言葉にするのも嫌な記憶|映画『家に帰ろう』感想
原題『The Last Suit』
最近勉強を再開したスペイン語の映画であるのと、予告で見かけた主人公がホロコーストの生存者という点に興味を引かれ視聴した今作品。まさかこんなに胸に響く映画だとは思ってもみなかった。
映画で感動するときは、「あ、このシーンで私泣けるだろうな」という俯瞰の視点で予想することが多いが、今作品では終盤にかけて気付かないうちに涙が零れ落ちていた。泣かせようとする仕掛けが用意してあるのではなくて、主人公の生き方そのものが涙なしには語れないものだった。
私が考えるこの映画の見どころは以下の3つである。
ここからは、映画鑑賞後に気になった点を掘り下げていきたい。
ユダヤ人嫌悪はどこから始まったのか
頭の片隅には、世界史で歴史上の遥か昔からユダヤ人差別や迫害が存在したと学んだ記憶がある。姉がアメリカにいたときのユダヤ教徒のホストファミリーから、anti-semitismについても耳にしたことがある。ユダヤ人がメサイア(救世主)を認めずJesusを処刑した人々と批判されたり、金融業を営んできた背景で金貸しとして疎まれていたことなどが要因となっていることは聞いたことがあるが、他にも根本的な要因はないのだろうか。ホロコーストのような残虐な出来事にまで人々を駆り立てるほどの嫌悪はなぜ生まれたのか。
日本で生まれ育つと宗教間の対立を肌で感じにくい。国内の主要な宗教は神道や仏教であり、他宗教を信仰する者がいながらも、決して対立するような構造や動員は生まれていない。島国であるため、国境を接した隣国からの宗教的な影響を受けることもない。家族の信仰がない限りは、自らを無宗教と自認する者も多いだろう。人々の持つ信仰が対立の要因となる争いは、まだまだ想像し難いというのが私の正直な感想である。
最後に、引き合いに出して良いかわからないが、現在のイスラエルにおけるパレスチナとの紛争については、ホロコーストの生存者はどう感じているのか気になった。シオニズム運動の中で、ユダヤ人国家を作ることが悲願であるのは理解できるが、入植を続ける中でパレスチナ人の居住地を奪っていくことに対して、彼らはどのような感情を抱くのだろうか。
ホロコーストの存在を否定する人々について
ホロコーストに関する研究や作品がある一方で、未だにホロコーストは存在しなかったと主張する学者や政治家もいる。正直、反対論者がいることに拍子抜けした。それは、私がこれまでホロコーストを歴史の一部として受動的に学んできたことに起因すると思うが、この映画の主人公のような経験をした人々が数百万人いる(と推定される)中で、その出来事をなかったことにできるのだろうかと感じたからである。後世に生きた人は何とでも言えるだろう。しかし、その過酷さを経験した人々に対する敬意は、決して失ってはいけないものである。
日本は取るべき姿勢を取れているか
「戦争」と聞いて、日本人としての私たちの記憶により深いのは、太平洋戦争とその敗戦についてのものであるように感じる。しかし、東/東南アジアの人々にとっては、侵略国としての日本のイメージが強く残っているだろう。第二次世界大戦下の日本は、欧米の植民地支配からアジアを解放しともに繁栄する「大東亜共栄圏」を掲げて、中国、ベトナム、マレーシア、香港、フィリピン、シンガポールやインドネシア、ミャンマーを占領した。このような歴史の中で、アジアの人たちは、ユダヤ人がドイツ人に対して抱くような憎悪を日本人に対しても抱いているのか疑問に思った。
映画中では、ドイツ人の文化人類学者が主人公に対してホロコーストのことを謝罪している。おぞましい祖先の歴史から学び、贖罪の姿勢を取っていた。はたして、今の日本人にはそれができているのだろうか。少なくとも私は、歴史上の出来事を教科書上のもののみとして扱う学校教育では不十分だと思った。
これまでは、なぜ靖国神社参拝に隣国が抗議するのかわかっていなかったが、軍国主義時代を尊重するかのような日本の姿勢に危機感を抱いているのかもしれないと思った。この点に関しては要勉強である。
今回は人生において大切にしたい作品と出逢えた。そして、ぜひより多くの人に観てもらい、それぞれどんな感想を抱いたか問うてみたい作品である。毎度のことながら、姉には鑑賞後すぐにおすすめした。
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