風俗嬢は非正義か。

既婚者の友人は言った。「法律違反するほど悪いひとと結婚しちゃうことはあまりないよ、でもその隙間、道徳、正義感、ここらへんが合わないときついね。その隙間、が肝心なんだよ」と。

なるほどー。
たしかに。

職場で次々子どもを産んで産休、育休とトータル5年くらい給料をもらいながら休み、結果復帰しないというひとがたまにいる。
事情があって復帰できないなら仕方ないけれどたいていは「確信犯」だ。

つまり復帰などする気はさらさらないのだが手厚い福利厚生だけ利用しようというもの。

だけど、必ず復帰しなければならない。と言う規定はないため法律違反ではない。
だから誰も糾弾できない。

でもさ、普通に考えたら道徳の問題だよね。わたしならしないな。

そんな会話から、の話だった。

そうなると正義ってなんだ?道徳ってなに?ということになる。

法律で定めてくれていたら楽なんだけどその「すきま」となると定義が難しいし
自分は道徳的で正義感がある人間だと思いたいけど、はたしてそうなのかの証明もない。

たとえば動物を食べるってよく考えたら残酷だ。

フォアグラってガチョウの口にむりやり餌を流し込んで脂肪肝にしたものらしい。
養鶏場ってぎゅうぎゅうに鳥を押し込んで見るも無残な姿らしい。

そんな情報をネット見かけるようになり、それはあまりにもかわいそうと、フォアグラはなるべく食べないように、卵は平飼いの卵を買うように心がけている。

そんないい人そうなことをしてみても、菜食主義になれるかって言ったら、それはごめん、無理。だってお肉好きだもん、としか言えない。

友人が勧めてくれたマンガで「ダーウィン事変」がけっこうおもしろくてはまってる。

その中で「人間は自分の快楽のために動物を繁殖させ殺している。けしからん」と過激派の動物保護団体が、動物を食べる人間を次々殺してしまうという場面があり、うーん、と考えさせられてしまった。

それって正義といえば正義だよなあ。
たぶん人間て動物食べなくても生きていける。植物性タンパク質と穀物、野菜で生きることは可能だ。

だけど肉は「おいしい」
そんな生死に関わる問題ではなくむしろ「快楽」のために動物が苦しみながら繁殖し、ひどい環境におかれ殺されることがよしとされている。それは異常だ。

頭では分かる。正義ではない。いますぐやめるべき。

でもさ、「ちょっと多めに見てよ」
というのが本音。

手に入れた快楽をいまさら失えない。

たぶん、養鶏場見学、とさつ場(今はガス室なのかな)見学などして「動物をたべるのは是か非か」と考え抜いたら、「菜食主義になる」って結論を出す気もする。

だけどたぶんそんなことはしない。

「快楽を失わないためには向き合わないのが一番だ」
と賢い自分の身体が脳をそう動かしている。

理性や道徳、正義感というのは著しく自分が損しない、失わない範囲というのを知っていて逆算して組み立てられている。のではないかな。と思う。

フォアグラは年1くらいでしか食べないから失っても平気。
卵はプラス200円くらいで平飼いにチェンジできるのでさほど痛くないのでできる。
でも毎日食べている肉を取り上げられるのはきつい。その陰にある動物の涙を知るのもきつい。法律違反じゃないのだから、向き合わず、たべちゃう。それが賢い選択。

全部知っていて逆算して、いい人でありつつ快楽も手に入れちゃうのだからなかなかずるがしこい。と思う。

例えば、自分を好きだと言ってくれる人がご飯をおごってくれるとする。自分は付き合う気は毛頭ない。日常なら、むだなお金を使わせるのも期待させるのも悪いので、気がないならお断りする、という選択をするだろう。

だけど戦時中、とかシングルマザーでお金がなくて子どもにも食べさせてくれる、とか飢えた環境下ならたぶんおごられ続けると思う。たとえ付き合う気がなくても。

それを「私正義に反している」とかは思わずたぶん
「あの人はあの人でたのしんでいるからいいんだよ」と正当化すると思うなあ。

だって自分が「非正義の人間だ」と思うのは嫌だもの。

ちゃんといい人でいながら、相手の犠牲の上に自分を満足させられる技と言うのは本能的に身に着けている。

だからはたから見てずるいひとでも「俺、私は非正義です。ずるーい人間です」なんて思っている人はいないのだろう。

社会福祉士が風俗待機所に配置されるということで、社会福祉士が集められ説明を受けたことがある。

社会福祉士の女の子たちはみんな口をそろえて「私なら好きでもない人に身体を触られるなんて耐えられない」と言った。

わたしも同感だ。

でもわたしたちが正義で風俗嬢は非正義なのだろうか。
そうは思わなかった。

やらざるを得ない事情があった。それがいいことかわるいことかなんて向き合う余裕すらなかった。法律違反でもないし。気持ち悪さは生きるために正当化された。
それは状況によっては自分の身にも十分起こりうると思った。

脳は生き延びるためにいろいろなことを正当化できるようにプログラミングされている。
そう思うと都合のよいプログラムで生きている自分が正義なんてとても言えないなあ、と思うのだった。

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