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「ハルモニア」鹿島田真希著



 そうとうロマンチックな話で、登場人物も個性的きわまりなく、その小説世界は美しい。本当の音楽大学がこのようであるかのように、音楽の世界が奇抜に描かれているが、たぶん本当の世界はこんなに美しくない。しかし、そういうリアリズムというか写実の芸術論というものにも、この小説では触れられていて、主人公トンボの書く曲は、経験的に日常生活の描写というものになっていった。一方のあこがれのナジャは、トンボから見ると音楽の世界の中だけで美しさを追求したような音楽を作曲していた。二つのやり方のどちらが芸術的なのか? その芸術論にこの小説は簡易ながら一つの解答を与えている。
 前者はどちらかと言えば悲劇詩人的作曲で、チャイコフスキーやマーラー的な音楽であり、後者はどちらかといえば喜劇詩人的作曲で、モーツァルトやハイドン的な音楽のような気がする。しかし、それは僕のイメージでしかなくて、小説の中で言えば、ナジャの方がトンボより前衛的である。トンボはブルックナーに影響を受けていると書いてある。確かにブルックナーも短調が多いような気がするが、現実は厳しいことが多いので、写実するとどうしても短調になってしまうような気がするのは、僕の性向が暗い所為だけだろうか?
 ともかく、トンボはナジャが迎えた挫折について、彼女を好きになって助けることが出来るようになる。ナジャはもともと新入生の中から選ばれた天才であり、トンボは二浪してやっとかっと大学に入った劣等生であった。トンボの方が努力家のように思ってしまうのが、一般的解釈ではあるのだが、作中、トンボはナジャにとても同情的理解を寄せている。天才にもスランプはあり、劣等感を抱くことがあるのだと。
 ところで、この小説はナレーション的独白で描かれている。それが、客観的な記述と異なり、ややテレビドラマ的ではあるのだが、文章がかなり簡潔にまとまっていて、短編的美しさがある。それは、要するに理系的機能美とでもいうものである。不必要な記述が省いてあって、理性でまとめられ整形された人工美である。それ自体、ナジャ側の芸術性をもつ作品である。
 文中、作者の考え方なのか、芸術論的文章がある。
 「観念と生活。魂と肉体。音楽の内容と形式。すべての抽象的なものと具象的なものは結局一致しているのではないかと。そしてものを作る人間がその二つを完全に一致させることができた時、それは結構官能的体験でもある。ぼく達の抱擁のように」
 芸術というものは、いずれにせよ人のこころを癒やしうるものだろうと思う。この作品自体、作中の世界に行ってみたくなるような憧憬を抱かせるし、トンボやナジャに会ってみたくなる。彼らの作曲した音楽を聴いてみたくなる。いわば、そのような抽象である。それを具象化するとき、多分多くの芸術は失敗するのだ。映画化やドラマ化した小説ほど、小説を台無しにするものはないからだ。
 そういう意味でこの文章を考えると、小説というのは、すべての読者に小説という抽象を具象化させることを強いる、芸術敷衍の効果のある芸術なのかも知れない。読んだ世界をどう再現するかは、読者それぞれの創造行為なのだ。
 ともかく、この小説自体、ハッピーエンドでとても美しい短編だった。本棚に入れておきたい一作である。

#読書の秋2021

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