見出し画像

明智光秀の背後に秘密結社?数ある都市伝説をまとめてみた

現在NHKで放送されている『麒麟がくる』は明智光秀の生涯を題材にしていますね。

明智光秀と言えば戦国時代に織田信長を裏切り、本能寺の変で主君の織田信長を討ったことで有名です。

本能寺の変のあと、明智光秀は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の追手に山崎合戦で敗戦し1582年に死亡します。

明智光秀の誕生年は1528年という説と1516年という説があり、出生の地も明智城(現・岐阜県可児市)という説と近江国(現・滋賀県)で生まれたという説に分かれていてハッキリとしません。

ここでそんなミステリアスな明智光秀の都市伝説的をいくつか紹介していきます。

明智光秀=天海説

都市伝説好きには有名な戦国の都市伝説ですね。

そもそも天海ってどんな人なのか。

天海は天台宗(中国を発祥とする大乗仏教の宗派のひとつ)の大僧正ですが、天海もまたはっきりとした生まれはわかりません。

少なくとも安土桃山時代から江戸時代初期までに存在をして100年以上生きたと言われています。

そんな天海は徳川家康の参謀役として大活躍をしました。

関ヶ原の戦いでは軍師とし活躍をし、関ヶ原合戦屏風にも鎧兜姿の天海が描かれています。


さらに徳川家康が幕府を開く際の本拠地について天海に相談をして「江戸が最適」と助言したとも言われています。

また、江戸の街は天海が設計したと言われており、建設した際に平将門の霊を守護神にしました。

平将門といえば日本三大怨霊の一人でとても有名で、その呪いはオカルト好きならだれもが知っていますよね。

平将門とは、平安時代中期の関東の武士です。

10世紀に活躍し、平将門は「新皇」を名乗り、なんと日本から独立した別の国家を関東に作ります。

しかし、940年2月に朝廷(京都で天皇を中心にし政治をしていた政府)に攻められたのちに将門は戦死。

その後京都でさらし首にされました。

しかし将門の無念の想いは強く、生首は目をカッと見開きカラカラと笑った後、目を光らせながら自分の胴体を求め、関東地方に飛び去ったと伝えられています。

文字にしても凄ましい描写ですが、実際にこれを見た人が本当にいたとしたらきっと何人かはショックで倒れたかショック死したことでしょう、、、、。


江戸幕府は東京に朝廷の抑止力として、そんな朝廷への恨みが強い平将門ゆかりの神社や建物を建て、さらに平将門が信仰していた妙見菩薩のシンボルである北斗七星の形で建物と建物を線上で繋がるようにして、江戸に平将門の魔力で結界を張らせます。

この結界作りに天海の助言があったと言われています。

ちなみに、後に幕府を倒幕することになる明治政府は、靖国神社や築地本願寺墓所など、明治政府の為に亡くなった方の力を守護霊とする新しい結界を東京に作り、結果、将門の結界を壊します。

しかし、関東大震災の影響で築地本願寺墓所が移転することになり、この結界は崩れてしまいます。

その結果が崩れた方角からB29がやってきて、東京大空襲が決行されてしまったという平将門の呪いの都市伝説は有名です。

話はそれましたが、天海は僧侶にして徳川幕府の参謀として、重要な関わりをしていました。

この天海こそ実は生きていた明智光秀なのではないかと言われています。  

そもそも明智光秀は山崎合戦で戦死して、その首は本能寺で晒し首にされました。

しかし、その生首の腐敗は酷かったと言われていて本当に光秀の首だったかは信憑性に欠けます。

また、明智光秀とおなじく天海も出生の殆どが謎とされていますが、一方で明智光秀の生年は1528年頃とされ、天海の生年は1536年と云われているので年代的にほぼ一致しております。

光秀は織田信長、天海は徳川家康、共に天下人になる直前に重要人物として突如現れるあたり怪しいですね。

そして、明智光秀=天海説の前提として、明智光秀は死んでいなかったという証拠が必要です。

その証拠を隠したとされる暗号があります。
それは都市伝説でもお馴染みのかごめかごめです。

かごめかごめに隠された暗号とヒント

ここで、かごめかごめが明智光秀生存の暗号と天海との繋がりのヒントが隠されていると言われる内容をいくつか紹介します。

かごめかごめには鶴と亀がすべったという歌詞があり、日光東照宮には鶴と亀が対になって飾られている所があります。


日光東照宮は天海の主導で建造されました。

一方、明智光秀が統治していたのが敦賀(つるが)と亀岡です。

鶴と亀がすべったは「鶴と亀を統べった」→「鶴と亀を統治した」→『敦賀と亀岡を統治していた』と解釈され明智光秀のことを伝えていると言われています。

(ちょっと強引な気もしますが都市伝説はだいたい強引ですので)

