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アントニオ猪木的思考

巨星が逝かれました。
アントニオ猪木氏本人については、いくらでも語ることができますし、実際マスコミや動画であらゆる方々がおのおのの思いを綴っています。
私自身も、いつかまとめてみたいとも思いますが、本日は違う視点で書きたいと思います。

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…思えば、単なるプロレスラーや政治家ではないスケールがありましたが、個人的に重要なのは、その思考・考え方に大いに影響を受け、こういった自身の文章にも多大に反映されているだろう点であります。
タイトルの「猪木的…」の“的”は、中国語で“~の”、“~な”、などと訳されます。
この場合の影響というのは、本来の「猪木さん“の”考え方」に沿ったものというより、それによって派生した「アントニオ猪木“な”思考」の多種多様な解釈論に刺激を受け、自分の生き方や思考法に反映させてきたというのが正しいかもしれません。
言葉を変えれば、猪木さん自身を越えた“猪木ワールド”的な言語空間が形成され、独り歩きしていったのですが、それ自体に思考が吞み込まれてしまった、…そんな言い方の方がしっくりくる気もします。

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ことの発端の一つは、村松友視による「私、プロレスの味方です」にあったのかもしれないし、井上義啓編集長による「週刊ファイト」にあったもしれません。
このあたりが、「週刊プロレス」の2代目編集長ターザン山本の“活字プロレス”や、エスエル出版会等のアンダーグランドな言論を隆起し、一般的なプロレスファンの上位概念的なマニアをいくばくか生み出したのは承知のとおりであります。
また、この流れの中にUWFという新しい格闘理念を持った存在が、新たに跋扈したことで、単なる勝負論を超えた“裏読み”や“謎かけ”が一般化、悪く言えばより極度なマニアの多量発生を招くのですが、そういった一連の出来事が、のちのちのインディーの台頭や、格闘技の隆興へ連なっていくのですから、世の中不思議なものです。

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思えば、新日本プロレスにハマったのはタイガーマスクがきっかけでしたから、小学校4年の頃…1980年の頃の話になります。
その後、第1次UWFは1984年4月11日に旗揚げ、以降新日本との業務提携をえて、ふたたび第2次UWFをたちあげるのが1988年です。
したがって思春期の大部分、感受性豊かなこの時期に“プロレス”という、えらい大河ドラマを見せてもらった、見続けたことになります。時期後半になるとプロレスの中継もゴールデンタイム撤退を余儀なくされていき、当時は公式のビデオソフトも配信動画もなく、俗にいう中継をダビングした“裏ビデオ”も高かったこのころ、多くの情報を雑誌や書籍に頼っていました。
つまりは、先にふれた“猪木的言語空間”をきっかけとする活字の活況に身を浸していたということですね。

わたしは、週刊ゴング派でしたから、直接ターザンの毒牙にはかからなかったものの、そのハッタリめいた“名文”はいやがおうでも目に入りました。
当時のゴングの編集長だった清水勉だって、それを受け継いだ小佐野景浩金沢克彦各氏もその影響からは逃れられず、プロレスという本来は曖昧な定義を、その記者の人生なりに反映させた文章にして書かねばなりませんでした。
その空気感は同時代に全盛を誇ったプロレスラー、すなわち長州力天龍源一郎、そして前田日明らにも作用を及ぼしたのは確かで、その流れはのちの四天王や黎明期の総合格闘技にも、確実に反映されていったと言えますね。
そう考えると、そういった思想が色濃く伝わってくる各雑誌を熟読することで、プロレスを通じてあらゆる物事をとらえなおす、考え直すという作業を毎週していたようにも思います。こうした人生の延長があったゆえなのか、2017年に上梓されたプチ鹿島著『プロレスを見れば世の中がわかる』が凄くしっくりきたのも納得なのでした。わたくしのこの拙文に何かしらシンパシーを感じた方には、ぜひお勧めしたい一冊です(政治的思考は真逆なんだけどねw)。

そして、話を戻しますが、そうした思考実験的な言語空間のきっかけが、コンプレックスの裏返しである“過激なプロレス”にあり、当初それを言語化できなかった猪木氏本人に代わって多くの方が成文化を試みた結果、複雑にマット界に、そして社会に影響を与えていたのだ、と再確認したのでありました。

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