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アウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所に行ってきた

またお久しぶりの更新になります!

今回は今年の1月23日に訪れたThe Auschwitz-Birkenau State Museumでの見学/感想をまとめようと思います!見学から大分月日が経ってしまったのですが、見学時にメモしてある内容を見ながら自分の考えをまとめたいと思います。

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毎年1月27日に開催される"International Day of Commemoration in Memory of the Victims of the Holocaust"のメモリアルイベントが大学院にて開催されるため、それに先立ってホロコーストを知っておこうという目的でこの時期の訪問を決めた。

アウシュビッツ収容所はポーランドのオシフィエンチムという場所に位置し、古都のクラクフから約1時間半ほど車で移動して向かった。

当日は6時間のスタディツアーを予約し、午前9時半から午後3時半までアウシュビッツ第一・第二収容所を見学した。

ARBEIT MACHT FREI (Work sets you free)

アウシュビッツ第一収容所

「ARBEIT MACHT FREI」とある門をくぐるとそこには2階建てのレンガでできた建物がずらりと並んでいる。多くて約16000人が収監されていたとされるこの場所がアウシュビッツ第一収容所である。

強制収容所とはヒトラーとナチ党によるドイツ民族の排他的優越感という思想により1933年から開設され、ユダヤ人、スラブ人、ロマ人など「好ましくない要素」とみなされた人々に対するゲルマン化、出生の抑制や直接的な殲滅が行われた場所。

アウシュビッツ第一収容所は1940年からナチ党に反対するポーランドの犯罪者を収容する場所として最初は使用された。その後はユダヤ人を主に収容する被収容者用住居や収容者用病院、倉庫、監獄にも使われた。

いくつかの棟は収容者が当時どのように過ごしていたかを展示するために、ベット部屋、トイレなどがそのまま残っている。
3段ベットでは1段につき2-3人が寝ていたという。そのため1棟700人用の住居でも2倍以上の約1500人がここで暮らしていた。

収容者が使用していた実際のベット

他の棟では展示スペースとしてアウシュビッツ収容所の歴史を当時の写真や遺品とともに学ぶことができる。
当時の残忍な事実が淡々と綴られた展示スペースでは教科書だけでは習えなかったことが多くあり、新しい知識を得られたと同時にこんなにも非人道的な行為が行われていたことに衝撃を隠せなかった。

ヨーロッパの中心にあったアウシュビッツ

物資不足だったため、収容者が連れて来られたときの荷物はすべてナチスの所有物となった。収容者の髪の毛さえ無駄にしまいとしたナチスは収容者の毛髪でカーペットなどの製品を作っていた。
他にも靴、鞄、眼鏡などが展示してある。その数を見て、どれほど多くの人が連れて来られたのかが分かる。

そして1942年からは最大のユダヤ人即時・直行の殲滅施設としても使用された。裸にさせられた人々は小さなガス部屋に200人ほどきつきつに立ったまま、元々は殺虫剤として使われたツィクロンBを使って殺害された。

ガス室の模型
ツィクロンBの空缶

ガスを使用した理由は安く、簡単で効率よく殺害できるから。そして遺体の処理はユダヤ人によって焼却炉で焼かれ、遺灰は川などに捨てられた。時には自分の家族や友達の遺体を処理することもあったという。

このように処理役や監視役などは収容者が任されることが多かった。収容者の中でも上下関係を作ることでナチス党員の役割を減らし、効率よく統制をとっていたという。

実際に使用されたガス室
ガス室に隣接している焼却炉

収容者の殺害方法はガス以外にもあった。
監獄として使用された11棟の中庭には「死の壁」と呼ばれる銃殺刑が行われた場所がある。他にも脱走した人々を見せしめとするための絞首台も存在した。

「死の壁」
たくさんの銃撃の跡が残っていた

収容所が使用されて約4カ月後からはいくつかの収容者がナチスへの抵抗を見せるようになった。強制収容所やガス室に関する資料を持って脱走したり、ガス室の爆破を試みた。約900件ほどの脱走があったが25%しか成功しなかった。それほどまでにナチスによるガードが強かったことが分かる。