また、最初の歌詞『かごめかごめ』のかごめとは、竹で編む籠目でその形は六角形です。

この六角形は六芒星を表しています。

では光秀と六芒星がどう繋がるのか。

これは明智光秀ゆかりの地である土岐、明智神社、日光東照宮、江戸城、駿府、佐渡金山を日本日図で辿ると「六芒星」が地図上にできます。


(※徳川家だけのゆかりの地を辿っても籠目になり、その中心は日光東照宮とされています。日光東照宮に徳川埋蔵金が隠してあるという説は有名ですね)


最後の歌詞『うしろの正面だれ』は明智光秀の出身地とされる岐阜から日光の方向を見た時のうしろの正面には明智光秀の唯一の肖像画を所蔵している本徳寺(現岸和田市)にあたります。


その光秀の肖像画には「放下般舟三昧去」と書かれており、その意味は『仏門に入り去っていった』という意味だそうです。

つまり光秀は本能寺の変から生き延び、この寺に辿りついて、その後寺を出ていったと読み取れます。

ちなみに関ヶ原の戦いで天海は鎧兜姿で合戦に参加したと言われていますが、僧侶が合戦の最中に飛び込むでしょうか。

もし、明智光秀がその正体ならば納得もできます。

以上のことから、かごめかごめが明智光秀が生きており、天海が建設に携わった日光東照宮が天海=光秀のヒントとなる説でした。

そのほかにも多数の明智光秀生存説や天海説を裏付けるヒントがあります。

延暦寺松禅寺ににある謎の石燈籠について

天海は比叡山延暦寺で天台宗を学んだとされており、織田信長によって焼かれた比叡山延暦寺の再興に携わったとされています。

そんな天海の名が比叡山延暦寺にあれば理解できますが、比叡山延暦寺に光秀の名前が書かれた石燈籠あります。

この石燈籠の裏側には「慶長二十年二月十七日 奉寄進願主光秀」と刻まれているので、明智光秀が死んだとされる1582年より後の1615年までは生きていた証拠になります。

そもそも光秀は織田信長の命令で比叡山延暦寺を焼き討ちにし多くの人を焼き払った人物です。

何故、光秀の名前が有るのかは謎ですが、天海が光秀ならば話は合います。

日光東照宮にある家紋について

東照宮は徳川家康を神格化して祀った神社です。

中でも日光東照宮は、総本社のような特別な存在です。

先にも書いたとおり、日光東照宮は天海の指揮で建築されました。

その日光東照宮には何故か明智光秀の家紋「桔梗紋」があります。  

※織田信長の家紋という説もあります。
(家康と信長は親戚関係にあたる)

斎藤利三の娘春日局のうっかり発言について

また、光秀の家老斎藤利三の娘である春日局は徳川三代将軍の徳川家光の乳母になります。

その際、初対面なのに春日局が天海にお久しぶりですとうっかり言ってしまったという話もあります。

そもそも、明智光秀はなぜ本能寺の変で謀反を起こしたのか

明智光秀が織田信長を謀反で暗殺した理由については諸説ありますが、はっきりとした事はわかりません。 

一般的には長年積もった恨み説が濃厚とされていますが、本当にそんなことで謀反を起こすでしょうか。

本能寺の変には黒幕がいたと考えるのが定説で徳川家康説、豊臣秀吉説など色々とありますが、キリスト教が絡んだ都市伝説が一つあります。

現に明智光秀の娘は洗礼を受け細川ガラシャと名前を授かっています。

もし仮にカトリック教徒の明智光秀が日本をカトリック国家にするためにテロを行い、当時トップの関白・織田信長を暗殺したとします。

織田信長はもともと自らを神となると公言していたこともあります。

それを危惧し、日本をカトリック国家にしようとしたカトリック教会が明智光秀を利用し信長暗殺を企てた。

結果として、豊臣秀吉は明智光秀を討ち、日本がカトリック国家になることは阻止されることになりましたが。
 
そしてカトリック教会の裏側にはイエスズ会が暗躍していたと言われています。

都市伝説界隈では有名なあのイルミナティは、イエズス会の修道士だったインゴルシュタット大学教授のアダム・ヴァイスハウプトが1776 年に創設した秘密結社です。 


つまり、イエスズ会(イルミナティ)は明智光秀を利用して都合の悪かった信長を暗殺したと考えられます。

ちなみに関ヶ原の戦いで徳川家康に欧州武器を提供して、徳川率いる東軍の勝利に貢献したとされるのはエリザベス女王1世です。

さらにエリザベス2世はフリーメイソンやイルミナティの上層グループ300人委員会の会長と言われています。

明治維新の裏側にはフリーメイソンの力が作用していたという説も有名ですね。


つまりは昔から日本はすでに秘密結社の手の中にいたのかもしれません。

さて、今回は最近話題の明智光秀について都市伝説的なエピソードをまとめてみました。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?