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公正でないなら。

 なかなか僕の小説は読まれない。統合失調症で第一選考も通ったことのない負け犬小説家などと、イメージが固定しているのかもしれない。確かに、大手文学賞すべて、第一次選考を通らないという実績は、僕の評判を落としているに違いない。僕は、文学賞の公正性を疑っているし、ひょっとしたら一時期の妄想のように、出版業界のブラックリストに僕の名前が掲載されているのかもしれない。
 文学フリマなどでも痛切に感じるのは、選考に残った人の方が、よく読まれるという事態である。結局、大衆が何も判らない状態で本を選ぶときの基準になるのが、文学賞の予選通過という実績である。これがあれば、みなさんに一目置かれるし、本も売りやすい。大手出版社の権威は強く、いくら文学賞が公正でないと声高に叫んでみても、負け犬の遠吠えと言われるのがオチである。
 しかし、宝くじも買わなければ当たらないと言われるのと同様、文学賞も出さなければ受賞しない。受賞したいわけではないのだが、読者をより多く得るためには、少なくとも大手文学賞の予選通過という実績を積む方が、やりやすいのは事実である。僕は、今まで大手文学賞の公正性を否定して、応募することをすっかり辞めていた。しかし、それは、もし本当に僕を潰したいという勢力があったとするならば、そのような人達の思う壺なのである。
 読者を多く得るために、文学賞を利用しようと、考え方が変った。文学賞受賞が、かならずしもその作品の文学性の高さを保証するものではないのは、よく判っているのだが、大衆に認めてもらうためには、どんな手を使っても、受賞した方が良いのだ。また、僕はまだ53歳であり、確かに統合失調症の人は寿命が短い傾向にあるのだけども、このまま年に何作かずつ発表していくつもりなので、だめでもともとで、大手文学賞に応募し続けようという気になった。
 文学賞が公正であれば、「筆と虹」「ジオハープの哀歌」「可塑のトレース」などが一次も通らない時点で、自分の小説は理解されないと諦めなければならないのだが、公正性が欠けているので、これらより出来の悪い作品でも、何かの具合で受賞する可能性もある。素晴らしい作品が認められるような公正な評価がなされているのではないので、今後出し続ければ、いつかは選考に残る日も来るかもしれないと思う。公正でないから、出す意味があるのだ。
 ということで、手始めに今度妻の誕生日プレゼントとして書いた「癲狂和画」を、大手文学賞に出してみようと思う。どのみち、一次選考も通らないのがあたりまえで、宝くじの感覚で出してみる。結果が発表されたら、Amazonで販売すれば良いだけのことだ。この先、死ぬまで書き続けるので、投稿数はかなりの数になっていくに違いないが、いつかは、予選も通過するのではないかと思う。

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