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「つくね小隊、応答せよ、」(61)



引き揚げ船は長旅だ。
時間をかけて、あちこちに寄港しながら日本へと戻る。
否が応でも、周りの者達とは顔見知りになってゆく。
渡邉は誰とも交流しなかった。
しかし女が抱いている子は、なぜだか渡邉の方をちらちらと見て、興味を持っている様子だ。
渡邉は目をそらすが、その子は不思議なものをみるようにして渡邉を何度も母親の影に隠れて見つめてくる。

ある日、その子は、誰かからもらったスルメを、渡邉に手渡してきた。
渡邉はそれを無視したが、その子は渡邉の足元にスルメを置いた。
渡邉がその子にスルメを投げ返すと、その子はまた渡邉の足元に置く。

「いらん。自分で食え」

渡邉が突然そう言ったので、眠っていた母親が目覚めた。渡邉の足元のスルメと、自分の子が持っているスルメを見て、状況を察知したらしい。渡邉の足元のスルメを拾い、子に握らせた。

「寿郎、やめなさい。自分でお食べ」

子は、スルメと渡邉を交互に見て、諦めたのか、それきりスルメを置くことをやめた。母親は、渡邉を少し睨み、また横になり、渡邉は、うつむいたまま、自分の足元のなにもない空間を眺め、その姿勢のまま、うつらうつらして、いつのまにか眠った。

夜、何かの気配で目覚めた。
すぐそばで、何者かががさごそと動いている。
渡邉は薄目を開けて、右側に立て掛けてある三八式歩兵銃をつかもうとしたが、そこにそんなものはない。雑嚢のなかの十四年式拳銃の事も頭をよぎったが、すでに弾切れだ。
いや、そもそも、近くに人がいるぐらいで、相手を殺さなくてもいいのか、渡邉はそう気づいた。そして薄目のまま、何者かを凝視した。

海流に軋む船体。
暗い船室。
眠る人々。
小さな人影。

その小さな人影は、なにかを手に握り、渡邉のすぐそばまで歩いてきて、そのなにかを渡邉の膝の上にそっと置いた。
そして、その人影は、向かいで眠っている女のそばへゆき、女に寄り添うように横になる。
渡邉が膝の上を凝視する。
すると、そこにはスルメが置いてあった。
渡邉はそれをじっと見つめる。

高い崖の上から、白くうねる海流の渦の中に飛び込んだ。
肺に水が入り、海中に引き込まれ、暗闇にくるまれ、もう二度と這い上がれないはずだった。

けれど、缶詰の中の少量の空気が浮き袋代わりになり、渡邉を海面に引き上げた。海流で運ばれ、砂浜に打ち上げられ、見知らぬ少年とその祖父に助けられた。ヤギの乳をもらった。そして今、髪の毛を掴んで怒鳴りつけたこどもに、渡邉はスルメを贈られている。彼も腹が減ってしょうがないはずなのに、見ず知らずの怖い男にスルメを分けてくれている。

その運を、その恩恵を、清水や仲村が受けられればよかったのに。
渡邉はスルメを眺めながら、そう思う。そして、そのスルメをゆっくりと囓り、噛み締めた。暗闇のなかで、子どもが渡邉を見つめていたので、渡邉は小さく子どもに言った。

「ありがとな」

子どもは少し微笑んで目をつむった。


2日後、ほとんどヒエと粟だけの握り飯の配布があった。小さめのものが2つ油紙に載せられ、手渡される。
渡邉はそれを受け取ったが、食べたいとは思えなかった。食欲がまるでなかった。
ゆっくりと立ち上がり、それを持ってふらふらと甲板に出る。すると、すでに握り飯を平らげたらしいモンペの女が、子の手をひいて散歩をさせていた。
握り飯は、2日に1度、大人は2つ、子供は1つ。子供にも大人にも、足りるわけがない。
渡邉は、彼女に、近寄ってゆく。

