凡庸”未来”雑記「のん」やっぱり天才って......
「未来」
オーディブルで、「未来」を聴いた。
湊かなえの小説。名は知っていたが、詳しくは知らなかった。20年後のじぶんからの手紙が届けられる。その、説明文が気になり、聴いてみた。
丁度、村上春樹の騎士団長殺しを聴き終わった直後。これも、あの世とこの世の狭間を描いた、幻想的な物語なのか。そう、不要な期待をしながら。
予想を反し、行けども行けども、出会えども出会えども、見事なまでに、現実的な不幸。横に逸れる、異世界など、皆無。
現れる複数の人物全てが、見事なまでに、不幸のきっかけにつまずき、愛してくれている人の、淡い想いを黒く塗りつぶして、落ちていく。
あんまりにも、誰も彼も、眼も当てられない哀しみに、捕まえられる有様を、見ながら(聴きながら?)、あまりにも具合の良い不幸ぶりに、失笑してしまった。
さすが、小説。こうもうまい具合にならないと、面白くはなかろう。と、不遜な想いを、付け加え。
過去の思い出、不幸を最後まで見つめる
特に、少女の学校でのいじめや、家族とのゴタゴタは、結構きつかった。30歳までは、学生を扱った、映画や、ドラマを観ることが出来なかった。色々あったもんで。推して知るべしだ。とにかく育ちが貧相で悪い。
もう、数十年経って、ある程度、記憶力の悪さのおかげで、過去がぼんやりと見えるようになり、捕まえられることは少なくなる。今では、iPadの中の学生服の少年少女たちを描いた悲喜交々を、全く他人事として、傍観することができるようになった。
だけど、嫌な、苦くざらりとした、人の無邪気で悪行を、希望もなく、絶え間なく見せつけられ、すっかり舌の上に味わい戻し、意気消沈してしまった。
”のん”のおかげ
もう、辞めてしまい、もう少し、気楽で朗らかなものでもと、一歩手前まで行ったのだけど、結局、最後まで聴き続けることが出来たのは、ひとえに、彼女のおかげだった。
朗読は”のん”だった。
昔、能年 玲奈で、活躍していた。「あまちゃん」で一世を風靡する。なんとも、凡庸な紹介をすると。
一時期、猫も杓子もあまちゃんの彼女と、引っ張りだこ。映画やドラマにいくつも出ていた。が、当時の僕は、あまちゃんを観ていなかったし、側から見る童顔とぼんやりしした声が、どうも琴線に触れず、さほど興味を持たなかった。
そして、この小説のように、誰からも愛されていたはずなのに、あれやこれや、問題たちが、彼女を表から、落としていった。と、思う。ネットニュースを時々見る限りでは。
皮肉なことだ、それとも、人を見る目が僕にはないのか、それからようやく、彼女鋭敏で的確な表現を知ることに。大袈裟な言い分だ。
素晴らしかったのが「この世界の片隅に」
よくある、少し名の知れた人を使う、アニメ映画の一つだろうと、期待していなかった。だけど、案外、漏れ伝わってくる声では、褒めている。それも、ベタ褒め。
ほんの少しの期待と、肩透かしのための注意を胸に秘めて、映画館に走った。が、全くの杞憂。なんだろう。彼女が何かの表現をするときに、憑依する何かが、こめられる。これを、天才と言うのだろうか。そう、天才だ。つまらない表現をすると。
「未来」の彼女はそれ以上の存在
今回の、「未来」の彼女は、その時の、それ以上の、存在だった。
朗読だ。演技ではない、かえって不要だ、気を抜いて、散歩のついで、運転の慰みもの、仕事中の暇つぶし、などなど思い、聴き始める。
あゝ、そんな態度が、まったく出来やしない事を知る。
装飾を廃した、朗読、だからこそ、吐息の細やかな強弱、朗読の確かな長短が、意味を色こく持ち、余計な感情を不要にしつつも、純粋な物語を紡ぐ。
もちろん、表れては消える人々の性格も行動も、体躯も違う。それに合わせて、最低限の声色を変える。それが、違うのだ。それぞれの、人の命が憑依しているのではないか。そう、錯覚し信じさせる巧みさだ。
正直、こんなにも、不幸満載の物語なんて、たださえ人嫌いなのに、その症状がぐんぐん悪くなっているのを感じ、小説が終わるのが早いのか、僕の人生が終わるのが早いのか、背筋がゾクゾクしていた。
それが、どうにも辞められずに、結果、最後の「未来」みたいなものを見せられた場面まで、たどり着いた。
それは、はっきり言って、”のん”の朗読のおかげ以外ない。
で、こんな事を書くと、この小説の質や内容がとやかく、うんぬんだが、人の人生を、真正面に忖度無く、描き切った秀作だと思う。彼女の朗読に素直に感謝している。
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