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人生、ぬるま湯につかる時間を大事にする

 ぬるま湯につかる人生。何の変化もなかったり、居心地良いところから離れない。そんなイメージがあります。たしかに、進歩がない、変化がない、そういう印象の場合もあります。

 ただ、基本は、ぬるま湯につかっている状態。それが自然なはずですし、大部分の時間はそうであることが大事です。実際のお風呂で、くつろぎたい。そういうとき、わざわざ苦痛に感じたりする温度で入らないといえます。自分がくつろげる温度が重要と言えます。

 人生もまた同じで、大抵の時間はくつろげる温度でいることが大事です。ぬるま湯は、楽に、長く、つかることができます。たしかに、このままではいけない。そう思うことはあるかもしれません。それは、単に、ぬるくなりすぎて、もはやくつろげなくなった。そういうことではないでしょうか。その場合は、たまに温度を上げてみたりすればよいのです。変化が自分にとって、さらに心地よさをもたらすといえます。

 そうでなく、他人からみて、ぬるま湯だ。そう思われているかもしれない。だから、温度を上げなければならない。そう思っている場合は、ぬるま湯こそ大事。そう思うことが大事です。

周囲と同じ温度が合わない場合もある

 そもそも、人によって、人生で心地よい温度は異なるはずです。刺激がほしい人は、何も刺激がない人の生活をぬるま湯と思います。しかし、刺激がほしい人もまた、刺激が多いという自分の適温にいるという意味では、同じなのです。どちらも、それぞれの適温で生活しているだけです。

 世間からみて、ぬるま湯だ。周囲からみてぬるま湯だ。それに反応して、自ら合わない温度に飛び込む。それほど、危険なことはありません。なぜなら、自分には危険で、周囲には適温。そんなお風呂に一緒に入っているようなものです。苦しむのは、自分だけといえます。

変化に影響を受けやすい中、懸命に生きている

 ぬるま湯という言葉だと、つい自分を責める要因になります。もしくは、他人がそう見える場合だと、他人を責める要因になります。しかし、誰しもほとんどの時間は、自分の適温で生きているのです。その温度が異なるだけです。

 そして、そもそもいつも同じ温度の中にいれるわけではありません。1人1人が、懸命に生きているからです。ぬるま湯に浸っているように見える、見られる。それは、少しの温度の違いで影響を受けやすいからともいえます。つまり、それだけ、温度の変化で大変さ、つらさが出てくるのです。

 そうだとすれば、ぬるま湯にいるのが長い。それは、大変な中、何とか、人生を生きている。そうともいえます。

 変わらなければいけない。常に刺激を求める。そうした生き方も大事です。ただそれが得意な場合は、そこが、自分にとっての適温ともいえます。変化がないようにみえること。単調のように見えること。それをもって自分を否定する必要はありません。それだけ変化に影響を受けるということです。

自分にとっての適温に浸る時間を最優先する

 そして、やはり、ぬるま湯にいる時間は大事です。ある程度、適温にいないと、つらくなってしまうからです。苦しくなってしまうからです。他人からみて、熱い、冷たい、ぬるいは関係ありません。つらいとき、苦しいとき。自分の適温から離れすぎていないか。それを考え、積極的に適温というぬるま湯につかる。それが、人生を心地よく生きる上で大切といえます。

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