「これ」

そして握り飯ふたつを、渡邉は女に差し出した。
女はじろじろと渡邉を見る。渡邉がどうしたいのか読み取りあぐねているようだ。渡邉は、言葉を続けた。

「これ」

「なぜですか?」

かぶぜるように質問する女に、渡邉はうつむいた。目を合わせるのは億劫だった。

「俺は、いらないし、あと、お詫び、です」

「お詫び?こんな握り飯で許されるとは思ってませんよね」

「いえ。別に」

女は、うつろな顔の渡邉と、手のひらの2つの握り飯を交互に見る。
そして心の奥底にあったもののひとつに納得するかのようにほんの少しだけ表情を変えて言った。

「お礼は言います。助かります。ありがとうございます」

女は握り飯を受け取った。
渡邉は黙って頷き、船室へ戻ろうとした。

すると女は、言いにくそうにつぶやく。

「あなた…何も食べてませんよね。自分の分はあるんですか?」

「いや、別にいいんです」

女は、少しだけ考えて答えた。

「でも、あなた、すごく痩せてます。ゴボウみたいです」

すると渡邉は、ほんの少しだけ唇の隅のほうで笑って言う。

「それはあなたもです」

女は渡邉の言葉を無視して、苛ついた口調で言う。

「あなたに死なれたら、目覚めが悪いというか、なんか加害者みたいになるのが、とってもいやなので、」

女はひとつの握り飯を半分に割り、乱暴に渡邉に突きだした。

「これは食べてください」

すると、渡邉は少し頭をさげてからその場を離れ、甲板の手すりのところまで歩いて座りこんだ。たしかに、立つのも、歩くのも、やっとだった。
このあと、女が船室に戻れば、渡邉は甲板から飛び降りるつもりだ。
けれども、女はなかなか船室に戻らず、少し離れたところに座り、子供にひとつ握り飯を食べさせた。子どもは、ゆっくりとヒエと粟の握り飯を食んだ。
女は、嬉しそうに子供の頭を撫でる。

渡邉の方を見ると、遠くを眺めたまま、無表情だった。

「わたし、あなたのこと嫌いですよ。人の子にあんなことできるなんて、親の顔がみてみたいです。
でも、庇うわけじゃないんですが、わたしは、別にあなたが悪い人だとも、思っていません。まあ、嫌いですけど」

渡邉はすこしだけ女を見て、はい、とだけ答えた。
女は、そっけない渡邉の態度に苛つきながら、渡邉が見つめるほうを同じように眺めた。

「私、誰にも言えないことがあります。毎晩、そのときのことが夢に出てきます。あ、別に、あなたが聞いてなくても、話しますから」

渡邉は、すこしだけ女のほうを見る。
女は、渡邉の方を見ずに、遠くの流れ行く景色を見ながら話し始めた。
遠くの空では海の上でスコールが降っているらしい。太陽の光が鉛色の雲と、灰色の雨の膜の向こうで影絵のように光る。

「引き揚げ船の港まで、日本人はみんな歩いて行列をつくっていました。
現地の人たちに石を投げられ、水をかけられ、金目のものは、ほとんど奪われました。お腹が空いて、のどが渇いて、なにか食べ物を買おうと思っても、誰も日本円なんて受け取ってくれません。
だから、私は、母から受け継いだ着物を、食べ物と交換しました。絹の着物です。それが、なにと交換できたかわかります?」

渡邉は黙ったまま甲板を眺め、女は悔しそうに唇をゆがめ、人差し指と親指でちいさな楕円を作った。

「こんなにちいさな、こんなちいさなバナナふたつ。母の形見の着物が、こんな小さなくだものに変わったんです。ありえませんよ、形見が、バナナ2つだなんて。でも、悔しかったけど、でも、食べるためには、仕方、ありませんでした。
それから、また歩いて、とある村にさしかかりました。村の人達は、戦争中に、日本軍にいろいろ奪われてきたらしく、誰も家から出てきませんでした。日本人なんか、見たくもなかったんでしょう。
その村を抜けた森の中で、日本の女性が倒れていました。背中には、おんぶひもで赤ちゃんが背負われてました。
女性は、死んでいました。
たぶん、日本人の列の先頭の方にいた方なんだと思います。
赤ちゃん、泣き叫んでました。
でも、誰も助けません。誰も、助けられないんです。

わたし、立ち止まって、うつ伏せに倒れてるその女性と、赤ちゃんを、ぼんやり眺めてました。まるで美術館の絵を眺めてるような、そういう気分です。そして、気づけば、行列は私をどんどん追い抜いて行って、私が列の一番最後になってました」

