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No.939 秋の夜長に物思いに耽る…

9月も中旬になると秋の夜長という言葉がピッタリする季節だ。

スタバのテラスで寛いでいても暑くもなく、寒くもなく、涼しい風が私の身体を通り抜ける。

そして、まだまだ先の話なのだろうが中秋の名月と言う言葉が浮かんでくる。

そしてこの言葉は、子供の頃、夏の六月灯、秋の夜祭りがとても楽しみであったことを思い出させる。

私は鹿児島でずっと育った。鹿児島の夏の風物詩と言えば六月灯という各地で行われる夜祭りだ。旧暦の6月(今の7月頃)に行われる。

その季節になるとどの町内でも必ず六月灯がある。
その時期には子供の私たちは毎日のように六月灯に行ったものだ。

何処でいつ六月灯が開かれるのか新聞で確認できるのだ。それを調べて自転車で行ったりしていた。

何が楽しみなのかと言えばやはり夜店を色々と巡り、食べ物を頬張りながら友達と近くの空き地や川沿いで花火🧨をするのだ。

その頃はロケット花火が面白くて、二手に分かれてロケット花火による打ち合いをしていたものだ。

本当に楽しかった思い出が蘇ってくる。

秋になれば夜祭りが楽しみだった。中秋の名月の頃、町内の人々がより集まって舞台での歌や踊り、相撲大会などの催しがあった。

私が一番楽しみだったのは子供達の相撲大会である。

どちらかと言えば私はその方面には強かった。だから当然に勝ち抜いて横綱を決める最後の大一番まで残ることとなる。

殆どが毎回同じ相手との一番になる。際どい相撲で取り直しになることもあった。子供心に何か自慢げな気分を味わった。

そして父や母が見つめる中で、父母の喜ぶ姿がまた嬉しかったのだ。

そんな夏から秋にかけての楽しい日々が懐かしい。

今となってはそんな無邪気で一途な気持ちは持ち合わせていないのかもしれない。

あの子供の頃の気持ちを今また取り戻したい、味わいたいと思うのは可笑しいだろうか?

誰もが味わった子供の頃の楽しく、ワクワクとした思い出。
そんなものが今の私を確かに形作っている。

秋の風が私の身体を通るたびに、夏とは違う侘しさなのか寂しさ、儚さなのか、幾重もの感傷が私の身体全体へと入り込んでくる。

それは歳をとったからの感傷なのだろうか?
それもと子供の頃に戻りたいと願っているからなのだろうか?

私の中には子供の頃に持っていた子供心と言う無邪気さや好奇心がまだあると思いたい。

何も考えず、ただ心の赴くがままに過ごしていたあの頃は成功するとか、失敗するとか、良いとか悪いとか、そんなことは何も関係なく、ただ感性のままに絵を描いたり、友達と遊んだり、自由であった。

私たちは子供から大人への階段の中でいつの間にかそんな感性からかけ離れた思考で考えることを身につけてしまった。

無邪気さや好奇心は影を潜め、何が正しくて、何が正しくないのか、良いことと悪いこととはどう言うことなのか、正しく生きるための枠組みを手に入れてしまった。

今からでもまだ遅くない。
無邪気さや好奇心を取り戻したいと願う。

アラカンの私がそんなことを言ってもと思うかもしれない。しかし、そんな感覚はいつまでも持ち合わせていたい。

私の中にある子供の部分を久しぶりに表舞台へと登場させたい。

秋の夜長にそんな物思いに耽っている今である…

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