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非難する人、閉塞する社会(社会心理学)

芸能人の発言や行動に何か過失があると、徹底的に責め立てる。いつから日本はこんな社会になってしまったのだろう? 人を非難することに躊躇することなく掲示板やツイッターなどで相手を攻撃します。芸能人は目立つ存在だし、言動や仕事ぶりは人の模範となるべきところはあるかもしれないです。相手を正すという意味で「批判」はいいかもしれません。でも今の日本は取り上げて責め立てる。

これはただの「非難」です。

非難は人の欠点や過失などを取り上げて責めることを言います。批判は誤りや欠点を指して、正そうと論じることです。

非難の根底には、あふれる嫉妬心と自己主義が見えます。

こうした非難は芸能人だけでなく一般の人にも向けられます。以前、テレビで募金活動をする若者たちを密着していました。彼らは募金活動の合間に、ツイッターで自分たちの行動が誰かによって非難されていないか確認しているのです。「ネコババするんじゃないか」などという発言が以前にあり、そうした言葉に怯えていました。自分が良いおこないをできないのに、できている人に嫉妬心をぶつけるのです。

また最近の公園ではめっきり子どもたちの賑やかな声が減りました。子どもたちは公園の端やどこかの室内でひたすらゲームをやっているのです。なんでそんなことをしているのかと聞くと「大人たちにとってぼくたちは迷惑だから」と言います。屋外で声を出して遊んでいると大人から「うるさい」と怒られるらしいのです。子どもたちが大人にとって迷惑な存在。「うるさい」ことをただ「うるさい」と反応してしまう自己主義。子供が大人の視線を意識し、迷惑な存在だと認識しながら成長していく国に果たして未来はあるのでしょうか?

◎なぜ人々は非難するのか?

多くの人々がこうなってしまったのには明らかにいくつかの理由があります。

ツールの変化によるコミュニケーションの変化

昔は相手に文句があるときは向き合って言っていました。直接相手の顔をみてしまうと怒りの感覚が薄らぐ、もともと人はそのように出来ています。相手の表情、声の質、言い方で「反省しているのか」「逆に怒っているのか」が容易に読み取れます。これはノンバーバルコミュニケーションと呼ばれるもので、私たちはそうしたコミュニケーションに長けていたのです。しかしそれが電話になり、声質や話し方はわかっても顔がわからなくなったのです。そしてコミュニケーションがもっぱらメール、ツイッター、掲示板になり、相手の感情を考えることなく自分の言いたいことを言い切れる時代になりました。

怒りは行動によって、より高まってしまう効果があるのです。相手と話すと抑制しながらになり、怒りも同時におさまっていきます。しかしSNSコミュニケーションでは、怒りによる非難を書いているうちに次第に怒りがエスカレートしてしまいます。

また匿名社会、他の人もやっているという状況化では没個性化と呼ばれる現象がおき、人は行動がエスカレートして残酷になるのです。サッカーの観戦者が感情が高まり暴徒化するフーリガンと似ている状況になります。

さらに思ったらすぐに言えるという状況も良くないでしょう。怒りは5分経てばだいぶ怒りが収まります。3日経てば文句を言うのも面倒になるのです。しかし思ったらすぐに言える環境があります。少し前までは家に帰って、パソコンを開く間に怒りが収まったものです。今は怒った瞬間にスマホから文句を送信できてしまうのです。

そもそもなぜそんなに怒るのか?

人はなんでも比較して生きています。自覚している人も自覚していない人も比較して判断しているのです。脳の判断基準は過去の出来事との比較なのです。だから過度の比較はいけないが、比較するなというのは構造上無理なのです。人は何でも比較する。ところが最近、比較がエスカレートする心理が高まっています。

たとえば芸能人が海外にサッカーに観戦に行った。前は自分の状況と比較して「さすが芸能人だ。自分もがんばろう」という形になりました。ところが最近は「芸能人、贅沢だむかつく」となるのです。そして後から「今、どこかで大変な人がいるのに不謹慎だ」と後付けの理由をもっともらしく付けて、非難しやすくするという形を作ります。

自分を冷静に見極めて向上心に持っていくのではなく、相手を安易に否定することで自分の気持ちを満たそうとしているのです。自分ががんばって上がるのではなく他人を非難することで下げて、相対的に自分を高めようとしている行為なのです。これはもっとも人が成長しないパターンで、怠惰で非難ばかりする人が増殖してしまいます。嫉妬心が高まっているのは、人が手抜きをしたいと考える行動とも関係ありそうです。そんな側面があるのも感じます。

また最近の心理トレンドである「損失回避性」とも関係していると推測しています。人は得をしたいと考えるよりも損をしたくないと考えます。この感情が高まっていて、大きく人の判断基準を不合理的にしているのです。「自分は我慢して真面目に生きてきた」だから「ずるいことをしている(していそうな)人は許せない」と感じているのです。

◎閉塞する社会

それと同調しないで人の自尊感情が高まっていけば、非難に負けない人間が育っていきます。ところが明らかに人の自尊感情は下がっています。自分は価値ある人間だと思う人が減ってきていて、人の評価を非常に気にしているのです。これもSNS社会が生んだ承認欲求が高まる構造もいけないのです。

このままでは社会は間違いなく閉塞していくでしょう。解放と抑圧を繰り返す人類の歴史から考えても、どこかで何かか爆発するかもしれません。「非難する社会をやめよう」という形で運動が始まればいいが、悪いシナリオとして単に社会を恨む無差別的な事件が増える可能性も危惧しています。

◎ではどうすればいいのか?

私はスマホを捨てる社会が好ましいと思います。ただし利便性を捨てることは、人にとって強烈に抵抗があるでしょう。10人にひとりが捨てても意味がないです。その方向は少しナンセンスかもしれません。

ならば人を「ほめましょう」。悪いことと同時に良いこともSNSに乗ってたくさん現れている。少し良い兆しとして、ここ何年もツイッターのつぶやきトレンドを追っていますが、「誰かの良い行い」「希望を生む言葉」への反応が増えてきていると感じます。この社会に疲れた人たちもいるのではないでしょうか。良いことをした人にはたくさんほめてあげましょう。ピグマリオン効果という心理効果があります。人は怒ると一時的にはがんばるのだけど、中長期的には効果か薄いのです。人はほめて伸ばすほうが中長期的には成長できるのです。人から期待されていると頑張れる心理があります。

良い行いをしている人がいたら、3倍ほめてあげましょう。

3倍あれば非難をかわせる力になります。

本来、良いことはほめられるからやるのではない。当たり前だからやるのです。

しかし病んだ社会を治すには「ほめる」という処方箋が必要なのだと私は感じています。

それから損失回避の性質をとめるために、大人たちが失敗してもよい環境を作ってあげるべきだと考えます。今の若い人たちは「失敗できない」と考えているのです。社会全体がもっと失敗に対して寛容にならないといけません。人は失敗するもののはず。失敗がいけないのではなく、失敗したときにどう対応するのか? 同じ失敗をどうしたら繰り返さないようにするのか。

それを教えるのが大人であり、社会なのではないかと。失敗できない環境は人から挑戦する心を奪います。そんな社会ではいけない。ポーポーはいつも思います。

頑張る人を褒めてあげましょう。ポーポーもそんな世界が来るように努力を続けていきたいと思います。


長文、最後まで読んでいただいてありがとうございました。

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