女は、うっすらと笑みを浮かべている。
なにかを軽蔑するような冷たい笑顔だった。

「わたし、その母親が持ってた荷物を引き剥がして、中身をあさりました。持ってた骨箱のなかも、あさりました。
骨箱のなかに、みんな隠すんですよ。金目のもの。そしたら、時計と指輪がでてきました。泣いてる赤ちゃんを見ないようにして、お骨の底をあさって、着物をぜんぶひったくって、盗んで、そして、わたし、そのまま…立ち去りました」

怒ったような顔で、袖で目元をぬぐう。

「今でも、消えないんですよね、その子の、泣き叫ぶ声が、耳の、奥で…だから、眠れません…」

そう言って、女は子供を抱き寄せ、子供の頭を悲しそうにゆっくりと撫でる。

「だから、わたし、べつに、あなたを責められるような、人間じゃないんです。大したことないです。海に捨ててやろうか、なんて、大した言葉じゃないんですよ。だってわたし、それよりもひどいこと、してますから。わたし、人間じゃ、ないんですよ」

そう独白した女を、渡邉はちらりと見て、やがてまた甲板を眺めた。
女は、怯えた幼女のようでもあったし、夜叉のようでもあったし、聖母のようでもあったし、佛のようでもあった。
怒っているのか悲しんでいるのか、諦めているのか、開き直っているのか、どれでもない、とても不思議な顔つきだった。そして女は軽く目元をぬぐい、明るく、諦めたように言う。

「あー、やっぱりわたし、あなたのこと嫌いですね。
そんなことないですよ、ぐらい、言ってみたらどうですか。みんな必死だったんだから仕方ないじゃないですか、って言ったらどうですか」

それでも渡邉は黙って甲板を見つめている。その渡邉の横顔を横目でしばらく眺めて、諦めたようにため息混じりでつぶやいた。

「嫌いです」

その言葉を最後に、また二人の間に沈黙が流れていく。潮風は生ぬるく、そして断片的にひんやりとして、それでいて湿っている。舳先で細かく砕かれた波の一部が、思い出したように時折頬にぶつかってくる。
旅行客船であれば、音楽やラジオが流れ、食べ物の香りや笑い声にあふれているのだろうが、錆びついた貨物船の上では、明るい笑い声も、旅愁を誘う心躍る音楽も存在しなかった。
沈黙は、潮風に流されずに、まるで重い霧のようにふたりの隙間に居座りつづけた。

「時代です」

渡邉が言う。
女は渡邉を驚いたように見つめてから、夜空を見上げた。
星は、戦争が起こる前と変わらず、いつもと同じように輝いている。渡邉の言うように、時代だった。人の命の重さや、物事の重大さを決めるのは、時代だ。渡邉の言うことは、正しかった。
女は、妙に納得した。

「あ、そうだ。お名前お聞きしていませんでした。わたし、石橋摩理といいます。この子は、寿郎です」

摩理はそう言って頭を下げた。渡邉は、軽く会釈をする。

「渡邉道雄といいます」

そして、渡邉は突然話し始めた。

「俺は、イギリス人だかアメリカ人だか、オーストラリア人だか知りませんが、たくさん殺しました。日本人も、殺しました。
とにかく人を、たくさん殺しました。
この船に乗るときも、助けてくれた現地の人に、ひどいこと言いました。別に、俺は帰らなくてもいいし、生きていなくても、誰も困りません。自分を守るために人を殺したくせに、別に、生きていたくもなかった。もっと、生きていたほうがいいやつは、いた」

「そうですか…でも、奥様や子供さんは、待ってますよ。あなたが帰ってくるのを」

「待ってませんよ、俺に家族はいませんから」

「でも、あなたを産んだお母様は、あなたの帰りを待ってるはずです。わたしは母ですから、分かります」

「母親の顔は、知りません。どこかで俺を拵えてきて、婆さんに預け、それっきりです。婆さんは、とっくに死んでます。俺はひとりです」

命の大切さや、家族の大切さなど、語れば語るほど安く薄くなる。
摩理は、塩の付着した甲板を見つめて、小さく言う。

「…そうですか。すみません。知りもしないのに、不躾なことを言いました」

「いえ、構いません」

渡邉は、なんともないというように、力なく俯いて独り言のように言った。

「俺は戦場に行けば、潔く死ねると思ってました。でも、殺されるとき、俺の体は、俺の命をとっさに守るんです。俺は、死にたくて戦争に行ったのに、俺の体は、生きようとする。命は、俺では、ないんです。命は俺のものじゃない」

