自分の親が毒親だと気付いた日の話、殺されかけた夢の話。

 自分の親が毒親なんじゃないかと気付いたのは、25歳の時だった。

 もしかして、私以外の人たちは、大小の悩みこそあれそこそこ人生を楽しんでいるのか?と気付けたのは、職場の同期のおかげだった。職場の同期は、これまで友達になったことのないタイプー社交的で楽観的で親切だった。
特に同期のナナちゃんの、「平凡で幸せな人生を送りたい」という発言には本当に驚いた。私は平凡に生きたいなんて、人生で一度も思ったことがなかったから。自分に付加価値をつけることに必死だったから。
学級委員をやって、作文コンクールで入賞して、生徒会副会長をやって、クラブの部長をやって、中学受験をして、リケジョになって。
それらは吹けば飛ぶような小さな付加価値ばかりだけど、子供の私にできる、そして両親が望む精一杯限界の付加価値だった。

 母の趣味は手芸だったが、母のミシンは年季が入っていて新しいものに買い替えたいとよくこぼしていた。でも、ミシンは高いからと父は乗り気でなかった。趣味の道具すら買えない、欲しいものも父に頼まないと買えない母が不憫でならなかった。父が買ってあげないのなら、私が、と思った。20万を母に渡し、新しいミシンを買ってもらった。

 我が家では、共働きにも関わらず家事のほとんどを母が担っていて、母は朝から晩までひっきりなしに動いていた。父はその間こたつで寝そべっていて、私はその光景に非常にイライラしていた。母からも父の愚痴を時折聞いていた。
 社会人になった私は、ついにそうした我が家の状況を打開すべく、家事のタスクの洗い出しを行い、父に対して家事分担の提案をしたいと母に相談した。
 ところが母は、「ネリちゃんの気持ちは嬉しいけど、愚痴を言いながらも自分でやるのが好きなのよ。ママはこれで良いの」と言って、その提案を拒んだのだった。

 母がこれでいいと言うならば、これ以上私にできることはないのだ。これで良いはずなのだ。私にできることは全てしたはずなのに、なのに、私の心のモヤモヤは消えなかった。なぜこんなに胸が苦しいのだろう。なぜ、なぜ…
 母に対するその感情の名前は、まさに「罪悪感」だった。

母親 罪悪感
でGoogle検索すると、「毒親」と言う聞きなれないワードが大量にヒット
して、目が点になった。毒親?いやいや、私はママのこと大好きだし。ただ、可哀想だと思って、この気持ちに整理をつけたいだけなんだけど。
でも、一つサイトを開いて読み終わった時には、あまりの納得感に手が震えた。
そんな、まさか、…。
なんと言えば良いのか、アニメや映画なんかで、一番の親友、味方だと思っていた人物が、まさかのラスボスだった時の衝撃みたいな感じ。

 「毒親」という概念に出会ったその日から、これまでかけていた眼鏡がぶっ壊れたみたいに、見える景色聞こえる音がガラッと変わった。

 すごい勢いで伏線を回収するみたいに、いろいろな事象に気付いてしまい、これ以上母と一緒に暮らすことに耐えられず、家出して恋人の家に転がり込んだ。その時、生まれて初めて、心にモヤがひとつもないのびのびした状態を味わった。これまではサーフボードから無様に落ちて溺れるしかなかった海で、不器用ながら初めて、少しボードの上に立てたような感覚。実家でしょっちゅう見ていた「命を狙われてひたすら逃げ続ける夢」と「足がだるくてだるくて仕方がないのにどこかに向かって歩き続けないといけない夢」を、パタリと見ることがなくなった。
 その代わり、一度母に首を絞められる夢を見て飛び起きた。

 そう、母は、母に従順な私には無限の愛情を注いでくれるけど、そうでない私には愛情を注がないばかりか、存在自体を否定し、従順な時に注いだ愛情の取り立てすら行うのだ。母にその気はないかもしれないが、私はそう感じているのだ。

 母がただ、無性の愛の対象者であったらどれほど良かったか。
 私はただ、やりようのない惨めな気持ちに涙を流すしかないのであった。

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