「おいしいごはんが食べられますように」高瀬隼子著。


 芥川賞も、僕のようなアンチ権威の人間に掛かると、マイナスイメージになってしまうのだけども、この著者は、文学フリマに出ている京都ジャンクションに属していたため、少し親近感が湧いた。まあ、受賞する人というのは大体は僕のような拗ね者とは、社会性も文学性も異なる人であり、あまり相互理解もできないかもしれないのだが、ちょっと時間に余裕が出来たので、読むことにした。
 描写からして、まったく僕とは正反対の文学で、ほぼ情景描写は皆無だ。しかし、人間関係の描写が細やかで、ふとした人々の仕草のなかに、心理を込めて描く技術は、なかなかだと思った。そのような技巧的なところは、長く小説を書いておれば、だいたいの著者は、何かしら秀でたところが出てくるもので、特筆には値しないのだけれども、この人間関係の絡み合い方が、単なる勧善懲悪になっていないところが、逆にリアリティがあって、しかし、作り物だからこそ安心出来る不穏さもあり、もし僕が芦川さんと押尾さんのどちらにより感情移入できるかと言えば、僕は社会的マイノリティなので、やはり芦川さんなのだけども、食に対する見方は、むしろ二谷さんの気持ちが良く判り、食べるのが面倒くさいタイプの人間であり、だからといって、芦川さんに悪意を持ったまま結婚しようとするのは、不誠実だなと思うのである。
 この話は、途中に書いてあるところによると、弱者と強者の争いで弱者が当然ながら勝ったというふうに書かれているけども、僕のような圧倒的マイノリティからすれば、そんな話は絵空事で、未だに弱肉強食の社会でしかなく、著者は地獄を見たことがない人なのだなと、羨ましくなる。そのような平和な世界に住んでいるからこそ、弱者に悪意を持つ二谷さんや押尾さんが活躍する話になっているし、ラストも芦川さんがしあわせになりそうもない終り方をしていて、それは最近の文学の傾向に漏れず、平和ポケ文学と言っても良いくらいに、著者は平穏さに辟易しているのだと思われる。
 時代が平和になればなるほど、残酷な殺戮や暴力的欲望を描く文学が注目されるようになったような気がする。終戦期に、現代の芥川賞受賞作の一部のように、残忍だったり暴力的だったりするものは、たぶん大衆が現実の惨さに辟易しているので、売れなかったのではないかという気がする。まあ、この作品に関して言えば、そのような平穏さに対する辟易感すら、平穏にマイルドに表現されてはいるのだが。
 僕は、社会でずいぶん酷い目に遭ってきているためか、芸術にそのような残虐性は求めない。だから、ときとして芥川賞受賞作品も、受け付けない。しかし、この小説の秀逸なところがあるとすれば、たとえ芦川さんがラブラブにはなれないにしても、そこまで酷い人生をラストに持って来ていないところである。むしろこんな感じのことは、平和な社会にはありふれているのではないかと思わせるような、一種のやさしさが感じられる。お互い理解できなくても、折り合ってやっていくのが社会だというような、一種の人類愛のようなこの世に対する諦念が隠されていて、だからこそ、二谷さんは芦川さんと付き合うことができ、読者も押尾さんやそのような二谷さんを許すことができるのだと思う。いわば、理想の社会に対する妥協の中に、ゆるやかな相互理解がなされるような小説と言おうか。
 そのような姿勢は、たしかに大人の姿勢なのかもしれない。今の世の中は、民族もジェンダーも障碍も、いろいろな特質が多様性を持ってひしめき合っているので、すべての人を相互理解させようとしたら、そのような理想に対する妥協が必要なのかもしれない。理想を追うためには、理想を捨てなければならないのかもしれない。そのような、やさしいぼやかしが、この小説の白眉だと感じた。

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