そして渡邉は、力なく笑う。風に揺られて飛ぶカゲロウのような、儚い笑いだ。摩理は、そんな渡邉を見ながら、寿郎を片手であやす。

「でも、せっかく私達は生き延びたんです。だから、生き延びるべきです。それが、亡くなった方々への、償いで、責務です」

その言葉を耳に入れた渡邉は、また力なく笑い、頷く。その力ない笑顔をみて摩理は忘れ物を思い出したような顔になり、悔しそうに奥歯を噛み締めた。

「ごめんなさい…わたし馬鹿だなあ……やっぱり薄っぺらですよね、そんな言葉。それぞれが別々の景色を見てるのに、簡単に“べき”だなんて言葉を当てはめないでほしい、って私は思います。
死ぬことがいいことだとは思わないけど、でも、その人が見た景色を誰も知らない。だったら、それらしい大雑把な言葉で慰めるのは、相手に対する最大の侮辱だと思いもします。ふざけるなって感じです。ごめんなさい」

肩を上下させ、そう喋り終えた摩理を、渡邉は少しだけ見る。摩理は、遠くの海を睨むように見つめていた。

寿郎は、渡邉がくれた握り飯をまだ食べ終わらず、ゆっくりと噛んでいた。
摩理も、同じように握り飯を食べ始めた。
渡邉も握り飯を頬張った。
三人で、無言で飯を食った。






ある日、ついに船の食料が尽きた。
ただでさえ戦争で食料が少ないのに、寄港先で日本人のための食料を分けてくれるところは少なかったからだ。それぞれの食事は、各自が持っているもので賄っていくしかない。

摩理は子どもに出ない乳を与え続け、人からもらった食料は子どもに与えた。そして摩理も子どももみるみる痩せて行った。
渡邉はそんな摩理と子どもを見ながら、雑嚢を、抱きしめた。
清水がここにいたら、どうするのだろう。腹が減ってもそれを食べず、虫やモグラや草や獣を食ってきた清水。眼の前で母と子が飢えていたら、清水はどうしたのだろうか。清水が、命のように大切にした缶詰。渡邉には、判断ができなかった。死者の守り続けた大事なものモノを、自分自身の気持ちだけで人に分け与えられるのか。
渡邉にはわからなかった。
けれども、日に日に、摩理と寿郎は弱ってゆく。
笑顔や声が、減ってゆく。
やがて、寿郎は、ぼうっと宙を眺めるようになった。
それでも渡邉には、判断ができなかった。
命がけて人が守ってきたものを、そうやすやすと、人にあげるということができなかった。渡邉には、判断ができなかった。
渡邉は、うつむいていることが多くなった。





ある晩、引揚船の船室の中を、端の方から誰かがこちらに向けて、かつこつと歩いてきた。
なぜだか、船室のなかには渡邉の他に誰もいない。
渡邉は、うつむいて座っているだけだ。
歩いてきた誰かは、渡邉の前で立ち止まる。
見上げると、そこには清水がいた。
彼は、涼しそうな麻の半袖シャツを着て、久しぶりに旧友に会うような、そんな懐かしそうな笑みをたたえている。
ああ、夢か。
渡邉はそう思った。

「ひどいありさまじゃねえか。渡邉」

清水は眼鏡を少し触って笑う。
渡邉は膝を抱えてうつむいて座ったままだ。どうせ夢なのは分かっている。

「重い荷物、持たせてすまんな」

清水がそう言うと、それを無視して渡邉は言いたいことを伝えた。

「清水、守れなくて、すまなかった。俺のために…すまん…」

清水は、それが聞こえなかったのか、笑顔で話し始める。

「その荷物の半分は、輸送費だ。お前が好きにしていい。だが、半分は必ず父さんと、母さんに、頼むぜ。遠路はるばる、重い荷物をすまんな」

「本当は、俺が死んで、お前や仲村が生き残ればよかったって、そう思ってるんだ」

清水はなにも聞こえないのか、俯いたままの渡邉の肩を、ぽんと叩いた。







渡邉は、顔を上げたる。
清水はいない。
暗闇の中に、巣の中で眠る蟻たちのような黒い影の日本人たちが、もぞもぞと動き、寝返りをうったりぼんやりと暗闇を眺めたりしていた。

