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自信をつけようキャンペーン

黒豆ほうじ茶がお気に入りです。
妻に「なんか豆的な・・・、こう・・・お茶?というか・・ノンカフェインっぽいのが欲しい」といったら買ってきてくれたのです。ありがとう妻。
ノンカフェインではないんですが、豆のかおりとほうじ茶のかおりがいい感じで、剪定しながら畑で飲んでます。
以心伝心というのはすごいです。でもたぶん、家族だからできたことで(できない場合もある)、「新入社員と課長」とかだったらまた違う結果になるかもしれない。

最近のこと

しょうもない導入ですみません。
でも最近、なんか自信がついた気がします(説得力がないですね)。
なぜでしょう。いくらシャケ丼を食べたからだろうか。美味かった、シャケいくら丼。
ようわからんのですが、なんとなく気持ちが楽な気がします。しんどい時もありますが。知識がついたのか、経験をしているからなのか(どちらも大してない)。開き直りのような気もする。あるいは何かに慣れてしまったのでしょうか。

ところで、去年の秋くらいから、とある講座に参加しております。
「茨城農業アカデミー リーダー農業経営者育成講座」という名前です、確か。なんかすごそうです。経営理念を考えたり、収支のシミュレーションをしたりして、10年間の経営計画を立てます。といっても、実際にやるかどうかは自分が決めるのですが。でも、最後はみんなの前で発表したり、卒論発表みたいなツッコミ大会が待っているっぽいので、ある程度の真剣さで取り組んでます。ぶっちゃけ結構大変です。割と毎日、経営計画を作っています。大変ですが、まぁ、その分得るものも多いです。

自己肯定感アゲ目

さて、自信を持つということは、何か「正しい」という基準を持つことかもしれないな、と思ったりします。なんかあった時に、「正しいのはこっちだ」と思える基準。講座の話に戻ると「経営理念を決める」がたぶんこれにあたります。例えば、売り先を変えるとき、大きな設備投資をするとき、ひとを雇用するとき。経営理念があることで、どの決断がより「正しい」のかを判断することができる。

仮にでも経営理念やビジョン≒目標を決めると、どんどん想定が進んでいきます。例えば、「畑を4haにする」とかだったら、いつまでにどのくらいの畑を借りて、どのくらいの苗を植えて、収入がどのくらい入って・・・みたいなことがある程度想定できるようになります。もちろん想定が妥当かどうかは重要ですが、それをどんどん細かく・身近に設定すると、「今月何をやらなくちゃならないか」とかが見えてきます。やるべきことが具体的に見えていると安心します。達成したら自信もつくでしょうし、自分を鼓舞するための材料にもなります。なんかできそうな気がしてくる!!!最高だ!!!

正しいを決めることってなんじゃ

何かを「正しい」とすると同時に「正しくない」が生まれるとおもいます。そりゃそうです。宇多田ヒカルも「誰かの願いが叶うころ あなたは泣いてるの」と歌ってます。いい歌です。ちょっと解釈が違うかもしれないが、それって怖いことです。でも正論です。
たぶんですが、noteの1記事目を公開するときの恐怖はこれだったのだと思います。なんかこれを出すことで何かを「正しくない」といってしまうのではないか、なんやのその考え!きも!きも!とか言われたらどうしようとか、脳内御堂筋くんと戦っていたのです。結局あげましたが。

「世の中を正しく見ている人ほどうつ病になりやすい」という趣旨のツイートかなんかを見たことがあります。うつ病に対する理解が浅いので誤解があったらメンゴですが、なんとなくわかるような気がします。絶対にない想定ですが、もし僕がいま総理大臣になったとして、いろいろな判断を迫られたら参ってしまうと思います。それはたぶん、世の中とか、人とかを総理大臣ほど単純化(レッテル貼り)していないからだと思います(失礼かもしれないがそんな感じだと思う)。

「これはこんなもんだ」「この人はこういう人だ」と決めつけることは、本質的には不可能です。でもそれをやらんと、基準がないので判断ができない。特に、それが個人的なものでなく、社会的に大きな決断であればあるほど難しくなる。ゆえに大きな判断はどんどん雑になる。「こいつは甘いの好きだからチョコでもくわしとけ」みたいな雑なレッテルは、知り合いくらいならなんとか通用するかもしれないが、家族には本質的には通用しないみたいな感じ。俺はチョコじゃなくてトリュフが好きなのです。まぁチョコなら大体好きだけど。
なので、「政治家には、一般人の感覚がない」というような見方があると思いますが、逆に一般人と同じ感覚でおられたら、デカい政治的判断などできないような気もします。

ワタクシは総理大臣ではない

はて、話は戻り。「正しい」ってなんだろうか。多分結論は出ないのだと思います。なので、それを突き詰めようとすると、深い深いところに行って帰って来れなくなる。落ちる時はいつの間にか落ちていて、上がるのはかなりきつい。近い経験はあるような気がします。だから、なんとか地上に止まるために「正しいっぽいんじゃね」ということを設定して更新し続けるしかない。多分そうです。総理大臣だって、程度の違いはあるがそんなふうにして自分の心を守っているはずです。でも裏金は良くないと思います。ちょっと詳細はよく分かっていないが。キックバックはチェーンソーもパーティーも危険です。

これまた哲学者か誰かの言葉で、「私の人生は、細い細い塀の上を、右にも左にも落ちないように慎重に歩いてきた人生だった」的なのを見たことがあります。すごいことです。この場合は、落ちた方が諦めがつくので楽です。でもそれをしない。どちらの正しいも同等に扱う。ちょっと自分自身しんどかった時期にこれをみたときは、「やっぱそうあるべきだよな」と思ったりしたが、今はちょっとそれで生き続けるのはマジできついなと感じます。何か基準を決める=右か左か(深い意味はない)に軸足をおいた方が、色々の判断をしやすい。
この哲学者だか誰かは、すごいとは思う。でも実践はできない。哲学を仕事にするならそうあるべきかもしれない。もっと楽にいきたい。

最後に

またまとまらないっすね。終わりです。

「なんかね、いまだにコンセプトが薄いというか、何を目指してんねんみたいなものが多いのよ」と文句たれたれおオジになることが結構あるんです。まぁそれは一理ある。一理あるが、そんなもんそのうちわかればいいんじゃね、という気もする。そう思う自分もいる。
「もっといいものを!」というポジティブな感じで、「正しい」ものを規定するのはいいが、それが呪いになったらあかん。しかもこれは自分では気が付きにくい。怖い。怖いということを意識しないといかん。

ところで、経営計画の中に「正しさを常に疑い、信じ続ける」という行動指針を作ってみた。
正しさは変わる。だからといって考えるのを放棄してはいけない(キリッ)。
という強め思想です。ちょっと恥ずかしい気がするけど、自信もついてるのでダイジョーブ。たぶん。

おしまい。

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