あちこちに張り巡らされた有刺鉄線


アウシュビッツ第二収容所-ビルケナウ

1942年からアウシュビッツ第二収容所はユダヤ民族のみの大量虐殺が行われる場所として使用された。
ユダヤ人のみに対するホロコーストを「Shoah」という。

ヨーロッパ各国から収容所までの線路を使って多くのユダヤ人が貨物列車によって運ばれた。

入ったら二度と生きては戻れないと言われた入り口
ユダヤ人が運ばれた貨物列車

貨物列車から降りたら、医師とナチス親衛隊によっての「選抜」がされた。
労働力にならない老人、障がい者、15歳以下の子ども、妊婦などはその日のうちにガス室にて殺害された。残った約25%の人は奴隷労働を強いられたという。

約600万のユダヤ人が亡くなったこの収容所。
選抜にて残った人々は第一収容所とは比べられないほどの劣悪な環境で生活をさせられた。ベットは1段4人だが6-7人の時もあったという。

3段ベット
石に穴を開けただけのトイレ

そして1945年1月27日にソ連兵によって収容所は解放された。

アウシュビッツ強制収容所に行った感想と考え

6時間かけて多くのことを知った今回のツアー。
見学の際は必ずガイドさんのツアーを予約することをおすすめする。質問をしたり、ディスカッションしながらのツアーにより、更に多くのことを学べることができた。

また今回、私は真冬に訪れたが、この時期はおすすめしない。特にビルケナウ収容所の見学時は積雪によって覆い隠されて、多くの跡地が見られなかったので他の季節時に見学するのがおすすめである。(かといって夏は暑く、虫も多いらしい。)

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ツアーを終えて、一緒に見学した友達と感情や考えを話した。
その時に感じたこと、思ったことをここではシェアしたいと思う。

まず、一国の政府や国のトップの人たちが「どうやったら効率よく人を殺せるか」を考えていたこと、そしてこれらの残忍な行為すべてが「普通の人間」によって行われていたこと。そのような事実を知り、ただただ怒りと悲しさを感じた。

こんな非人道的な行為をどうやったらすることができるのか、と心から思うと同時にいくつかの疑問が残る。

ナチスは第2次世界大戦で負けそうな時でさえ、軍事戦力に力をまわさず、敗戦の最後まですべての力をユダヤ人の殲滅に使った。負けたら反ユダヤ主義を続けられないのにも関わらず。
どうしてなのだろうか。

そして、反ユダヤ主義が当時のドイツをまとめるためのプロパガンダなら、どうしてここまで残忍な方法を選ばなければならなかったのだろうか。

そんなことを考えると、ホロコーストって結局なんなんだ、と思う。

しかし当時のドイツにとって、ユダヤ人は悪であり、ユダヤ人の殲滅が正義だったのであろう。ユダヤ人商人によってドイツ国民が苦しんでいることを本気で信じていた。団結することでドイツ人の栄光と繁栄を取り戻さなければならないと主張するナチスが正義だった。だからこそナチスに多くの国民が投票したのだろう。

大衆心理を利用しての大衆迎合。

民主的選挙によって選ばれたヒトラーとナチ党。結局、国民自らの手で選ばれた指導者がこのような残忍な行いをするのかと、とても怖くなった。
民主主義の恐さを感じた。

では強制収容所を解放した連合軍 アメリカ、イギリスやソ連は正義なのだろうか。
ユダヤ人の殲滅に関する情報を早くから知っていたにも関わらず、見て見ぬふりをして、1945年まで解放しなかったのはなぜなのか。ビルケナウ収容所に繋がる線路を壊すだけでも多くのユダヤ人が助かったかもしれない。
しかし当時ナチスを悪として戦っていた彼らからしたら、ナチスを負かすことのみが正義なのだろう。

なら、正義ってなんなのだろうか。
人々が争い時に持っている正義は果たして本当に正しい義なのだろうか。

第二次世界大戦から75年以上経った今でも、戦争は絶えず起きている。争っている互いが自分の国と国民のためだという正義を持って。

しかし戦争や紛争において正義なんてないと私個人では思う。
同じ人間にも関わらず、人種による差別や偏見によって人間が人間を殺す、そんな悲惨な争いにおいて人の道にかなっていて正しいことなんてない。

何が正義なのか、人々が考える正義そして自分の考える正義は本当に正しいのか。
アウシュビッツ収容所の見学を通して、このようなことを考えさせられた。

私はまだまだ勉強中の身であるし、まだまだ考えが不足している部分があると思う。そして今回、自分の考えを文章化するのが難しかったため、文章におかしな部分もあると思う。だが、今回の見学で得られた知識や深まった考えをシェアしたかった。

多くのことを考えさせられたアウシュビッツ収容所の見学。
ぜひ多くの人にアウシュビッツ収容所を訪れてほしいと心から思う。

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