そして渡邉の眼の前には、中空をぼおっとながめる寿郎と摩理がいる。摩理は子を抱きしめ、息も絶え絶えだ。

渡邉は、震える手で、缶詰を取り出した。
小さなナイフでそれを開ける。
中身は大和煮だった。
生姜と砂糖と醤油で煮込まれた鯨肉が、芳しい香りを立ち上らせている。
渡邉は、指先で肉をつまみ、自分の口に放り込んだ。
肉汁が溢れ、甘いだし汁が舌の上に広がり、唾で口の中がいっぱいになった。ゆっくりと噛み、喉で味わうようにゆっくりと飲み込むと、渡邉はその缶詰を摩理の足元に置いた。摩理は、それに気づくと、驚いた顔で渡邉を見る。

「え、こちら、その、え、頂ける、んですか?」

「はい。食べてください。俺の仲間のものなんですけど、とってもうまいです。清水忠義っていうやつがずっと、食べずに、とってたんです。鯨の、大和煮です」

摩理は驚いた顔のまま缶詰を、まるで宝石を扱うようにして、寿郎の口元へ持ってゆき、煮汁を飲ませる。すると、寿郎の目の色が黒々と変わり、缶詰に指を突っ込んで肉を必死で噛みはじめた。食べることが久しぶりで、うまく噛めないようだった。

摩理は、何度も渡邉に礼を言いながら涙を流した。
渡邉もそれを見ながら、なぜだか涙が溢れてきた。
この缶詰の持ち主は、死んでいる。
渡邉は、生きていて、そしてこの缶詰は、見ず知らずの母と子の命をつないでいる。寿郎は必死で缶詰の中身を咀嚼した。

それから1週間ほど経つ。
船の中では何人か病気や栄養失調で死者が出た。渡邉と摩理と寿郎の三人は、なんとか缶詰で食いつないでいる。食べられない人もいたので、缶詰は三人で隠れて食べた。寿郎も摩理も元気を取り戻し、甲板を歩けるようにまでなった。渡邉が甲板に立ち、青空を見上げる。

鳥の鳴き声がした。
何羽かの甲高い呼び声が、やり取りをしている。
挨拶をしているのか、大きな船が来てるぞ、と言い合っているのか、あっちに魚の群れがあるぞ、と言っているのかわからないが、渡邉が鳴き声の方を向くと、白いカモメが数十羽群れをなし、海面近くを飛んでいた。

なにか餌になるようなものがあれば、カモメをおびき寄せて捕ることができるかもしれない、そんなことを考えていると、誰かが、大声で叫んだ。

「日本や!」

男が舳先の方にたって、進行方向を指差している。
その声をきっかけに、甲板で横になっていた人々がつぎつぎと立ち上がった。男の言う通り、陸地が見えた。
歓声があがったり、安堵ですすり泣く声が聞こえたり、大声で泣き出す人がいたり。日本の陸地を見た人たちの心境はさまざまだった。
後ろめたさを感じた人たちもいるかもしれない。悔しさを感じた人たちもいるかもしれない。家族に会える嬉しさや、殺されない安心に歓喜した人もいるかもしれない。さまざまな感情が入り交じる甲板で、渡邉は黙ってただその陸を見つめた。

寿郎を抱いた摩理が、渡邉の隣へ歩いてきて、陸地が見えるように彼を高く掲げた。
渡邉の目の高さに寿郎の顔があった。
寿郎は渡邉の方をちらちらと見て、
「たかく」
と言った。
渡邉は摩理の手から寿郎を抱き上げた。
摩理は一瞬驚いた顔をしていたが、寿郎が喜んでいるのを見て、渡邉に彼を預ける。

さっきまで吹いていた潮風とは違う風が吹いているように感じる。
草木や土の匂いのする陸地の風。
潮風ではない懐かしい日本の風が、船の上まで吹いて来ているようなそんな気がした。

