No.953 今の感覚に気づくことだけで私たちの日常は大きく変化する…
私は昨日に引き続き、熊本学園大学前のスタバにいる。
昨日と違って今朝は若者達の姿は少ない。
本格的な春が過ぎていく。油断しているうちにあっという間に過ぎ去っていく春という季節。
昨日も今日もまだまだ春という言葉を使える気候ではあるのだが…
恐らく、残り10日程だろうか、春の匂いを身体全体で感じられるのも…
私はスタバのテラスにいる。
雨上がりのテラスはしっとりしていて、木々たちの匂いが私の身体全体へと染み入る。
まだ、青臭い新芽の匂いがする。
その青臭い匂いは私の鼻から身体へと入り、清々しさを私にもたらす。
少しの物悲しさをふと感じる。
何か満たされないものを抱えながら、そのぽっかり空いた私を埋めようとしている。
楽しいことはすぐに過ぎ去り、その後に残るのは何か満たされない感覚である。
この感覚は昔からの馴染みの感覚だ。
私はゲシュタルト療法という心理療法に出会い、学び、実践して18年が過ぎた。
月日の流れは早いものだ。
私がこの療法を学び始めた頃には、こんな感覚にも出会えなかった。
感覚に出会うということ=感覚に気づくということである。
ゲシュタルト療法の真髄はそこにあるのだ。
そんな感覚があることに気づくことさせできない人々が殆どである。これは誇張しているのではなく、実際に気づかない、気づきたくない人々は多い。
何故なら、気づかないように覆い隠していた方が生きやすいと思っているからに他ならない。
そのことに気づくと私のこれまで作り上げてきた人生が壊れるという恐れを無意識に抱く。
しかし、本当は真逆であることを誰も知らない。
ゲシュタルト療法では無意識を気づいていない状態と観る。
身体の感覚としては既に気づいているのだが、私たちはそのことにただ気づいていないだけである。
私の中に何か満たされない感覚があることに気づくことで、その感覚に注意を向けることが可能となる。
しかし、気づかないならそのことが日常に浮上した時、その感覚のなすがままにならざるを得ない。
例えば、私はこの満たされない感覚を満たすために無意識に他のもので満たそうとするかもしれない。
それが食べ物であったり、ギャンブルであったり、他者であったりするかもしれない。
私たちの欲求は充足するまでそこに居続ける。
充足しなければ、満たすための何かを繰り返してしまう。
これはゲシュタルト療法で言う図と地の関係性と同じである。
私がこの感覚に気づき、この感覚の意味を理解したなら、この満たされない感覚が私の日常で表れたとしても、その感覚に巻き込まれることはない。
何故なら、この感覚はこういう過去の出来事から私が手にしているものなのだ、ということを私が理解できるからだ。
これによって、私の満たされない感覚=過去の出来事の感覚ということを私が身体全体で理解することで、私の満たされない感覚を他の何かで埋めようとする行為はなくなる。
気づくこと=私の感覚のアップデートだとも言えるかもしれない。
ただ気づくことで私の感覚は一つの方向へと統合され、進めるようになる。
私は私の満たされない感覚に注意を向けると親の愛情をもっともっと受けたかったという思いが浮かび上がる。
そして、この親の愛情という言葉と感覚とを照合すると慈しむように私を育ててくれた両親の気持ちが私に伝わるようである。
これだけで私の満たされなかった感覚は、両親への感謝の感覚へと大きくシフトした。
ゲシュタルト療法の真髄である、気づきはシンプルであるが故に本物であり、気づくことだけで私たちの感覚は大きく変化するのだ…
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