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凡庸“嫌悪”雑記「年賀状」


いよいよ年末に近づいてきた。今年も早いものだ、と、言うのはあまりにも陳腐。そうは思っていても、毎年、同じ言葉をつぶやいてしまう。

年末と言えば、年賀状だ。考えるだけで、ズシリと胃が、足が、肩が、運命が、人生が重くなる。どうして、こうまでも年賀状は、色々あったけどそれなりに順調に過ごしてきた一年を、暗く重いものに一変させてしまうのだろうか。


さて、今日会社の机の上に、にっくきそれが置かれていた。それも、束でそれなりに。

一体これは何かと尋ねると、一筆書いてくれと。せっかく綺麗に印刷されているのに、我が悪筆でそれをわざわざ汚すのか。そう、返す。

それに、書く場所も猫の額。一体何を書くべきか。忙しい時間を割いて行う必要はあるのか。悪筆に誰が喜ぶのか。卒倒して、取引停止になるかもしれない。

などなど、見るのも触るのも嫌悪する年賀状に、聞くに絶えない悪態をつくと。とりあえずは今年はやらなくていいと、目の前から引っ込めてくれた。

ただ、気の弱い宮仕の性。思ったほど仕事が立て込まず、ぽっかりと時間が空き。呆けて座っていたので、この姿を見られてしまうと、心象が最悪になってしまう。

忙しくて、そんな無意味で無駄なことを行う暇など、金輪際ありはしない。なんて啖呵を切っていたはずなのに、それなのに、人としていかがなものかと、後ろから指か刃物か刺されるかもしれない。

そこで、再び年賀状の束を机の上に置き、少しでも気分が上向きになるように、最近ご無沙汰だったペリカンの万年筆を取り出だし、なるべく簡単な言葉を綴る。

内容はこんな感じ。

「旧年中は大変お世話になりました。本年も変わらずお付き合いのほどよろしくお願いいたします」こんなことを書いた。そうだと思う。書いた後は忘れたい現実として、忘却の彼方に行ってしまったようだ。

ただ、こんな気が進まない行為でも、久しぶりに感じた喜びがあった。万年筆の滑らかな書き味を五感で感じながら、文字を書く。その、実感的で原始的な人としての喜びを味わうことができた。

最近、手で文字を書くなどと言う行為は、驚くほど激減した。ましてや、人様に何かを伝えるための外交的な意味合いの文字など、人生の周辺からは駆逐された。悪筆の身としては、それは失われた悲哀ではなく、あまりにも醜く不自由な肉体から解放された、文明の勝利の恩賜だった。

それが、心と体が全面的に拒否をしながら、一枚一枚文字を綴っている時。指先が滑らかに紙面の上を動く心地良さと、不用意に人と意識が接触するかもしれない希望が交差して、感情の中に滑り込んだ。

そして、こう思った。

たまには、これからも、これからは、紙と筆で悦に入ろうかと。

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