渡邉が摩理を見ると、彼女はぼろぼろと静かに涙を流していた。ひとことでは言えない、さまざまなことを感じているのがわかる。そして、寿郎を見上げると、彼は空を飛ぶカモメを指差して笑っている。

「日本だよ」

摩理は静かにそう囁いた。
誰に向けた言葉なのかは、わからない。







船は横浜港に入港した。
しかし、船内の一部でコレラの患者がいたため、一週間、船を降りることはできなかった。
一日中、人々は、港を眺めた。
横浜港には、他の引き揚げ船や、米軍の軍艦、各国の通商船が入港している。だが、そこには日本の国旗を揚げている船はひとつもない。すでに占領されていて、日本は存在しなかった。

見たことのない国旗を掲げる船があった。日本の国旗に似ていたが、色が違う。日の丸の半分が青く、その周りを文字のような黒い模様が囲んでいる。かつて日本と呼ばれた国は、占領され植民地になり、アメリカになる。だから、国旗も変えさせられたのだろうと、皆は話しあった。

しかし、後になって分かったことだが、見たことのないその国旗は“大韓民国”という国のものだった。戦争でひとつの国がなくなり、そしてまた新しく国が生まれたのだ。

一週間たち、やっとのことで船を降りると、白衣を来た日本人の娘たちが、横一列に、無愛想に待ち構え、ならんでいた。
そして「引揚援護局」と書かれた腕章を身に付けている男たちが、引揚者たちに説明をする。

「荷物は全部地面に置いて広げておいてください、殺虫剤を撒きますからね。荷物は全部地面に、全部地面に広げてください、殺虫剤を撒きます」

引揚者たちが荷物を置いて並べると、その上から娘たちが白い粉を噴霧してゆき、それが終わると、次は人間が列に並ばされた。

「次は殺虫剤を衣服の中に噴霧していきます。
頭、両袖、背中、胸、股に噴霧しますので、ボタンなどははずしてください。着物の方は合わせを緩めてください。
なお、噴霧中はできるだけ息をしないように。もしマスクがある方はマスクを着用願います。
繰り返します、殺虫剤を衣服の中に噴霧します」

白衣の娘たちは、もう何万人にも殺虫剤を噴霧しているのだろう。無表情に、すばやく噴霧し、相手と目も合わせずに仕事をこなしてゆく。
この殺虫剤は、日本で流行しているシラミの駆除剤である。引揚者たちは真っ白になりながら、船内で一緒だった人々に手を振り、それぞれの故郷へと帰っていった。

「どこなんですか?お国は」

渡邉が摩理に訊くと、摩理はおんぶ紐を締め直しながら答える。

「東京です」

渡邉も、国に帰るために東京を経由する。
摩理の大きな風呂敷包みを見下ろしながら提案した。

「じゃあ、ご自宅まで、ご一緒します」

摩理はつんとした顔だったが、内心はほっとしたのか、その申し出を受け入れた。どうやらとても不安だったらしい。緊張が少しほどけるのを感じた。

「ありがとうございます。感謝いたします。じゃあ、行きましょう」



駅までの道すがら、さまざまな国の人々が忙しなく働いていた。
横浜も空襲を受けたらしく、背の高い建物はほとんど存在しなかった。その隙間を縫うように、蟻のようにたくさんの人がいる。
まるで地獄のような景色なのに、なぜだかそこには快活な客寄せの呼び声や、笑顔などもたくさんあった。路上で風呂敷を広げ、外国の人々へ物を売っている人たちも目立つし、子供たちも泥や埃だらけの顔で、大人たちに声をかけてなにかモノを売っている。よく見ると、シケモクを広い集め、タバコの葉を新聞紙に巻き直した子供たちお手製のタバコだった。
長いことタバコにありつけなかった復員兵たちが、そのタバコと時計や鉛筆などを交換して、その場で火をつけて美味しそうに吸っている。

「おい!渡邉!なに突っ立ってんだよ!タバコだぞ!おい!金がねえからよ、なんか交換できるようなもん、ねえのかよ!」

仲村が肩越しにそう言った。

「仲村、じゃあお前は交換できるようなもん、なんかあんのか?」

清水が意地悪そうな笑顔で言うと、仲村はポケットというポケットに手をつっこむ。そしてなにも持ち物がないことを心から理解して、

「そうだよなぁ、ねぇよなぁ。いやあ、実にシケてるよ、国のために命がけで戦って、シケモク1つ買えねえなんてよぉ。しけしけだよぉ」

と悲しそうな顔をした。
清水と仲村は、ため息をつきながら、肩をすくめて渡邉を見上げる。
彼らは、いまでもあの島に横たわっているはずだ。ただの幻だということは、渡邉にも分かっている。

