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インターネット時代の表現の自由と公共の福祉。


1995年以降、PCやモバイル情報端末が普及し、インターネットを通じて世界中に自分の表現を発信できるようになり、今や表現の自由は、一部の人のものから、みんなのものになってきました。

それから四半世紀ー
表現を発信する自由は増えました。
しかし表現を受信する不自由が生まれました。

インターネットの世界には、
聞こえのいいもの
インパクトのあるもの
有名人の一言
誹謗中傷
そうした内容の表現がもてはやされることも少なくありません。

聞こえのいいものは
真実かどうかは関係なく、都合が良ければよい、と考えた表現になりがちです。

インパクトのある表現は
より強い刺激を求め、破壊的行為、危険行為、迷惑行為になり得ます。

有名人の一言は
その人の専門性の有無に関係なく、その一言で、さも真実であるように扱われます。

誹謗中傷は
人を傷つけるだけでなく、今や殺めるまでになっています。

そんなインターネットによる表現の自由を自由と言えるだろうか?とここ何年か感じています。

かといって表現に制限を加えるならば、表現の自由の侵害である、と凶弾されるでしょう。
しかし現実には、表現の自由という蓑を被った誹謗中傷やハラスメント的な表現からメンタルを崩したり、亡くなったりしていることも事実です。

したがって、インターネットの世界の表現は、自由が行き過ぎ、エゴの渦巻く表現の世界になりうる、と認識して付き合うこと、情報の真偽の検証が必要であるように思います。


インターネットがなかった時代
表現を発信する人の表現物には、その先の相手を思い表現されるもの、あるいは自身の信条、信念、情熱を注いで発せられていました。
もちろんインターネット社会になってもそうした信条の表現はたくさんあります。

しかし、発信者がそれを上回り、爆発的に増え、誰でもできるようになったことで、発信される表現の質が相対的に下がっています。

以前の表現は、芸術や学術、スポーツ、報道など一定の専門性を持つ人がプロとして発信してきました。

しかし、誰でも発信できる現代では、専門性がなくても、発信は可能となったことで、誤った情報かどうかの検証もなく、都合の良い情報になってしまい、真実かどうかの検証を難しくしてしまっています。

また、匿名性という特徴が、自身の言葉に対し無責任を生み、他人を中傷し心理的ダメージを与えるまでになっています。

現実社会であれば相手を見て話をし、現実を見て表現をするので、自由に対しある程度の抑制は働きます。
しかし、インターネットは手軽に秘匿性を持って表現できてしまうため、自由に対し、抑止が効かなくなります。

憲法による公共の福祉を適用しなくても、現実社会の表現の自由は一定の抑止が働きますが、仮想社会の表現の自由は、抑制が効きにくい。

その観点からすると、公共の福祉に反する場合は、自由と責任のバランスを法的にとることが、今後必要になると考えられます。

表現に対する発信者の自由と、受信者の自由では、発信する側に力があります。
従って受信者の表現の選択と保護がなされなければならない、と考えます。

それは、政府が監視するとかいうことではなく、
仮想世界で行った表現が他人の利益を損いうる場合、法に照らし、表現の自由と責任の分界点を定めるということです。

コロナ禍続きで現実世界に不自由を感じる中での
平和の祭典オリンピック。

コロナ禍での開催に対する賛否や不自由から、誰かに怒りをぶつけたくなりがちで、ネットの世界では、攻撃する誰かを探しているような気の流れを感じます。
そして選手がその的になっているのが、かわいそうに思い、こんな仕組みあればな、と提案する次第です。

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