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#読書の秋2022 『吸血鬼ドラキュラ』読了

先日書いた『吸血鬼ドラキュラ』を読み終えたので、読みながら感じたことをつらつら書いていこうと思います。

まず読み始めてすぐに「おや」と思ったのは、三人称ではなく誰かが書いた手記、日記、手紙、新聞掲載記事など『誰かの視点で書かれたもの』を読むという形式で始まることです。
これははじめは「こういう形か」というくらいのものでしたが、クリスティの『アクロイド殺し』という前例を知っていると「書かれているものはすべて真実か否か、ここに書かれていないことがあるのではないか」という気分が湧いてきます。

これについては最後に登場人物のひとりジョナサンが指摘しているのですが、それに対してヘルシング博士は「誰かに信じてもらおうとは思っていない」と言っている形を取るのはうまいなと思いました。

作中に登場するドラキュラ伯爵も、よくイメージする姿では登場しません。
そのことも意外でしたが、フランケンシュタインの姿が映画から生まれたのと同じようなものだなと納得はしました。

意外だったのは伯爵退治に向かう面々がヘルシング博士以外にも数名いたことはぼんやりと知っていたのですが、ヒロインであるミナ・ハーカーの最初からの関係者ではなく彼女の友人のルーシーに婚約を申し込んだ面々が主だった人たちだったというところです。
なんならミナが主軸になるのはかなり後半になってからです。

退治そのものはかなりあっけないものですが、そのための追跡や調査が話の軸になっているところには『バトルもの』ではなく『冒険譚』というほうを強めて作られていると感じました。

ハマー・フィルムで見ていた『吸血鬼ドラキュラ』はヘルシング教授が女たち含めてたったひとりで超人のように対峙していますが、原作では女たちにトドメは刺しましたが伯爵を倒したのは他の面々であったりとこれまで思っていたものとは違うものがいろいろと見れました。

『前提を知っているつもり』という作品は多いですが、あくまでそれは「知っているつもり」でしかないなということを改めて感じました。
そもそも『吸血鬼』そのものをブラム・ストーカーが生み出したわけではないのですから、そのことを知るためにはしっかりと勉強する必要があるなとも思いました。

温故知新などいいますが、意識的に古いものは触れないと機会を作れないので、これからも機会や「知ろう」と思ったときには動くようにしようと思いました。
ひとまずはこちらの本から始めます。


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