「渡邉さん、買うんですか?買わないんですか?」

しばらくの間、渡邉はただ突っ立ったまま、ぼおっとシケモク売りの子供を眺めていたらしい。背後から摩理が、いらいらした声で問いかけた。

「あ、いや、その、すいません」

渡邉が謝る。

「え、あの、どうしたんですか?」

摩理が怪訝そうな顔をする。

「ん?何がですか?」

渡邉はすっとんきょうな声を出して摩理に訊いた。
すると摩理は、心配そうな顔になってつぶやいた。

「だって、渡邉さん、泣いてますよ」

渡邉は、自分の頬に触れてみた。頬は濡れ、次から次に涙が溢れてくる。

「あれ…なんでだろう…おかしいなぁ…なんでだろう」

渡邉は、何度も何度も涙をぬぐう。
なんの涙なのか、わからなかったが、ただ涙は、次から次に溢れてくる。
摩理は、渡邉のそばにただ立って、通りを歩く人々は、水の流れのように通り過ぎて行った。







横浜から汽車に乗り、上野駅についた。
東京は人がごった返している。横浜も人は多かったが、その比ではない。
農婦も孤児も年寄りも妊婦も会社員も学生も復員兵も怪我人も病人も若い娘も幼児も、みな一様に荷物を抱え、それぞれの方向へ歩いている。押し合ってへし合って、それぞれがはぐれないように、声を掛け合う。

「おい、俺は南方帰りだ。この雑嚢のなかにはスリッパぐらいの大きさのゴキブリがいる。うかつに手をいれると指を噛みちぎられるから気を付けろよ」

渡邉が見ず知らずの子に話しかけて、摩理は怪訝な顔をした。
渡邉に話しかけられた7才くらいの少年は、驚いた顔をして逃げるように立ち去った。

「…知り合い、なんですか?」

「いや、別に」

「じゃあなんで話しかけたんですか?ゴキブリなんて嘘ついて」

渡邉の下げている雑嚢をちらちらと見ながら、摩理が訊く。

「さっきから俺のまわりにつきまとって、ちらちら雑嚢と俺の顔を盗み見てたので。そちらも、気をつけたほうがいいですよ。ほら、あの子どもたち」

渡邉が指さしたほうを見ると、髪の毛がぼさぼさの子どもたちが、老婆に話しかけ、背後の子供が老婆が背中に抱えている風呂敷包みの中に手を突っ込んでいた。それに気づいた老婆の息子らしき男が、風呂敷に手をつっこんで中身をすろうとしていた少年の手首を掴み、ひきずり倒して地面に叩きつけた。他の子たちは散り散りに逃げていったが、捕まったその少年だけは男に怒鳴られ、踏みつけられ、尻を蹴られている。老婆が止めようとしたが、男の怒りは収まらない。
人だかりができて、立ち止まった人々のカバンや風呂敷に、また別の子どもたちが手をつける。それで誰かが怒鳴り声をあげると、少年を蹴っていた男がその声の方を向く。男に蹴られていた少年が隙をついて男のスネを蹴り、逃げ出す。
摩理は、その様子を、まるで活動写真を見るように興味深く眺めていた。

「でも、なんで、子どもたちがそういうことしてるって気づいたんですか?」

歩き出した渡邉に速歩きで追いついて摩理が尋ねる。

「ただ歩いている奴と彼らは、動きも姿勢も違います」

渡邉はフキの皮を剥くコツを教えるみたいに、あっさりと言った。摩理はふうんと頷いたが、彼の言う意味がよくわからなかった。
日本軍は、南方のさまざまな国々に軍事基地を築き、一部の部隊は、その土地の人々に、労働力や資材や食料を供出させた。
反抗する人々も多く、日本軍はゲリラ兵との戦いも余儀なくされた。
地元民のふりをしたり、農作業をしているふりをして近づいてきて攻撃をしかけてくる。そういった経験を経た渡邉と摩理では、見えてみるものが全く違った。

