かわいそうな母の話。

 一年前、色々あって(色々の話はまた別で書きたい)「もしかして、理想のお母さんだと信じていた我が母は、理想どころか重度の毒親だったのではないか」と思い至った。我が母は、一見良妻賢母に見えるところがタチの悪い「至れり尽せり母」「自己愛母」タイプ(※)。対する私は、そんな母の期待に応えて「自慢のいい子」「評判の良い優等生」を必死で務めてきたタイプ。典型的な共依存母娘の組合わせである。
(※毒母のタイプ分けについては、高橋リエさん著の「お母さん、私を解放して!」をご覧いただきたい。初めて読んだ時、図星の部分が多すぎて首がもげそうなほど頷きながら読んだし、気持ちが救われる部分も多々あったので、おすすめです。)

 自分の母を、“毒”と思うのは勿論すごい罪悪感だったが、自分の考え方や対人関係の悪い癖について、その因果を理解できるようになった結果、毎日毎日「死にたい」「消えたい」と思ってしまう不幸が98%軽減された。

 しかしそれでも、自分のことを掘り下げて考え込んでしまう時、私の思考は未だに必ず母に行き着く。勿論、心に余裕がないときはひたすら自分が可哀想なのだが、今回は初めて、「可哀想なのは私だけではなく、やっぱり私の母も可哀想な被害者なんだ」と、しみじみ思えた。ので、今日の記事はその備忘録である。

 私の母は、4人兄弟の末っ子だった。母の父母、つまり私の祖父母はともに薬剤師で、小さな薬局を営んでいた。4兄弟を全員私大に通わせるほどだったのだから、周囲と比べて相対的に裕福な家庭だったに違いない。
 しかし母曰く、子育て中の祖父母は「医歯薬か弁護士でなければ職業として認めない」という、かなり偏った、侘しい思想の持ち主だったらしい。そして、祖父母の願い通り上の兄弟たちが揃って医歯薬の道に進む中で、母だけは、一浪の末、文系の短大に進学した。
 母が浪人生だった冬、祖母は母の部屋に上がって来て
「もう文転してもいい、と父が言っている」
と言って泣いた。母は、あぁ、自分は両親に諦められたのだな、と思ったそうだ。
 この話を母から聞いたのが、自分が何歳の頃だったか覚えていない。

 上の兄弟が無難に両親の期待に応える中で、自分だけ勉強ができない、期待に応えられない、というのはよほど辛かったろう。

 母の母、すなわち祖母はどんな人だったのか。
 彼女は一言でいうと才女だった。
 両親の大反対を押し切って給付型の奨学金を勝ち取り、旧帝大の薬学部に入学するほどの胆力のある人で、本来、そもそも“妻”とか“母親”とかいう役職には全然向いていなかったのだと思う。でも、「女は年頃になったら家庭に収まって、3歩下がって夫を支えて子を産むもの」という時代の要請に従って、向いてないながらに、必死で“糟糠の妻”、“良妻賢母“を演じていたのだ。しかも、祖父はかなりの道楽者だったので、薬局と家計のやりくりは祖母の細い肩にずっしりのしかかっていた。祖母が寝る間もなく働いて、育児や家事については家政婦さん頼みになってしまったことも、いささか仕方がないことのように思う。
 母にとっては、祖母は“冷たい母親“としか思えないのだろうが、祖母は祖母で、立派に時代の犠牲者なのだと思う。(このように、昨今の毒母問題は男尊女卑文化とも非常に強い相関を持っていると思うのだが、そのことはまた別の機会にじっくり考えたい。)

 ともかく、私の母は、“母の愛”に飢えたまま大人になったのだ。自分の母親を反面教師に、愛情を無限大に注ぐ子育てを実践した。
 一方で、母は割と祖父を慕っていたが、それはあくまでも“母の愛”をくれなかった祖母への当てつけだったのだろう。祖父を慕いつつも、それに相応しい暖かい思い出話は一切聞いたことがない。私が唯一聞いたことのある祖父のエピソードは、祖父の不倫をきっかけに、祖母が怒って家を出て行った時の話だ。
 あろうことか、祖父は娘である我が母に対して、
「母さんは出て行ってしまったのはお前が悪い子だからだ。電話で謝って帰ってくるようにお願いしなさい」
と嘘を吹き込み、母に泣きながら電話させ、なんとか妻を帰宅させた、という最低最悪のエピソードだけである。(そんなゲロエピソードがあってもなお、母は「お父さん大好き!」なのだ、いやはや毒親問題の恐ろしさを垣間見る瞬間である。。そして、やっぱりこういうエピソードをペラペラ未成年の娘にくっちゃべってしまう母も母である。わたしゃこんな話聞きたくなかったよ…)
 ちなみに、私は昔から祖父のことがなんとなく苦手で、母方の実家にはいっそ寄り付かない子供だったのだが、物心ついてから聞いたところによると、幼少期に私が生意気を言って祖父にぶたれたことがあるらしい。気に入らないことを言われれば、相手が幼少の孫であっても平気で手をあげる。
 当然のことながら、私はしっかり祖父が好きではない。

 最近母とランチした時、「小学生くらいの時から、お母さんはずっと死にたいって思ってたのよ。でも、自分が死んだら両親が喜ぶと思ったら悔しくて、生きよう!って思ったの」というトンデモエピソードがポロッと飛び出てきて、祖父母の毒の特級レベルに改めておったまげた。(そして、これまたそんなこと娘に言うなっつーの。)

 私自身が母の期待や願望に応えることはもうできない。私は私として、私の思うがままに生きていく。その上で、一人の人間として、友人として、母のトラウマを分かってあげられたらな、と思っている。

 …ホント、私ってオトナのイイオンナ!

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