰かに話を聞いてほしかったのである。

 学校で配られた、心の相談窓口。そこにメールで、現状と今の気持ち…「死にたいと思っている」と送ったのだった。

 死にたいと言う人は死なない、なんてことを言う人がいる。多分万人に理解してもらうことはかなわないと思うが、私は当時、ほんの少しの衝撃で死んでしまいそうだった。
 常に胸が苦しい。痛い。
痛い痛い痛い
頭が痛い時、拳で眉間をぐりぐりしたことはないだろうか。
痛みを紛らわすために痛みが欲しくなる。
腕のあちこちをつねったり、わざとぶつけてみたり、
刃物で切りつけてみても、だめだった。胸の痛みは消えなかった。
ずっと痛いくらいなら死んでしまいたいと思った。それだけの理由だった。

一週間ぐらい経って、窓口から返信が来た。
「元気を出して!私達がいるよ!」
みたいなありきたりな文章に、少しがっかりした。

 しかし、地獄はこれからである。

とある日の夜、両親が家を空けた。
学校に両親が呼び出されたのである。
何の冗談か、こころの相談窓口が私の相談内容を学校と両親に伝えてしまったのであった。

自室にこもって、私は静かに泣いた。母がドアを開けようとする音がする。ドアの前には椅子などを念入りに置いてバリケードを作っていた。
喉が焼けるように熱かった。
「放って置いて」と叫びたかったが、口がパクパクと動くだけで声が出なかった。声にならない悲鳴を上げながら、私は喉を抑えてのたうち回った。
「秘密を守る」とは何だったのか。
窓口の連絡先の紙は、ビリビリに破いて捨てた。

 それからしばらく、私は声が出せなかった。家でも学校でも。不思議なことに、人間は丸一日人と会話しなくても生活が成り立つ。あのとき私が声が出せなかったことを知っている人はいない。親は、このときのことを「反抗期」だと思っている。

一度壊れた心は多分二度と治らない。セロハンテープでベッタベタに修復したものを何とかそれらしく見せて、普通の人間らしく振る舞っている。

今、私は普通に働いているし、冗談を言い合っては友人と笑っている。それを見て人は元気そうじゃん、という。

だが、実際はメンクリに通ううつ病持ち女だ。話そうとするとき、今でもたまにあの喉の痛みが襲ってくる。言葉が出ない。頭の中では色々考えているのに、それが出てこない。

あのとき、もしこころの相談窓口とかいう何も考えていない団体に連絡しなかったら、もう少しまともに生きられたかもしれない。
なんて、しょーもない妄想をしながら私は日々を過ごしている。

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