汽車は不良で、あいにく動いていなかったので、三人で歩くことになった。摩理の嫁ぎ先へは、上野駅から歩いて2時間ほどかかる。寿郎は疲れて、不機嫌を通り越し、ついには泣きだしてしまった。それをあやしながら、ふたりは歩き続けた。

やっとのことで嫁ぎ先の家へ到着した。
しかし、あたりは一面焼け野原だった。
近くにいた老婆に、このあたりのことについて聞いた。すると、このあたりの人たちの避難していた防空壕に焼夷弾が貫通し、一人残らず焼き殺された、という返事が返ってきた。

「だから、なにかくすねるなら、今のうちですよ」

そしてにこにことした老婆は、焼け残った瓦礫の中から、包丁や鍋などを拾っては集めはじめた。摩理は、水道の漏れ続ける蛇口を眺め、黙りこむ。

嫁ぎ先がだめなら、実家へ戻るしかない。摩理の実家はここから1時間ということで、三人はそれからまたさらに歩き続けた。
摩理は渡邉に対してしきりに謝罪していたが、乗りかかった船なので、最後までちゃんと送り届けたいです。渡邉はそう答えた。

摩理の実家の地域は空襲を免れていて、家も人もたくさん残っていた。
摩理は実家の戸を叩く。
中から背の低い男が出てきた。
摩理の兄だという。

「フィリピンにいるんじゃなかったのか。なんか用か?」

兄の第一声はそれだった。
摩理は顔色を変えずに淡々と答える。

「フィリピンに、残ってる日本人なんていません」

摩理の兄はトタン屋根を削ったナタのようなもので、どこかで拾ってきた柱を割って薪にしている。

「旦那はどうした?そいつは誰だ?」

「留吉さんは、フィリピンで亡くなりました。この方は、引揚げ船で一緒だった渡邉さんです」

渡邉が、名前を言って頭を下げたが、兄は渡邉をチラリと見て、薪を割る。

「で、なんの用だ?」

兄は手ぬぐいで首の汗をめんどくさそうに拭う。

「行くところがありません」

「あっちの両親はどうした」

「家はありませんでした。近所の人たちに訊いても、誰も行方をしらないって」

「そうか、それで?」

「家が見つかるまで、私と寿郎、間借りさせてください」

摩理がそう頼んだが、兄は即答で返事をした。

「他を当たれ」

「ほ、他って、身内じゃないですか」

「お前は嫁いだんだ。こっちの人間じゃない」

「でも、嫁ぎ先はもう焼けてなくなっ」

「帰ってくれ」

「…え?帰るところがないからここにき」

「出てけ。見てわかんないのか。俺ら家族だけで精一杯なんだ。」

そう言って兄は薪割りを続けた。
取り付く島などなかったが、摩理は寿郎のことを見て、食い下がった。

「わかりました。じゃあ、兄さん、すみませんが、食べ物を、分けてくれませんか。この子、食べるものが、」

兄は、舌打ちをして摩理を睨み、ちらりと、足元の寿郎をモノのように見る。

「これでも持ってけ。次来ても、もうなにもねえ。もう来るな」

そう言って、足元の竹行李の中から、竹の皮に包まれた蒸しパンのようなものをふたつ、摩理に投げてよこした。

摩理は、黙って頭をさげて、実家をあとにした。
そして黙って歩き続ける。
もう行く所はない。
どこかの駅で母と子、野宿するしかない。
摩理は歩きながら、悔しそうに涙をぼろぼろと流す。唇をかみしめ、少女のように泣く。

その姿を見ているのがいたたまれなくなって、渡邉はゆっくりと口を開いた。

「空襲でうちも、どうなってるのかわかりません。でも、もし石橋さんがよければうちに、来ませんか」

摩理はすばやく渡邉を見上げる。
渡邉はそのまっすぐな目に、思わず目をそらした。
寿郎は地面に落ちている釘をいじっている。

「いいんですか?」

「はい。でも、残ってる保証はないですよ。なにせ、俺が家を出たのは支那事変の頃なので」

「あの…渡邉さん、よろしくお願いします」

摩理は、深々と頭を下げた。

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