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編集長にあこがれて

子供のころの夢は、このツイートを見てもわかるよう、雑誌の編集長でした。

そもそもの編集長という存在を意識したのは、雑誌「ふぁんろ~ど」の“イニシャルビスケットのK”こと、浜松克樹氏を知ったことによってでした。
氏はサブカル雑誌の先駆けであった月刊「OUT」誌において、アニメ企画を乱発…好評を得たことで、雑誌自体を(当時まだ他出版社では存在していなかった)アニメ誌にまでしてしまった御仁です(当時は、編集長ではなかったようです)。
これについては、当然批判もあったようです。昨今話題wのサブカル誌「Quick Japan」がギャルゲー特集をしてto heartのマルチを表紙にした時も、様々な議論があり、「OUTのようにならないで」などという意見があったのを思い出します…。
そのOUT誌の発行元のみのり書房をやめて作ったのが、2次創作を前提とした読者投稿雑誌「ふぁんろ~ど」だったわけです。
たぶん、伝説のサブカル雑誌「ビックリハウス」のオタク版を作ろうとしたのじゃないかと勝手に推察しますが、二次創作やコスプレ、さらには同人誌やコミケットという存在自体を世に紹介していくのに、初期段階において多大な貢献をしたことに間違いありません。

これが中学1年の時でして、前後してふぁんろ~どは「ファンロード」とな改名し、よりメジャー化していきました。
結局、アニメ雑誌となったOUTの方も、他ではありえないパロディ企画や読者投稿を重視した姿勢を貫いていたので、ともにライバルのように語られだしたのです。OUTの編集を浜松氏のあと、引き継いだ方は幾人かいましたが、本人が紙面に登場し、あまりにもバカバカしい企画を連発し名物編集長として君臨したのが大徳寺哲、いわゆる大徳哲雄氏ですな。
読者も自らを“ローディスト”、“アウシタン”と名乗るようになり、このへんもビックリハウスの“ハウサー”のノリに繋がるところがあったかもしれません。

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やがて私は、思春期真っただ中のなか、音楽やプロレス(格闘技)といったサブカルチャーに触れていくわけですけど、まず自分は情報を集める媒体として雑誌を重宝していました。
そこで編集長の名がド~ンとあると、ついついその影響下に置かれてしまう傾向があったのです。

…っていうか、この顔ぶれだけでも、偏った感性をまき散らす変なメンツばかりです(※ロキノンは増井修氏のミス、たまによく間違えるんだけど増田勇一氏はミュージック・ライフの最後の編集長ですね)w
…皆、自分の帝国を作り上げ、読者という奴隷をかこみ好き勝手にやってたわけ(じゃないとは思いますが、なんか、いいな~と思ってたのは確か)ですから、そりゃあ、あこがれの職業になろうというものですw

この流れで、ちょっとプロレス誌のことに言及しておきますと、中学から大学時代にかけて、私は“ドクトル・ルチャ”こと清水勉氏が好きだったので、ターザン山本氏の毒牙にかかることはなく、以降の小佐野景浩、金沢克彦両氏の時代もとおしての「週刊ゴング」派で、始終反「週刊プロレス」サイドだったのは幸いだったと思いますw
そのゴング誌が、やがて会社乗っ取りのような形えて、廃刊になったあと(あと、最終編集長の木幡氏が非常につまらない感性だったこともあり)、かといって週プロの軍団にも下るのがやだったので、あくまで定期購読紙としたのはタブロイド版の「週刊ファイト」でした。そこでわざわざいい年して井上(義啓 )イズムに改めて触れ、このターザンの師匠筋に薫陶を受けていたのですから、人生おもしろいものです。 
ただ上に書いてるように、ターザンは面白いは面白いというか、飛びぬけた感性と、文章の表現力の部分で、感服はしてはいました(大きな大会があった時は両誌を購入比較していたので)。
なので、あとあと直接「紙のプロレス」誌とかで触れたときは、困ったおやじだと思いつつ、客観的に判断でき、キャラクターとして楽しく接することができたのでした。

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まぁ、プロレス雑誌の話が長くなってしまいましたが、音楽誌に関しては、以前ちょろっと記事(洋楽誌の思い出)にしたように、青春の自分史的な感じになってきますので、さらに、またまとめなおしてみたいですね。
特にヘヴィメタル専門誌の「BURRN!」編集長・酒井康氏に対しては、田舎の中学生に対して、よくもまぁイロイロと偏って吹き込んでくれましたなぁ…という思いが強く、そのへんも含め何かしら書きたいと思いますw


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